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「性格の糸を変化させる」

Authored By Rev. M.A.F., IN, USA
Translated By Anonymous Pastor, Tokyo, Japan
性格の糸を変化させる性格の糸を変化させる
説教者: マイケル・ フューリィ
翻訳無名
原文:英語
文: (日本語): 匿名
聖書 第1ペテロ4章10ー19節

このメッセージはあなたの内面に関するものです。これは、我々の人生の間中、 変わることのなく留まる我々自身の一部分に関するものです。我々は、幼児、よ ちよち歩きの子、少年、青年、ヤングアダルト、中年の人、熟年、老人となるに つれ異なる顔を持つかもしれませんが、しかし我々の性格としてとどまる心理的 な糸があります。もし人々が「貴方はあなたのお父さんにそっくりですね」とか 「貴方のおじいさんは貴方と同じことをしたものですよ」という時、そのことを さしているのではないでしょうか。このことは我々皆をを逃れさせ、驚かせます。 しかし、聖い生活をするために戦うクリスチャンにとって一つ重要なことは、性 格発展、パーソナリテイの変化の問題です。我々は何年もクリスチャンでありな がら、しかし尚、まだ不足している領域があるかもしれないのです。我々の性格 のいくつかの領域に関しては何年も、もしかすると墓場に至るまで対処する必要 があるのです。良いニュースは、我々は我々自身を救うことができず、我々はた だ、神の恵みにより救われるということです。我々は我々自身を”におい抜き” することができず、しかし我々は我々自身の人生を聖く神に受け入れられる生き た献げものとしてそして見物している世界への道徳的な模範としてささげる責任 があるのです。弟1ペテロからの我々のテキストには信仰生活の一部分としてチャ レンジを期待することを述べています。私は信仰者にとリもっとも大きなチャレ ンジの一つは、内側における戦いを理解することであると指摘します。

弟子であり使徒であるペテロは、記録された彼の人生の歴史を通して継続する彼 の性格の中を通る糸を持っていたのです。ペテロの心を通る一つの糸は、恐れも しくは臆病です。特に彼は彼について他の人がどう考えるかを恐れました。もし 貴方が私がこの説教で述べる理由付けを見ていくなら、キリストのようになると いう賞に向かって一つのレベルの栄光から他のレベルへとそれは貴方の心を力ず け、そして貴方に平安を与えると信じるものです。もし使徒ペテロが彼の基本的 な性格の核心部分において人生にわたる変身を遂げたのなら、我々もそうできる のではないでしょうか...。

マルコによる福音書におけるペテロ

マルコ:1:35-37「皆があなたをさがしています。」大勢の好奇心旺盛な人々が イエスの注目を集めようと来ています。それらの中でペテロは他の人々がどのよ うに考えるかを気にしています。それが彼の大きな失敗です。このことが彼を生 涯の間、害していた。これが彼の性格全体を通る糸なのです。 マルコ9:6 変貌山において、ペテロは恐れており、どのように語るべきか知らな かった。彼の神経質なことばの中で 「3つの小屋を建てましょう」といったの です。

マルコ14章は大変重要です。

場面1: 

29節 「たとい全部の者がつまづいても、私はつまずきません。」

30節 イエスは彼に言われた。「ペテロ、貴方は今日、今夜鶏が二度鳴く前に私 を知らないと三度いいます」

31節 ペテロはしかしながら、激しく言いました。たとえ、死ななければならな いとしても私は否定しません。ここでペテロは過度な反応により彼の恐れを埋め 合わせようとしたのです。

場面2:

37節 神のことばにおける次の場面は、ペテロが速やかに寝てしまったことです。 彼は主とともに一時間祈るための十分なエネルギーを持っていませんでした。彼 は、眠りによる心地よさを求め、恐れの現実の世界から逃げたのです。

場面3:

47節 ペテロはいくばくかの勇気を示しました。しかし私には彼が調和から外れ ているように見えます。彼は恐れていないかのような人として振る舞っています、 そして結果として、彼は実際は自分がいかに恐れているかを示してしまいました。 裏切り者のユダが一団のならず者達及び祭司長から遣わされたローマの兵士、律 法学者、長老達と共に丘へ登ってきました。群集がイエスの前で立ち止まったの で、ペテロはきっと考えたでしょう。「私が昨夜語ったことばのゆえにイエスに 悪く思われたくない、イエスの鶏についての話は、彼の間違いだということを私 は証明しよう。彼が私について考えたことを私は好まない。」ペテロが剣を振り 回し、護衛の耳を切り落とした。このテキストではペテロという名前は記されて いない、しかし我々は他の福音書から、剣をとったのは誰か、そして耳を切り落 とされたのは誰かさえ知ることができます。ペテロのアドレナリンは彼に最初の 素晴らしい行動を起こさせました。しかし主は彼を静めなければなりませんでし た、そしていわれたのです。剣を持つものはそれにより滅ぶと。(マタイ26:52) 私は一団の天使を呼ぶことができる、しかし私は聖書のみことばを成就しなけれ ばならないと。

場面4:

54節 ペトロは、遠く離れて(イエスに)従い(大祭司の)屋敷まで行くことに より、辛うじていくらかの勇気を示します。 イエスがユダヤ人の裁判のカンガルー 法廷の前に立っていたので彼は、議員の建物の外で自分自身を暖めました。 66-72節 ペテロはイエスを三度否定しました。ペテロは彼の臆病さに激しく泣い た。私はペテロの涙に多くの慰めを受けます。涙そのものは悔い改めを表すもの ではないのです。ユダはイエスを裏切った後、出ていき涙を流したのです。ペテ ロはいつも人が彼に何をするかを恐れていたので、キリストを否定してしまった のです。彼はイエスが真のメシアだと信じなかったので、キリストを裏切ったの です。ユダは、彼の性格構造の中心に信仰による義の糸を加えることをしなかっ たのです。

恐らく、ペテロは我々の大多数をもっとも代表しているでしょう。私は信仰のチャ ンピオンであるパウロよりむしろカメレオン的なペテロの方に見えます。私は我々 は誰でも主に仕えようとの意志があるが、しかし、時々他の人々が考えるもしく はしようとすることに対しての恐れ等により道をそれることがあると信じていま す。私が初めてイエスに向いた時、私は海軍におり、それまで車を運転したこと がありませんでした。バスに乗るか、もしくはただ片道15マイルを歩くかでした。 他の考えはなく、10マイルも走るのです。ある日、私は聖書研究のために歩いた ことを思い出します。私は大きな8 x 11インチサイズの聖書を持ち歩いていま した。私は軍隊基地の中で大きな聖書を運んでいるのはある種の変なカルト的に 思えたので、茶色の紙袋に入れました。しかし、私は袋の中へ入れた聖書のため に更に気が休まらなかったのです。私は何かを隠そうとしているのだろうか。2 マイル歩いた後、袋を取り払うことにしました。私は主に神のことばを恥ずかし く思ったことを、そしてグランドを散らかしたことを許してくれるよう願いまし た。あなたは今迄、クリスチャンとして宗教の信者として他の人が貴方をどう思 うかということで恥ずかしく思ったことはなかったでしょうか。

マルコの福音書の最後で、ペテロは二階屋へ隠れました。三人の婦人がイエスの 体に塗油するために墓へ行き、そして彼女達は彼が復活したことを知ったのです。 イエスはこの婦人達に弟子達へ持ち帰る為ことづけを与えました。そして特にペ テロだけのために特別なことづけを与えたのです。(マルコ16:7)

使徒行伝におけるペテロ

使徒行伝において、ペテロは完全に変身したように見えます。神の聖霊が彼の生 活に下り、彼を臆病から勇気ある者へと完全に変えたように見えます。ここで書 かれている状況は物語りの本にあるようには、簡単ではありません。彼はおとぎ 話のよくある結論のように、救われて「その後ずーっと幸せに暮らしました」と いうわけではなかったのです。

使徒1:15 ペテロは120人の弟子の聴衆の中に立ち上がりました。それは勇気が いりました。

2:13、14 嘲る者たちは近くに居たのですが、ペテロは福音を守るために立ち上 がりました。

3:13 ペテロは門の前にいる人を公然と癒しました。

4:1, 13 ペテロは宮の指導者と論争しました。

5:1 ペテロはアナニヤとサッピラを偽りのゆえに死に渡しました。ペテロは以 前主を偽り、否定しました。しかし、この事件は自分の栄光の為の偽りの事件な のです。

5:18ペテロは彼の勇敢さの為に牢屋に入っていました。天使が彼を解き放ったの で、彼は説教に追われる毎日に戻って行きました。そしてあらゆる宮において、 情熱的に、大胆に、疲れを知らずに説教をするようになったのです。

5:40 彼は説教の為、打たれました。しかし、彼はすぐそこへ戻ったのです。彼 の勇気はすばらしいです。彼が御霊にいた時、彼は新しい糸を持つ異なった人と なったのです。

8:20 サマリヤにおいて、ペテロは一人の人を聖職売買のゆえ、すなわち聖霊の賜 物を金で買おうとしていたために殺すところでした。

9:32 ペテロはさらに奇跡を行ったのです。八年間もの間、病気であった男を癒し、 そして死んだ女性ドルカスを蘇らせたのです。

*10:1ff この章は教訓を学ぶ為に大変重要です。ペテロは清いまた清くない動物 の幻を受けたのです。 神はペテロに異邦人が福音により救われることを語ったの です。この真理は彼にとって革命的でした。次の章の11:1、2において、ペテロ は、異邦人が神を得ることを助けるための論争に加わるためにエルサレムヘ戻っ たのです。

12:1ff ペテロはヘロデにより投獄されました、しかし彼は逃れました。 使徒行伝においてはペテロの信仰の進歩以外何も述べていません。使徒行伝にお いてはペテロは信仰の真のチャンピオンでした。彼は勇敢です。彼は人が彼に対 してするかもしれないことを恐れているようには見えません。しかし、鶏の声に よって暴露されるようなことはないにせよ、彼には未だ主を裏切るような弱い心 がありました。我々はガラテヤの手紙の中で、信じられない状況の中の彼を見る のです。我々は繰り返すペテロを見い出すのです。

ガラテヤ書におけるペテロ

1:15ff 始めに我々は、何十年もの年が過ぎたこと理解しなければなりません。 使徒パウロによってガラテヤ書に書かれているペテロは彼の聖書の上に紙の袋を 置いているように見えます。ペテロは相変わらず彼の基本的な性格の一部分であ るゆるい糸を持っており、それは主に引き渡されなければならないものです。彼 は相変わらず彼の聖書を袋に入れて歩き回っています。ガラテヤ書の1:15から2: 14に基づくと、イエスの復活から20から25年が過ぎていることが分かります。ペ テロが成長するために多くの時間がありました。どの位彼は変えられたのでしょ うか。

2:11パウロはペテロの偽善を非難しました。 パウロはペテロを公然と非難しまし た、それは、ペテロの罪のレベルが大変大きかったことを示すのです。 そのこと は彼の周囲には明白であり、それゆえ彼には公然とした非難が必要なのです。 あ たかもモーセが短気を起こし、全ての人の前で岩を打った時、神は彼を全ての人 の前で罰し、彼が約束の地に入ることを許さなかったようなものです。

2:12 ペテロは依然としてモーセの律法を守るユダヤ人クリスチャンを恐れまし た。ペテロは混ぜ合わせたいと望み、彼の仲間のユダヤ人とトラブルを起こした いとは願わなかったのです。ペテロは、ユダヤ人が習慣の良心と社会的な義務で まだ必要と感じていました、律法の伝統を維持するよう要求されていない、異邦 人クリスチャンの権利の為に立つことを恐れました。

2:13 ペテロはガラテヤのたくさんの偽善的な慈善クラブに参加することにより偽 善的な振る舞いを示しています、(sunupekriqhswn autw)。

2:14ペテロは彼が歩む道と生活により福音を否定します。これはパウロによって ペテロに対してなされた大きな叱責です。パウロはペテロに質問をしています。 ニューインターナショナルバージョン訳では「貴方はユダヤ人です。しかしなが ら貴方はユダヤ人のようではなく異邦人のように生活している。それなのに何故 貴方は異邦人がユダヤ人の習慣に従うよう強制するのですか」

次の節において、パウロは福音のメッセージを簡単に述べています。パウロは信 仰による義について述べています。確かにペテロはこれを理解しました。しかし、 彼はいつも他の人が彼をどう思うかを恐れたのです。ペテロは神の深いことがら を理解するタイプの人ではなかったのです、彼は相変わらず心の中では無学の漁 師であり、そして自分で弟2ペテロ3:15、16においてはどうにかパウロの手紙を 理解できると述べています。どの程度ペテロが変えられたかということは興味有 る質問です。事実は、我々はペテロの気の変わりやすさから、慰めを受けること ができます。何故なら我々が完全になるのに大変時間がかかることがわかるから です。

チャレンジ

チャレンジは、我々が自身の性格をキリストに引き渡すこと、そして常に基本的 な自然に引き戻す糸があることを知ることです。我々の肉に傾く道は相変わらず 生きており、治められようとしない。

クリスチャン生活は、挑戦と変化に満ちています。我々はペンテコステに疲れて おり、ただ安息日の休みを望んでいます。我々は使徒行伝の勇敢な使徒ペテロの 精神に疲れているので、ガラテヤ書の社会と一緒に混ぜ合わさ流れとともに行く ペテロを望むのです。

時々、我々は個人的な成長、変化と挑戦に疲れるところへ行き着き、そして我々 はペテロがガラテヤで歩んだように、我々のクリスチャン生活をただ流して行く ことを望むのです。我々はただ、皆とともに行き、そして罪に対して戦わなくな るのです。

我々はダイナミックな証し人であることに疲れます。我々はエルサレムの大胆さ に疲れます。 そして我々が気楽にできるところへ行き、今迄どのようにしてきた かを語りたいものなのです。 我々は文化に対して公けに立つために、祈りのため 時間を犠牲にすることに疲れるものなのです。 しかし、我々が徐々に前へ出て、 そして我々の心地よいキリスト教を捨てて戦いのモードへ戻らなければならない 時がくるのです。再献身、リバイバル、刷新、悔い改め、新しい糸。繰り返して はいけないのです。ペテロの繰り返しモードに留まってはいけないのです。

別のことばでいえば、クリスチャン生活は農業のようなものです。あなたは土を 耕し、罪の苦しい生活を一掃するのです。あなたは種を植え、みことばを学ぶ。 貴方は雨を待ち、神の祝福を待つのです。貴方は成長します。貴方は罪を定期的 に告白し続けることにより、草を抜きつづけなければならないのです。貴方は増 加のために主を待ち望まなければならないのです。試練が来る。天候、火事、カ ビ、いもち病、虫、からす、貍(ラークーン)、鹿、収穫を取り去ろうとするどろ ぼう。我々は待ち、我々は働き、我々は礼拝する。そして収穫が来、祝福が来る のです。貴方はそれは皆、値すると感じる。そして、あなたは次の季節に対して 備えるのです。冬は農業機械の補修や保守をする時です。

クリスチャン人生において、冬とは我々の霊的生活がスローダウンし、冷たく、 動かなくなるように見える時です。この主へのデボーションが少ない季節におい て、我々の魂の新しい春のために祈る必要があります。我々を新しくそして変身 させてくれるよう神へ求めること。我々が求めるなら、時々、我々は勇敢な使徒 ペテロもしくは臆病な偽善者のペテロを見るのです。我々の最後の日迄、我々は 古いまたは新しい自分、我々の古い糸とキリストにある新しい人である我々と戦 うのです。

できるならば、我々は自分自身にだまされ、失望させられたりせず、かえって、 たとえ離れて鶏が鳴くような時でも、主を見ていたいのです。できるならば、我々 は成熟に至るために、人々が我々に対してすることへの我々の不安の為、我々を 公の場で叱るパウロを必要としないでいたい。時々、我々はエルサレムの大胆な 糸をまとい、時々、我々はガラテヤの臆病な偽善をまとう、しかし、どんな時で も我々は主が我々の命の中に彼の霊を織り込み、再度織り込むことを必要として いるのです。

 
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