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「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

2011年2月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 5章33節~39節

あなたの弟子たちは!

 今日の聖書箇所に、「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食 し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あな たの弟子たちは飲んだり食べたりしています』」(33節)とありました。こう いうこと言う「人々」って、いったい誰なんでしょう。

 実は、今日の箇所は前の話の続きなのです。日本語に訳されていませんが、続 きを示唆する言葉があるのです。そうしますと、この人々(彼ら)というのは前 に出て来た「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち」ということになりま す。つまり彼らの言葉によれば、度々断食し、祈りをしている人たちです。

 自分たちが何かを守っていると意識している人たちは、同じことを守っている 人たちのことが気になります。定められた時に行う断食を「守っている」ファリ サイ派の人たちは、同じように断食を行っている洗礼者ヨハネの弟子たちのこと を意識しているようです。場合によっては競争心さえ芽生えていたかもしれませ ん。

 また、もう一方において、何かを守っていると意識している人たちは、守って いない人たちのことも気になります。飲んだり食べたりしているイエスの弟子た ちのことが気になります。徴税人や罪人たちと食事を共にしているだけでなく、 そもそも断食などの敬虔な習慣に無頓着である、そんな彼らが気になります。彼 らが大事だと思っていることをあからさまに軽視するような行動を取られると腹 も立ってくる。だから、ついつい言いたくなるのでしょう。「ヨハネの弟子たち は度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。し かし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」

 そのように他の人たちをいつも気にして見ているとどうなるか。当然のことな がら、自分がどう見られるかも気になります。常々他の人を批判的に見ている人 は、自分が批判的に見られていないかが気になるものです。ですから、彼らの場 合、断食するにしても自分がちゃんと断食しているように見えるかどうかが気に なりますから、誰が見ても「断食している」って分かるようにしなくてはなりま せん。

 そう言えばマタイによる福音書に、こんなイエス様の言葉がありました。「断 食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。 偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり 言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ6:16)。このようなイ エス様の言葉から察するに、実際、一生懸命に暗い顔をして、いかにも「私は罪 を悔いて断食してます」という顔して、自分の敬虔さをアピールしている人は少 なくなかったのでしょう。

 表向きには信心深い人々の集団、敬虔なコミュニティ、そして、そのような人 たちが中心となっている敬虔な社会。しかし、実際にはお互いがお互いを監視し て、お互いがお互いを批判し合っていて、だから批判されないように一生懸命に 守るべきことを守って、その守っていることを誇りにして生きていくしかない。 なんとも不自由な命のない交わりがそこに形作られると思いませんか。しかし、 一般的に言って宗教の世界というものはそのようなものになりやすいのです。

祝宴は始まっている

 そのように「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子 たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりし ています」と言う人々に対して、イエス様はこう言われたのです。「花婿が一緒 にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」(34節)。

 「花婿が一緒にいる」とはどういうことでしょう。当時の婚礼においては花婿 が到着すると祝宴が始まります(マタイ25:1以下)。「花婿が一緒にいる」 とは、もう花婿が到着して、婚礼の祝宴が既に始まっているということです。明 らかに、その花婿とはイエス様御自身のことです。キリストという花婿がこの世 界に到来している。だから、もう既にこの世界に祝宴が始まっているのだ。その ようなイメージをもってイエス様は語っておられるのです。

 ではその既に始まっている婚礼の祝宴とは何でしょう。イエス様は何をおっしゃ りたかったのでしょう。そこで、私たちはこれが語られた場面を思い起こさなく てはなりません。この話はその前に書かれていることの続きですと申しました。 その前に書かれているのは、レビという徴税人が弟子になったという話です。

 レビは、自分の家でイエス様のために盛大な宴会を催しました。「そこには徴 税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」(29節)と書かれてい ます。それを見たファリサイ派の人たちがこう言いました。「なぜ、あなたたち は、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と。するとイエス様 はこう言われたのです。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせる ためである」(31-32節)。

 イエス様は罪人を招いて一緒に食事をされました。そんなことをしたら、世の 敬虔な人たちから非難されることは重々承知の上でそうされました。なぜでしょ う。既に神の祝宴が始まっているからです。既に始まっている祝宴が何であるか を最も良く現しているのが、罪人を招いての食事でした。イエス様の到来と共に 始まっているのは、メシアが罪人が招かれる祝宴です。招かれ集められるのは、 裁かれて滅ぼされるためではありません。そうではなくて、神に立ち帰って、罪 を赦されて救われるためです。神に立ち帰ることを「悔い改め」と言います。 「罪人を招いて悔い改めさせる」とはそういうことです。神に立ち帰らせるため にイエス様が招いてくださる祝宴です。

 それはどんなに大きな罪責を背負っている人であっても神様のところに帰るこ とができる祝宴です。どれほど神様に背いて背いて背き続けてきた人であっても 神様のところに帰ることができる祝宴です。自分で自分をもてあまして、もう嫌 気がさしているような人であっても、神に受け入れてもらえる祝宴です。そこに は赦しがあります。救いがあります。完全な救いの中に迎え入れてもらえる。そ んな祝宴が始まっているのです。イエス様の到来と共に始まっているのです。

 皆さん、私たちもまた、そのような祝宴に招かれたのです。イエス様の到来に よって始まった祝宴に招かれたのです。今、私たちがこうして集められているの は、その目に見えるしるしです。祝宴であるならば、まずそこに相応しいのは、 喜びを共にすることでしょう。一緒に神様の恵みを喜ぶことでしょう。神様に赦 されていること、愛されていること、罪を赦していただいて神様のもとに帰れた ことを一緒に喜ぶことでしょう。教会とはそういうところです。教会において一 番大事なことは、神様の恵みを一緒に喜ぶことなのです。祝宴なのですから。そ こには、敬虔さのアピールでしかないような形式的な断食など入る余地はありま せん。主は言われるのです。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させるこ とがあなたがたにできようか」。

その招きは十字架のキリストによって

 しかし、そこには一言加えられています。主はこう続けられたのです。「しか し、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」 (35節)。「花婿が奪い取られる時が来る」という主の言葉は、直接的にはキ リストが捕らえられ、十字架にかけられて殺されてしまうことを指していること は明らかです。

 イエス様は罪人を招かれました。神の祝宴へと招かれました。しかし、イエス 様は分かっておられたのです。そのように罪人を招く自分自身は、十字架にかかっ て死ななくてはならないことを。すなわち、罪の赦しが豊かに与えられる祝宴が 行われるためには、自分自身が罪の贖いの犠牲として屠られなくてはならないこ とを知っておられたのです。

 私たちは神の恵みを共に喜びます。そのような喜びへと招かれました。しかし、 私たちは決して忘れてはなりません。そのような救いの喜びへと招いてくださっ た御方は、私たちの罪の贖いとして十字架にかかられた御方であるということ。 ですから、教会では古くからキリストの御受難を覚えるレントの期間に断食が行 われてきたのです。

 そのような意味における断食はやはり大事です。私たちは文字通り食を断つと いう断食はしないかもれいません。しかし、それでもなお、時にはキリストの十 字架を仰ぎつつ何かを断つということは大事なことなのでしょう。あるいは断食 によって身を苦しめるのでなくても、時としてキリストの十字架を思いつつ苦し みを耐え忍ぶこと、重荷をあえて背負って行くことは大事なことなのでしょう。 それもまた信仰生活の一部なのです。

 そのような祝宴の喜びにせよ断食にせよ、キリストと共に到来して私たちに与 えられているのは、いわば「新しいぶどう酒」です。「宗教」という名の古いぶ どう酒ではなく、沸々と発酵し命が泡立っている新しいぶどう酒です。キリスト が到来して私たちに与えてくださったのは、「新しい宗教」なのではなく、新し い命であり新しい命による新しい生活です。

 イエス様は言われました。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならな い」(38節)と。そのような「新しいぶどう酒」を入れるために、教会は常に 「新しい革袋」でなくてはなりません。あのファリサイ派の人たちに見られたよ うな、古い革袋になってはなりません。古い革袋に新しいぶどう酒を入れたら破 れてしまいます。

 何かを守ることばかりが重んじられ、何かを守っていることが殊更に賞賛され るような「古い革袋」になってはなりません。お互いがお互いを監視して、お互 いがお互いを批判して、だから批判されないように一生懸命に守るべきことを守っ て、その守っていることを誇りにして生きていくしかない。そんな不自由な命の ない交わりでしかない「古い革袋」にしてはなりません。常に、しなやかで、伸 びやかで、祝宴の喜びがどのような形で溢れてきても大丈夫、また同時に真の断 食もその中にしっかりと納めている、そのような「新しい革袋」であり続けるこ とを求めていきましょう。

 
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