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「神の国はあなたたちのところに来ている」

2011年3月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 11章14節~26節

汚れた霊が友達連れてやって来る

 本日朗読されました福音書において、イエス様はこんな話をしておられました。 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つか らない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、 家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほか の七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後 の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11:24-26)。

 私たちには馴染みのない話題です。汚れた霊が人から出て行ったり、砂漠をう ろついて休む場所を探してみたり、他のお友達連れて戻って来たり、という話は、 現代の私たちの耳には奇妙な話と聞こえます。しかし、もう一方において、イエ ス様が言わんとしていること、何となく分かるような気もする。そう思いません か。

 例えば、人と争いの絶えない人がいる。いつも心に怒りを溜めているような人。 しかし、その人がある日、ふと思う。きっかけはいろいろあるでしょうが、とに かくある日、その人は自分を省みる。私はこんなことをしていていいのだろうか、 と。平和な穏やかな人になりたい。そう思って、とにかく努力を始めます。一生 懸命心の中から怒りと悪意を追い出そうといたします。日々精進してある程度追 い出しに成功します。周りの人からも「あの人、変わったわねえ」などと言われ る。それがまた嬉しい。

 しかし、残念ながら長く続きません。あることで怒りが爆発し、口汚く誰かを 罵ってしまいました。自分でも自分が情けなくて、もう「どうでもいいや」と思っ てしまう。どうせ自分はこういう性格に生まれついた不運な人間なんだ。あるい は、育った環境がいけなかったんだ。そもそも親が悪い。小学校の時の教師が悪 かった。そんなことを延々と考えるようになる。そして、気付いてみると前より も状態が悪くなっています。まるで出て行ったはずの「怒り」という汚れた霊が、 「自暴自棄」や「自己憐憫」という友達を連れて帰ってきたみたいです。ありそ うな話だと思いませんか。

 これに類することはいろいろと考えることができます。ある人は、嫉妬心を追 い出そうとする。ある人は不安や思い煩いを追い出そうとする。ある人は後ろ向 きの考えを追い出して前向きに生きようとする。様々な悪習慣についても同じ。 誘惑する声を一生懸命に追い出そうとする。そのようにして、一生懸命に悪いも のを追い出してクリーンな心にしようとするわけです。それはある程度は成功す るように思います。皆さんも多かれ少なかれ、そういう努力ってしたことありま すでしょう。

 しかし、どうも長続きしない。一度失敗すると元の木阿弥となってしまう。い や、失敗した自分自身を責めている内に、さらに様々な悪い思いが心の中に満ち てきて、状態は以前よりずっと悪くなってしまう。このように、汚れた霊が友達 を連れて帰って来るというイエス様の一風変わったお話は、案外今日の私たちに とっても極めて身近な話なのかもしれません。

神の国は来ている

 なぜ、イエス様はそんな話をなさったのか。実は、この話はその前からの続き なのです。その前には、口の利けない人が癒されたという話があります。ルカは あえてこの言葉を前の話に続けて記しているのです。

 14節をご覧ください。そこには「口の利けない人がものを言い始めた」と書 かれています。結果だけさらりと書かれていますけれど、実際、この人はどれほ ど嬉しかったか知れません。もともとこのような口の利けない人や「悪霊に憑か れている」と見られる人は、宗教的に差別されているのです。汚れた人として、 神から遠ざけられている人として見なされるのです。罪を犯したからこんなこと になったとも言われる。自分でもきっとそう思っていたに違いありません。肉体 的にも宗教的にも苦しんできたこの人にとって、神は遠い遠い存在だったはずで す。

 しかし、そのような人のところに、イエス様が来てくださった。福音の言葉を 携えて、罪の赦しの言葉、救いの言葉を携えて。いや言葉だけでなく、イエス様 のなさることそのものが神の恵みの現れでした。イエス様は悪霊に憑かれている 人を忌み嫌わなかった。汚れた人と見なされている人に、神の愛と赦しを与えら れた。神から遠いと思われていた人たち、遠いと思い込んでいた人たちのところ に、イエス様は圧倒的な神の恵みを携えて来てくださったのです。口が利けるよ うになった人の内に喜びがあったとするならば、それはただ言葉を発することが できた喜びだったのではなく、神の恵みに触れた喜びであったはず。私は神様か ら呪われてなどいない。神様に見捨てられてなどいない。そうではなくて神様か ら無条件で愛されている。そのことを知った喜びなのです。

 そして、それは具体的に悪霊から解放された人だけの話ではなかったのです。 悪霊から解放された人や癒された人だけが殊更に神に愛されているのではない。 主はこう言われたのです。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているの であれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。主は「あ なたたち」と言われたのです。癒された人だけに神の恵みが届いているのではあ りません。イエス様のなさっていることはしるしなのです。神の国が来ているこ とのしるしなのです。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ!」圧倒的 な神の恵みの支配が既に到来している。イエス様の周りに集められた人々のとこ ろに既に来ている。癒された人だけではありません。その周りにいる人も、苦し みから解放された人も、いまだに苦しんでいる人も、神の恵みが支配する世界に 生き始めることができるのです。神の無条件の愛を受け取って生き始めることが できるのです。メシアであるイエス様が既に来られたから。

もっと強い者が襲って来れば

 実際イエス様の周りには神の国の喜びが満ち溢れていたに違いありません。し かし、もう一方でそれを喜べない人たちがおりました。彼らは言いました。「あ の男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と。こう言っていたの は誰でしょう。この福音書には書かれておりません。マタイによる福音書には 「ファリサイ派の人たち」と書かれています。

 彼らは極めて真面目なユダヤ人たちです。自分の内から悪いものを追い出して、 生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っ ていた、そういう人たちです。とにかく汚れたものは大嫌い。汚れた生活をして いる異邦人などとは絶対に付き合わない。律法を守ろうとしない連中となど、絶 対に一緒に食事などしない。清くあろうとすることは、決して悪いことではない でしょう。しかし、そのような彼らは、神の恵みが悪霊に憑かれたような人たち に現されることを喜べませんでした。

 考えてみてください。もしこれが、戒律を厳格に守り、清さを求めている人た ちに神の恵みが現されたというのなら、彼らは文句を付けなかったはずです。あ るいは一生懸命に努力している自分たちに、神の特別な恩恵が現されたというの ならば、決して文句をつけることはなかったと思うのです。そのようなことをイ エス様が教え、宗教的な人だけ癒していたならば、彼らはイエス様に敵対するこ とはなかっただろうと思うのです。しかし、律法を守らない人たち、自分が見下 している人たち、自分が汚れた人と見なしている人たちに神の恵みが現される時、 彼らは喜べませんでした。

 そのような人たちにこそイエス様は、友達連れて戻ってくる汚れた霊の話をさ れたのです。自分で頑張って掃除してきれいにしたつもりでいると、汚れた霊が 友達連れて戻ってくるよ、と。実際、この福音書を読み進んでいきますと、その ことが明らかになってまいります。彼らの内に、妬み、憎しみ、敵意、殺意のよ うなものが満ちてくるのです。そして、結局それら全てがイエス様に対して噴出 することとなる。いや、彼らだけではありません。民の長老たちや祭司長たちに 煽動された民衆も、やがて「十字架につけろ!」と叫び出すことになるのです。 これが清さを求めていた人々の内に満ちてしまったものです。汚れた霊の悪友た ちです。

 そのように帰って来た悪霊たちで一杯になった家にならないためには、どうし たら良いのでしょう。単純に考えて、空き家にしないことでしょう。イエス様は こう言われました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その 持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼み の武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」(21-22節)。ここで「強い 人」とはサタンのことです。そして、「もっと強い者」とはイエス様のことです。 「もっと強い者」は神の恵み、愛と赦しを携えてきてくださったキリストです。 悪霊を追い出し「神の国はあなたたちのところに来ている」と宣言してくださっ た御方です。そのキリストこそが、十字架にかけられ死者の中から復活された御 方として、私たちをも神の国に生かしてくださる。神の恵みの支配の中を生きる ようにしてくださるのです。ならば、その御方を迎えることが先決なのでしょう。 私たちの心に、そして私たちの生活に。そうすれば掃除されただけの空き家には なりません。

 キリスト者の生活とは、一生懸命に教えを学んで実践して自分を清める作業で はありません。信仰生活は、悪いものを追い出してきれいな空き家をつくること からではなく、神の恵みを携えて来てくださったイエス様をお迎えすることから 始まるのです。私たちの心に、そして私たちの生活に、私たちの人生に。恵みを もって治めてくださる「もっと強い者」なるイエス様をお迎えし、主が住まわれ る家を造り、主が宣言された神の国に生き始めることなのです。

 
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