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「マタイによる福音書におけるファリサい派 」

Authored By M.A.F., IN, USA
Translated By Rev. Takao Kiyohiro, Tokyo, Japan
説教者:マイケル・フューリィ
原文:英語
文: (日本語):清弘剛生
聖書 マタイによる福音書

1 ファリサイ派は、間違いなく紀元一世紀の当時において、最も献身的な信仰者 のグループの一つです。イエスは、有名な「山上の説教」の中のマタイ5章20 節において、このユダヤ教における主要な分派の熱心さと献身とを認めておられ ます。イエスはまた、マタイ23章15節において、それが間違った方向に向かっ たものであったとしても、その救霊の熱情を認めておられます。イエスは、明ら かにこのグループを深く気にかけておりました。もしそうでなければ、彼らに向 かって語りかけ、彼らの体制に対して預言者のように挑戦することをもって、命 を危険にさらすようなことはなさらなかったでしょう。何故、彼らについて私た ちはかくも否定的に考えるのでしょうか。何故私たちは他の人々を罵るために、 彼らの名を使うのでしょうか。マタイによる福音書には、この聖書を信じる根本 主義的“教派”についての言及が多く含まれています。私は、イエスとファリサ イ派の人々との関係を吟味することによって、神と共に献身的に歩んでいると主 張する私たちにとって、いくつかの大切な導きを得ることができると思っていま す。決定的な問いは、イエスが彼らに向けて語られた第一のメッセージは何であっ たか、ということです。私はそれを秘めておこうとは思いません。それは「悔い 改め」であります。

2 イエスが聖霊によって導かれ、斬新なラビ的ミドラッシュ(解釈)によって人々 に霊的な導きを与えるようになる前に、その道を備えたのは彼のいとこである洗 礼者ヨハネでありました。マタイ3章1節に、不便な荒れ野で、大声を上げて説 教をしているヨハネの姿を見ることができます。そこには多くの人々が、ヨハネ の力強く説得力のある説教を聞きにきていたのです。マタイ3章2節から12節 にあるヨハネのメッセージは多くの個人に向けられています。そこには、7節に 書かれていますように、ファリサイ派の人々も含まれています。イスラエルの民 として、アブラハムの子孫として与えられている宗教的相続財産には、まさに斧 が入れられようとしていると、ヨハネは彼らに語ります。彼らの持っていたのは 悔い改めのない宗教でした。彼らにはツェダカーとテフィラーはありましたが、 ツーヴァーはなかったのです。(すなわち、慈善と祈りは持っていたけれど、悔 い改めがなかったのです。)彼らは掟には従っていましたが、主への愛と畏れに よって造り上げられる良心を持ってはいませんでした。

3 それは人を悪意に満ちた蛇、恐れを知らない罪人にしてしまう機械的な宗教で ありました。ヨハネは叫びました、「悔い改めよ」と。そして、皆は彼が正しい ことを知っておりました。その時、ヨハネはメシアの到来を告げ知らせたのです。 そして、ある時彼がヨルダン川で説教している最中に、イエスが現われました。 イエスは、正しい振る舞いの模範となりました。そして、ミクヴェすなわち洗礼 を受けることによって、彼自身はすべての正しいことを成就されたのです。洗礼 は、トーラー(律法)によって要求されていることではありませんでした。それ はハラカー、すなわち会堂の指導者であるラビによる適用的解釈から発展したも のです。祭司はある特定の犠牲奉献祭儀(レビ記16:23,24)を行うため に沐浴をしなくてはならないことになっていました。それゆえ、出来るだけ厳し い生活を望んだユダヤ人は、祭司に求められているいくつかのことを模倣したの です。旧約聖書と新約聖書の中間時代における会堂の興隆期に、洗礼の慣習は発 展しました。それは聖霊によって是認された強い聖書外伝統となり、教会におい て再び取り入れられるようになったのです。それゆえ、伝統が問題なのではあり ません。伝統は健全な霊的生活に必要なものです。問題は、内なる悔い改めが外 なる伝統によって置き換えられてしまうことなのです。洗礼は懺悔と精神的変容 という内的行為を示す外的なしるしです。しかし、宗教的な人々にとって、友人 や家族や同僚の前にへりくだり、自分自身欠けた者であり父なる神を必要として いることを認めることは、何と難しいことでしょうか。真の悔い改めは、人間が 行うには最も困難な行為の一つなのです。しかし、告白は救いの出発点です。人 は、癒されるために助けを必要としていることを認めなくてはなりません。ある 人はこのような歌を書きました。「ああ主よ、へりくだることは難しいことです」。

4 マタイ9:11,14,34。この場面において、ファリサイ派の人々はイエ スがある悪名高き罪人の家で食事をしているのを目にします。多くの「徴税人た ち」や罪人たちとの盛大な晩餐会がありました。イエスは、強い酒といい加減な 男たちや女たちがいるそのパーティに臨まれました。ファリサイ派の人々は正直 な疑問を抱きます。どうしてイエスはそのような悪人たちにつき合って、彼らの 下劣な行為に引き込まれる危険を犯すのだろう。イエスの答えは、簡単に言えば、 彼は人々を悔い改めさせるために来た、ということでした。彼は、会堂や教会の 中に閉じこもっているのではなくて、病人のところにいる必要がありました。そ の時、ヨハネの弟子の幾人かがイエスのところに来て同じことを尋ねました。彼 らはファリサイはの人々の方が、イエスとその弟子たちよりも霊的であると思っ たのです。34節にありますように、ファリサイ派の人々はイエスが悪霊にとり つかれているのではないかと疑いの目で見ていました。もしイエスが悪霊を追い 出すことができ、“悪魔的な”人々と食事をすることができるなら、彼自身がそ のような者であるゆえにそこにいることが快いのだ、ということであるに違いあ りません。この時点では、ファリサイ派の人々はイエスが悪霊にとりつかれてい る、としか言っていません。しかし、その三章後では、イエスはただ単に悪霊に つかれた人ではなくなっています。ファリサイ派の人々は、イエスがベルゼブル、 すなわち「蠅の主」、悪霊の頭にとりつかれていると主張するようになるのです。 イエスは彼らと論じ、彼がサタンによるのではなく、聖霊による者であることを 証明しようといたします。

5 マタイ12:2,14,24,38。ファリサイ派の人々が心底怒ったのは、 イエスがあからさまに安息日を破ったからでした。安息日、十分の一の献げ物、 断食は、ファリサイ主義における宗教的法的関心の上位三つに位置するものでし た。彼らがイエスを安息日に麦の穂を摘んだことのゆえに責め立てた時、イエス は彼らに繰り返し同じことを説きました。「わたしが求めるのは憐れみであって、 いけにえではない」と言われた時、神が何を意味したのか知らないのか、と。聖 なる日に許されている“仕事”の種別に関する律法は非常に複雑なものでした。 何が許されているか、ということに関してはラビによって見解が異なっていたの です。イエスは、ソクラテスが自己吟味を求めた時のように行動しました。考察 と自己吟味を欠いた宗教生活など意味がないからです。その対話の後、イエスが 安息日に別のことをいたします。手の萎えた人を癒すのです。イエスは、彼らが 人間である自分たちの羊よりも、家畜である自分たちの羊の方を大事にしている ことを責めました。ファリサイ派の人々は、安息日であっても迷子になった羊を 溝から救い出してやることには何の問題も感じませんでした。安息日に家畜を穴 から出してやるという行為については、彼らの良心に何の痛みも感じなかったの です。しかし、もし人の命を助ける場合、それは次の日まで待たねばなりません。 「本当に敬虔なファリサイ派の人なら、あら探しをする代わりに、彼のユダヤ教 の掟に適った清い食べ物を分かち与えたことでしょう。(注1)」マタイによる福 音書では14節のこの時点で、ファリサイ派の人々はイエスを殺そうと企むよう になります。ヘブル語聖書の一言一句を信じながら、誰かを殺そうと共に計画を 立てているなんて、なんて素敵な宗教的指導者たちでしょう。悔い改めのない宗 教はマフィアのもたらすいかなるものよりも悪しきものです。宗教的熱狂主義者 が潜在的に最も危険な人々であることは科学的にも証明されております。熱情に よって盲目となった宗教と(この世の)悪には、それほど違いはありません。

6 次にイエスは安息日に人を癒し、彼らは怒り狂います。彼らはイエスを悪霊憑 きとして告発します。イエスは彼らと論じ、彼らはある程度納得したものと思わ れます。それゆえ彼らはしるしを求めます。もしイエスがメシアならば、奇跡的 なしるしを見せることによって自分たちの疑いを簡単に払拭してくださるに違い ありません。イエスは彼らに神の言葉を与えました。それは主観的一時的ないか なるしるしよりも優れたものです。彼はヨナのしるしを与えました。ここで語ら れていることの主題は悔い改めです。38節から46節にかけて、イエスはファ リサイ派の人々に悔い改めを呼び掛けます。これこそ彼らに与えられたしるしで す。もし私たちが悔い改めるならば、私たちの生活の中に、明瞭かつ否定しがた い仕方で、神を見ることができるのです。

7 マタイ15:1、12。この場面で、イエスは、口伝律法に反対します。その 主たる擁護者たちの中にファリサイ派の人々もおりました。実際に、ファリサイ 派の人々は、イエスが口伝律法、すなわち種々の生活状況におけるラビ的法解釈 に従わないことを非難します。ユダヤ教の厳格な信者の間では、口伝律法がモー セから手渡されたものと信じられておりました(ミシュナ、アボート1:1)。 彼らは、モーセが十戒とトーラー(律法)を手渡した時、彼がこれらの戒めにつ いての解釈をも語り聞かせて託されたと信じておりました。これが口伝律法です。 言い換えるならば、ラビは日常の問題についての答えを求めて聖書を研究し、モー セの伝統に照らして聖書に基づいた規範や法を作ったのです。彼らはモーセがこ の力を与えたのだと言いました。なぜなら彼は神の御心を判断するために裁き人 を置いたからです。それゆえ、裁き人が宣言することはモーセによって承認され、 トーラーにおいてモーセと神が語っていることに劣ることない重要性を持つもの となるのです。トーラーは命の木に喩えられます。神が最初に言われたことは根 であって、ラビが付け加えたことは枝であり葉に当たります。イエスは、口伝律 法が神の律法を無にしていると言いました。イエスは木を揺さぶって、ハラカー の過程全体を危機に陥れたのです。これがどれほど大きな衝突となったか、私は これを過小評価することはできません。善良なユダヤ人は、今でもイエスは間違っ ていると思っているかも知れません。今日のユダヤ人は、今でも命の木を遵守し ているのです。そして、私が今日行っていることは、厳密に言えば、神の名によっ て語り、私たちの時代と諸々の必要のためにそのメッセージを更新しているのだ、 という主張に他ならないのです。私たち人間は、その時々に神の名によって間違 いを犯すゆえに、常に悔い改めと改革の状態にいなくてはならないことを忘れて はならないのです。

8 マタイ16:1、6,12。彼らは別のしるしを求めます。イエスはもう一度 ヨナのしるしを与えます。イエスは弟子たちにファリサイ主義的な教義に気を付 けるよう警告します。

9 マタイ19:3。ファリサイ派の人々はイエスに離婚について尋ねます。彼の 答えは、「聖書は何と言っているか」でした。そして、彼は意見を述べます。 「姦淫が唯一離婚の根拠となる。しかし、あなた方の律法についての巧みな操作 と抜け穴作りの工場により、ファーストフードのように離婚は手軽なものとされ ている」と。悔い改めを求めない宗教は、家庭生活を破壊するものとなるのです。

10 マタイ21:45。イエスは都でありユダヤ教の母体であるエルサレムに対 して公然と説教します。彼の宣教活動の絶頂期です。ファリサイ派の人々はこれ を聞いて当惑し、驚きます。ファリサイ派の人々はイエスを亡き者にするために 手をかけようとしますが、まだしばらく待たねばなりませんでした。

11  マタイ22:15,34,41。イエスは宣教を続け、公認されたラビの学 校の出身でないにもかかわらず、エルサレムの神殿において公然と教えます。 (彼は制度的な権威からいかなる学位も得ていませんでした。)彼は質問を受け ます。ファリサイ派の人々は巧妙な質問でイエスを罠にかけようとします。イエ スは、忍耐強くこれらの指導者たちに関わります。しかし、ついに次の章におい て、ファリサイ主義に対する説教をもって彼らを一喝します。イエスはこれらの 指導者たちを圧倒したり、公に恥をかかせて楽しんでいるのではありません。そ うではなくて、人々の魂を救うための方策として、神はしばしば裁きの日を早め て宗教的な死人を目覚めさせなくてはならないのです。どうぞ23章をお読みく ださい。

12 マタイ23章。これはファリサイ派の章です。これは、他のいかなる歴史的 な記録に勝って、第1世紀のユダヤ教におけるファリサイ派に関する第一の最良 の情報源です。イエスはエレミヤと同じ仕方で説教し、彼らに鉄槌を下しました。 「不幸だ!」を繰り返す形式は、彼らを目覚めさせる電話のベルです。彼らはこ の魂を揺さぶる説教によって悔い改めるでしょうか。誰かがあなたの間違いを指 摘する時、あなたはどう思うでしょう。(私自身はそれが嫌いであることを認め なくてはならないでしょう。あるいは私にも希望があるかも知れません。)

13 マタイ27:62。マタイによる福音書において最後にファリサイ派の人々が 登場するこの場面は、彼らがまだ悔い改めてはいないことを示しています。そう ではなくて、彼らは偽りを続けているのです。彼ら自身偽る者であり、"It takes one to know one"(注2)という古い諺のごとく、彼らは偽りによって可能な状況 を予想しています。彼らは、イエスが偽りの復活を演出してみせるのではないか と考え、その試みを妨げようと手段を講じます。彼らは、総督ピラトのもとに赴 きます。そして、墓を守る番兵を求めるのです。ピラトは番兵を配置します。そ して、ファリサイ派の人々や他の指導者たちにも、墓を守るためにしたいことを することを許します。ファリサイ派の人々や他の人々は彼ら自身で見張りを立て、 墓を封印して墓の前から石が動かされないことを確かめます。しかし、イエスを うそつきとし偽り者とする彼らの試みは、かえって彼がそのようなものではない ことを証明することになりました。人間の為し得るいかなることをもってしても、 イエスを死者の中から復活させないようにはできなかったのです。彼はまことに 主です。賢くなり、賢そうに振る舞う代わりに、彼の前にひざまずき、私たちの 命を新たに主に捧げ、悔い改めようではありませんか。

14 最も重要なことは、イエスが偽り者たちに、彼が死者の中から復活したこと を本当に見る機会を与えられたことです。彼らはイエスが復活したに違いないこ とを知っていました。彼らは確かに、死体が盗まれないように、墓が破られない ようにしていたからです。屈強なローマの番兵が墓におり、彼ら自身の見張りも そこにいたのです。彼らは何が起こったのかを知っていました。彼らが最も悪し き時にも、神は彼らに恵み深くあられました。間接的には、彼らは復活の出来事 そのものの証人なのです。しかし、彼らの悔い改めなき心が彼らをイエス殺しへ と導いたように、彼らの悔い改めなき心は、彼らを根本主義的な敬虔さと宗教的 な死の墓の中にさらに深く閉じこめてしまったのです。イエスは彼らに悔い改め よと語りました。彼は開かれた墓からも、彼らに手を伸ばされました。神に忠実 だと思っている私たちも、私たちの心と生活のすべての領域を吟味し、私たちが 実際には神の主権を拒否し、私たちの宗教の快い解釈による敬虔な行いによって 自分自身を崇めているようなところを見出さなくてはなりません。私たちは人生 の終わりまで恵みを必要とする罪人です。日々キリストの血汐によって洗ってい ただきましょう。特に私たちが自分を良いクリスチャンだと思っているならなお さらです。

注1)清い(コーシャー)食べ物です。

注 2)この諺は「盗人を知るは盗人のみ」とでも訳せるかも知れません。原著者 はこの諺について、次のように説明しています。「ファリサイ派の人々は自分自 身偽り者であったゆえに、他の者、すなわちイエスや弟子たちも偽りを行うので はないかと考えました。ファリサイ派の人々は自分たちが策略を用いたように、 イエスも策略を用いるだろうと思っていたのです。詐欺師は他の詐欺師を見破る ことができます。嘘つきは嘘のつき方を知っているので他の人の嘘に気づきます。 泥棒は、泥棒の仕方を知っているので、自分の家のどこが危ないかが分かり、入 られないように予防することができます。このようなことを"It takes one to know one"と言うのです。盗人を理解するためには盗人ではなくてはならない、という ことです。この言い回しは他の人から責められた時に使われます。誰かが『泥棒!』 と言って非難したとします。すると非難された者は言うのです。"It takes one to know one."つまり、これは『どうして私が盗んだということが分かったんだい? それはお前も泥棒だからじゃないか!』という意味なのです。」

 
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