Special Message: "The Bishop Of Osaka's Letter"
人生問題の解決点

Special Message: "The Bishop Of Osaka's Letter"
Translated by Rev. Mike Furey, Georgetown, IN, USA

百年前に日本に来朝されたビショップ・ウイリアムスについて、こんな話が伝えられております。明治の時代に、東京に岡*という漢学者がおったそうであります。この漢学者が学生に史記の講義をしておった。史記の中に「君子盛徳容貌愚なるが如し」---君子の盛んな徳が、一見容貌を見ると馬鹿なように見える---そういう件りを、この漢学者が学生に講義をしておりました時に彼曰く、われかつて築地の耶蘇学校に、ウイリアムスという宣教師を訪問したことがある。当時自分は孔孟の道を説いてキリスト教を攻撃し、大いに破邪頭正をやる積りで、いつもこういう人たちを訪問しておった。ところが、今日こそ一つ大いにやってやろうと思って、ウイリアムス宣教師のところへ来ると、どうも対座してみると、ちょっと見ると愚な如く見えるが、神々しい姿で、しかも真摯な態度でもって「あなた、神様を信じなさい、そうすればみんなわかります」といわれる。滔々と講論しようと思って行ってみたけれど、ついに講論ができなかった。彼の容貌に圧迫されてしまって何にも言わないで去った。なるほど司馬遷はよく言うておる。君子の姿というものは洋の東西を問わず実に一様であるといったそうであります。

これはウイリアムス主教の実に聖者であるところの姿を物語っているところの話でありますが、このウイリアムス主教をして、かく聖者ならしめたものは何であるか、いうまでもなくイエスによって現わされるところの神を信じた結果でありま
す。

また私どもが今日こうして百年前来られたビショップ・ウイリアムスを記念するためにここに集りましたが、今晩お集りになった人々に、神様を信じなさい、そうすれば何もかもわかります、と言ったこの主教の言葉こそ、私は今日なおわれわれに対するところのメッセージであると信ずるのであります。何となればキリスト教の神を信ずることこそ、人生問題の解決点がそこにあると私は信ずるからであ
ります。

今日私どもが記念いたします、最初の宣教師でいらしたウイリアムス主教、この方は実に隠れた愛のよき業をなさった方であります。私が若いごろ月一回ずつ私どもの教会にウイリアムス主教が見えましたから、私もよく知っている。自分の生活費は極端に切りつめて、しかも自分のポケットマネーで二つも教会堂を建てて、あるいは病人があるとか急患者であるとかに、隠れて愛の業をしていらした。もしここにウイリアムス老主教がいらして「先生、あなたキリスト教の信仰なくしてそんな業ができますか」ともし私どもが聞いたら「私自身は何もできません。私の中にいらっしゃるキリストが、私をしてかくの如き業をさせてくださるのです」ときっと答えるでしょう。私もまた、そこに理性を超えた信仰の必要なことがよくわか
るのであります。

信仰によってのみキリストの救いを受け入れることができるのであります。ことに今日の若い人たちの合理論者の中に最もキリスト教の信仰を受け入れるというのはキリストの十字架のあがないということであります。キリストの十字架は、聖パウロが私どもに教えましたように、われらはその血によりあがない、すなわち罪の許しを得たり、と表現しました如く、人間は神の愛を受けてほんとうに己れの如く人を愛する器になるには、まず自分の中にある利己主義を清算しなければならん。神の子キリストの十字架の前に自分というものを清算するほど力ある自己清算はないのであります。故に聖パウロも「それ十字架の言葉は亡ぶる者にはおろかなれども、救われるものには神の力なり」と言いました如く、合理論者には全くおろかに聞える。十字架のあがないということ、これほどガリガリの利己主義者の自分を清算して神に近付かしめるほどこの十字架の福音というものは大きな力があるもの
であります。

*インターネットの世界中にいる方にお願します。この岡という名称はどちらの振り仮名がありますか。お感謝します。

 
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