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「心が麻痺していませんか?」

2011年2月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 6章1節~9節

何かがおかしい

 今日の朗読箇所は「ある安息日に」という言葉で始まっていました。また、途 中の6節にも「また、ほかの安息日に」と書かれていました。ということで、今 日の朗読は「安息日」の話です。

 ユダヤ人の安息日は土曜日です。厳密には、日没と共に日付が変わりますから、 金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日です。この安息日を守ることについ ては、モーセの十戒の中の第四戒として記されております。「安息日を心に留め、 これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あな たの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト 20:8-10)。

 「いかなる仕事もしてはならない。」--信心深い人たちは、それを文字通り守 ろうとしました。何が「仕事」に当たるかを明らかにするために議論を繰り返し、 39種類の主要な労働が安息日に禁じられるようになりました。そして、さらに はそれぞれの労働について39の禁止事項が作成されるに至ります。全部で15 21の禁止事項。驚くべき細かさです。イエス様の時代にはまだそこまで細かく なかったようですが、禁止事項の中には例えば刈り入れをすることや脱穀をする こと、また、通常の医療行為なども含まれていました。それらが今日の話に関係 いたします。

 さて、そのような「安息日」にこんなことが起こりました。「ある安息日に、 イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。 ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたた ちはするのか』と言った」(1-2節)。

 他人の畑のものを勝手に食べたら泥棒です。やってはいけないことでしょう。 私たちはそう思います。しかし、実はこれは許されている行為だったのです。モー セの律法にこう記されているのです。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘ん でもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(申命記23:25)。これは 貧しい人たちへの配慮です。旧約聖書の中には、このような暖かい配慮がしばし ば見られます。ですから、ファリサイ派の人たちが咎めたのも、彼らが他人の畑 の麦を勝手に食べたからではないのです。そうではなくて、その行為を「安息日」 にしたから問題にしているのです。「なぜ、安息日にしてはならないことを、あ なたたちはするのか」と。

 つまり弟子たちの行為は、安息日の禁止条項にひっかかったのです。彼らは穂 を摘みました。これは「刈り入れ」という労働に当たります。また、麦の穂はそ のままでは食べられません。彼らは穂を揉みほぐして食べた。これは「脱穀」お よび「食事の準備」に当たります。笑い話ではありません。彼らは大真面目にそ う思っているのです。そのような安息日に禁止されている労働をどうしてするの か!と咎めているのです。

 それに対してイエス様は言われました。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だっ たときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかに はだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたでは ないか。」ダビデは確かに律法に反することをしたのです。決まりを破ったので す。しかし、神はそのダビデを咎めていないし、処罰もしていないではないか。 イエス様はそう仰りたいのでしょう。神様は単にダビデが決まりを破ったという ことだけに目を留めてはおられなかったのです。

 考えてみてください。イエス様の弟子たちが麦を摘んで手でもんで食べたとい うことは、ほど空腹だったということでしょう。その空腹な人たちが麦を摘んで 食べることが安息日律法にひっかかって問題であるならば、彼らが律法違反をし なくていいようにパンを少しでも分けてあげたらよいだけの話ではありませんか。 なのに、この信心深い人たちは、彼らの空腹の辛さには全く思い至らない。ただ 彼らが決まりを破ったということしか見えていない。何かがおかしい。何か変で す。しかし、こういうことって、よくある話だと思いませんか。人の間違った行 為しか見えない。その人の苦しみを思うこともないまま、ただ間違った行為を責 めて、咎めて、戒めて。そこから何も善いものが生まれてはこない。

 そのような私たちの内にもしばしば見られる人間の「何かがおかしい」という 部分がより一層見えてくるのが、今日お読みしましたもう一つのエピソードです。 別な安息日に起こった出来事です。

心の麻痺した人々

 「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人 の人がいて、その右手が萎えていた」(6節)。右手が萎えていたというのは、 麻痺していたということです。わざわざ「右手」と書かれているところを見ると、 その人の利き腕だったのでしょう。利き腕が麻痺していたら、そうとう不便です。 苦しい生活を強いられてきたのでしょう。その人がイエス様によって癒された。 手が元通りになった。そのような話です。しかし、今日の聖書箇所の中心は明ら かにこの人の癒しそのものではありません。その周りにいた人々とイエス様との やりとりです。

 周りの人たちに目を向けてみましょう。7節にこう書かれています。「律法学 者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息 日に病気をいやされるかどうか、注目していた。」場面は安息日の会堂です。彼 らは礼拝のために集まっていたということです。そこでイエス様は教えておられ たのです。彼らはイエス様の言葉を聴いていたのです。神の国の福音を聴いてい たのです。そうです。耳に音声としては届いていた。しかし、彼らは神を礼拝す る場所で、神の恵みを耳にしていながら、神様のことを考えてはいなかった。イ エス様を訴えることを考えていたのです。

 先ほど触れましたように、安息日の禁止事項には医療行為も含まれていました。 命が危ない時には安息日であっても、手当をすることが許されていた。しかし、 生命に危険がない場合の通常の医療行為は禁じられていました。手が萎えている こと自体は命の危険に晒されているわけではありません。しかし、彼らは分かっ ているのです。イエスはその人の苦しみを見るならば癒すに違いない、と。そう すれば律法違反で訴えることができる。それが、礼拝の場所で、しかも手が萎え て苦しんできた人を目の前にしていながら、聖書に精通していた人たちが考えて いたことでした。

 何かがおかしい。何かが変です。イエス様は癒されるべき手の萎えた人を前に していましたが、イエス様からすれば健常者である周りの人々の方がよほど麻痺 した人たちに見えたに違いありません。ただ麻痺しているのが右手でないだけで す。心が麻痺した人たち。でも、本当は右手が麻痺しているこの人の方がまだ状 態は良いのかも知れません。少なくとも、この人はイエス様を訴える口実を見出 そうとしてそこにいたのではなく、礼拝するために会堂にいたのであって、心は 神様に向いていたのですから。

 心の麻痺の方がよほど深刻です。ファリサイ派の人たちと律法学者たちにもう 一度目を向けてみましょう。彼らの目の前で右手の萎えた人が癒されたのです。 明らかに神の憐れみの業として、その人の右手が癒された。神の恵みを目にして いるのです。その人の喜びも目にしているのでしょう。きっと涙を流して喜んで いたに違いない。しかし、彼らは一緒に喜んではいないのです。何と書かれてい ますか。「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」 (11節)。神の恵みを喜んでいる人と一緒に喜べない麻痺した心。それは右手 が麻痺しているよりも悲惨です。

癒してくださるイエス様

 しかし、イエス様はそのような彼らの心をご存じでした。「イエスは彼らの考 えを見抜いて」(8節)に書かれているとおりです。イエス様はご存じでした。 ですから、イエス様はあえてこの人を真ん中に立たせて、癒されたのです。それ はデモンストレーションに他なりませんでした。神の恵みが人を癒すということ を示すデモンストレーション。右手が萎えた人以上に癒しを必要としていたのは、 あのファリサイ派の人たちだったのです。そして、ここにいる私たちもまた同じ です。神の恵みが私たちを癒すのです。どのようにして?イエス様が「安息日の 主」として、私たちを本来の安息日の中に据え直すことによってです。

 イエス様は言われました。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されて いるのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」 (9節)。そうです、その日は確かに「安息日」でした。そして、もともと神様 は何かを禁ずるために安息日を定められたのではないのです。申命記の中にこん な言葉があります。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの 神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさね ばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのであ る」(申命記5:15)。つまり安息日とは本来、神様の恵みと憐れみを思い起 こす日だったのです。

 その直前にはこう書かれています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であ るから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷 も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様で ある。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」 (申命記5・14)。皆を休ませる。牛やろばまで休ませる。それは最終的には、 男女の奴隷を休ませるためです。自分が神の憐れみを受けたことを思い起こして、 この場合、男女の奴隷に至るまで、すべての隣人を休ませるのです。そのように、 安息日とは神の恵みと憐れみを思い起こす日であり、さらには、神の恵みと憐れ みを思い起こしたなら、今度は恵みと憐れみに与った者として恵みと憐れみを他 の人に向ける。そのような日なのです。神の恵みを分かち合い、一緒に喜ぶ日。 イエス様もあのファリサイ派の人たちも、そのような安息日のただ中にいたはず なのです。

 イエス様は、そのような本来の安息日の中に私たちを据え直します。今日の箇 所には既に十字架へと向かわれるイエス様の姿が垣間見られます。その人を癒し たならば、自分を一歩十字架へと近づけることになると知っていながら、あえて 癒されたのですから。案の定、彼らは怒り狂って、イエスをなんとかしようと話 し合っているではありませんか。しかし、イエス様はそのように十字架に向かわ れることによって、そして十字架にかかられることによって、私たちに罪の赦し をもたらし、私たちを本来の安息日の中に据え直すのです。自分を正しい者とし て、他者の間違った行為にばかり目を向けている者を、神に赦された者、憐れみ を受けて今を生きている者として据え直すのです。そのようにして、また他の人 にも向けられている神の憐れみを思うことができる者として、そして神の憐れみ をもって共に生きる者へと回復してくださるのです。

 
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