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「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神」

2011年3月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 41章8節~16節

恐れることはない

 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神」。これが今日の説教題で す。イザヤ書41章10節の御言葉です。

 神が語りかけるこの言葉を最初に耳にしたのは、今から約2500年以上前、 異国の地に捕囚となっていた人たちでした。戦争によって祖国を失った人々です。 紀元前586年、エルサレムはバビロニア軍によって陥落せられ、ユダの王国は 事実上滅亡することとなりました。主だった人々はバビロンの郊外へと捕らえ移 されていったのです。「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。

 捕囚当初はすぐにでもバビロンから解放されるとの希望を抱く人たちが少なか らずおりました。しかし、やがて捕囚が長期化するに従い、人々はバビロンの地 に根を降ろして、それなりに穏やかな生活を築いていくこととなりました。彼ら の根底にあったのは深い諦めであったとも言えます。未来に待ち望むべき何もの も持っていなかった人々であったとも言えます。しかし、それでも良かったので す。彼らにはそれなりに安定した「今」があった。それで十分だったのです。

 しかし、世界は動いています。新興ペルシャの王キュロスの疾風怒濤のごとき 進撃によって、オリエント世界の支配の構図は瞬く間に塗り替えられていきまし た。やがてキュロスはバビロンへの無血入城を果たします。バビロニアの時代が 終わり、ペルシャの時代が到来しました。捕囚民たちは、この大きな変化の中で 翻弄されることとなります。全く異なる支配のもとに置かれることとなったので すから。

 変化の中に置かれることは恐ろしいものです。しかも、自分の意志とは全く関 係なくものごとが変化していく中に置かれるということは、まことに恐ろしいも のです。しかし、それが人生というものであるとも言えます。自らが変化の主役 である場合よりもはるかに多くの場合、変化は自分の意志とは関係なく起こりま す。思いも寄らない仕方でやってきます。私たちの意志とは無関係に社会は変化 します。私たちの意志とは無関係に家庭にも変化が起こります。私たちの意志と は関係なく人生に変化が訪れます。あるいは病気などによる自分の肉体に起こる 変化もあります。それらはしばしば自分が望んだのではない仕方で起こります。 それは恐ろしいことです。ある意味で人間はその恐れを常に抱えて生きています。 安定した中にあっても「思いがけないことが起こるのではないか」という恐れを 抱いて生きているものです。

 しかし、あの捕囚民が経験した変化は、確かに恐ろしいことであったに違いな いのですが、実はそこには神の御計画があったのです。それがこのイザヤ書の後 半、40章以降において語られていることです。神はこの一連の出来事の中で、 捕囚民を解放しようとしておられたのです。さらには解放された捕囚民によって エルサレムを再建しようとしておられたのです。そして、事実そのことが実現し ていくのです。ペルシャの時代になって、捕囚民は解放されエルサレムへの帰還 が許されることとなるのです。

 変化は恐ろしい。思いがけない出来事が起こっていくることは恐ろしい。確か にそうです。しかし、神はそのような変化を、私たちの解放のために用いられる のです。解放されなくてはならないのは、彼らのような政治的な「捕囚」という 状況だけではないでしょう。私たちもまた、しばしば様々な囚われの中にあるの ではありませんか。そこで、諦めて、希望を無くして、「もういいや」というこ とで、それなりの安定の中にあることで良しとしている。そのような囚われの中 から神は私たちを引き出されるのです。そのために神はしばしば、私たちの人生 に思いもかけないような変化をもたらされる。しばしば、私たちが望まないよう な変化をももたらされるのです。

 さらに言うならば、そのような囚われからの解放は、私たちを神が新たに用い るためなのです。神は新しい使命を与えようとしておられる。解放された捕囚民 に、エルサレム再建という大事業を託されたようにです。考えてみれば、イエス の弟子たちも、パウロも皆そうだったではありませんか。彼らはそのようにして、 新しい使命を与えられ、使徒ペトロとなり使徒パウロとなったのです。そもそも 教会とはそのようにして誕生したのでしょう。また教会の進展は、まさに迫害と いう嵐のような生活の変化を通して実現していったのではありませんか。

 そのように、神は変化を用いられるのです。解放のために、そして新たな使命 を与えて送り出すために。神の御計画を実現するために。そのために、時として 私たちが恐れを抱かざるを得ない、不安を抱かざるを得ない、嵐のような大きな 変化を用いられるのです。だからこそ、あの捕囚の民も、後の信仰者たちも、後 の教会も、繰り返し聞かなくてはならなかったのです。「恐れることはない、わ たしはあなたと共にいる神」。その言葉を神からの語りかけとして繰り返し聞か なくてはならなかったのです。今日お読みしたのは、そのような御言葉なのです。

救いの右の手であなたを支える

 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。」と言われた主は、さら にこう言われます。「たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを 助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」(10節)。この「たじろぐ」 という言葉は、もともと「みつめる」という意味の言葉です。ここで言われてい るのは、周りのものを見つめるなという意味合いです。「周りを見回すな」とい う訳もあります。私たちが変化する周りの状況やその中にあってもがいている自 分自身を見つめている限り、恐れが去ることはありません。第一に私たちが向か なくてはならないのは、この世界でも自分自身ではないのです。そうではなくて、 「恐れることはない」と言われるその御方なのです。

 この世界も私たち一人ひとりをも支配しておられる神、この世界のまことの王 なる神、この世界を動かしているあらゆる力よりも上におられる神が「恐れるな」 と言われる。そして、共にいてくださる。弱っている時に力を与えてくださり助 けてくださる。「救いの右の手」で支えていてくださる。私たちを恐れさせるい かなるものよりも、いかなる出来事よりも、はるかに大いなる御方が救いの右の 手で支えていてくださるのです。

 さらに13節において主はこう言われます。「わたしは主、あなたの神。あな たの右の手を固く取って言う、恐れるな、わたしはあなたを助ける、と」(13 節)。私たちが必死でしがみついていなくてはならないのではない。私たちが力 尽きて手を離したらもう終わりなのではない。主がつかんでいてくださるのです。 主が私たちの右の手をつかんで離さない。しっかりとつかんだまま言われるので す。「恐れるな、わたしはあなたを助ける」と。

 神はこの世界の変化をもって、また私たちの人生における変化をもって、神の 御計画を実現しようとしておられる。だから、私たちが願った時に嵐が静まりは しないかもしれません。嵐の海の上で翻弄される小舟のような状態がしばらく続 くのかもしれません。嵐が静まって欲しい時に嵐が静まらない。そんな時、私た ちは神に見捨てられたように感じるかもしれません。しかし、神は見捨てておら れない。そのような中で、神様は私たちの右の手をがっちりとつかんでいてくだ さるのです。そして、「恐れるな、わたしはあなたを助ける」と言っていてくだ さるのです。

あなたを打穀機とする

 いや、主はただつかんでいてくださるだけではありません。ただ助け、支えて くださるだけではありません。捕囚の民について先に触れましたように、神はそ のような現実の中で、新しい使命を与えて用いようとしておられるのです。主は 言われます。「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。恐れる な、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。 見よ、わたしはあなたを打穀機とする、新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機 と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする」(14-15節)。

 世界の動きに翻弄されているだけの捕囚の民が、やがて荒れ野を越えてエルサ レムに旅をし、破壊されたその都を再建することになると、いったい誰が想像し 得たでしょうか。彼ら自身、自分たちは生き延びる他は何をも為しえない「虫け ら」のような存在であるように感じていたに違いありません。ただこの世界の風 に吹き回されるだけの小さな無力な虫けら。そうです。本当にその通りだったの だと思います。神様もそう言われるのです。「虫けらのようなヤコブよ、イスラ エルの人々よ」と。

 そうです。神様は「あなたたちは確かに虫けらだ」と言われるのです。これを 誰か他の人に言われたら、本当にそうであっても腹が立つだけだろうと思うので すが、神様に言われるというのは、ある意味ではとても有り難いことです。捕囚 の民が、あるいはここにいる私たちが、たとえ自分を「虫けら」のように感じて いたとしても、そして事実そうであったとしても、それは神様の想定内のことだ、 ということです。神様は私たちの無力さに驚きはしません。「その通りだ」と言 われるのです。そして、その上で捕囚の民に新しい使命を与えられたのだし、私 たちにも使命を与えられるのです。

 実のところ、彼らが「虫けら」であろうがなかろうが、そんなことは神様にとっ てはどうでも良いことなのです。なぜなら、神様は虫けらを「打穀機」にするこ とができる御方だからです。そのように書かれていましたでしょう。しかも、打 穀機というのは本来はもみ殻を分けるものなのですが、神は虫けらを、山をも粉 砕する打穀機にすると言われるのです。

 捕囚の民がやがてエルサレムに帰還しようとするならば、そしてさらに都を再 建しようとするならば、そこで行く手に立ちはだかる多くの山々に直面すること になるでしょう。ああ、とても自分たちにはできない、と思うかもしれません。 実際、そのように彼らは感じたようです。だからこそ、41章以降も神の語りか けが続くのです。しかし、神様には既に見えているのです。この虫けらは、やが て山々を粉砕し、荒れ野に広い道を通すことになる、と。

 使命を与えられるのが神様ならば、そのための力を与えられるのも神様です。 虫けらを打穀機にするのも神の御業なのです。だから主は言われるのです。「恐 れるな、虫けらのようなヤコブよ」と。そのような主が私たちと共にいてくださ る。私たちが教会であるとはそういうことであり、信仰によって生きる者である とは、そういうことです。この言葉を私たちへの語りかけとして受け取りましょ う。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。」

 
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