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「惑わされないように気をつけなさい」

2011年1月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 21章1節~9節

貧しいやもめの献金

 今日の朗読箇所の前半部分は献金の話です。「イエスは賽銭箱の向かいに座っ て、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れ ていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一 クァドランスを入れた」(41-42節)。そんな話です。

 最近あまり聞かなくなりましたが、以前、「レプタ献金」という言葉を良く耳 にしました。今日出て来ました「レプトン銅貨二枚」が、以前使っていました口 語訳聖書では「レプタ二枚」となっていたのです。(ギリシア語では「レプトン」 が複数になると「レプタ」になります。)そのレプトン(レプタ)とは、当時流 通していた中では最も小さい額の銅貨です。ということで、小銭の献金を「レプ タ献金」と呼んだのです。よく行われていたのは、例えば空き缶や空き瓶に「レ プタ献金」のラベルを貼りまして、そこに小銭を貯めていき、それが集まると教 会に持って行くというような形です。まあ、レプタは当時の小銭ですから、小銭 の献金を「レプタ献金」と呼んでも間違いじゃないと思いますが、当時、この名 前を聞く度に「何か変だなあ」と感じたのを思い出します。

 実際、変でしょう。明らかにこの聖書の箇所からすればレプトン(レプタ)は 単なる小銭じゃない。《貧しいやもめの献げた》小銭なのです。しかも、イエス 様の言葉からすれば、「持っている生活費全部を入れた」という献げ物なのです。 ならば、例えば小さな子どもが持っているお小遣い全部を献げたというのなら、 それが小銭であっても確かに「レプタ献金」になる。しかし、大人がいっぱい持っ ている中から小銭を献げて、それが「レプタ献金」になるかと言えば、やはりな らないでしょう。むしろその命名ならば、生活費全部、献げなくてはならない。

 そのように、この箇所は、小銭の献金のネーミングに用いられるような箇所で はないのです。単に「献金の額の多少は問題じゃないんですよ。小さな献金でも 尊いんですよ」ということを教えているのではないのです。この箇所の中心は 「レプトン」という「小銭」じゃない。神様に献げるということについて、この 箇所から考えなくてはならないことは別にあるのです。少なくとも大事なポイン トは二つあります。第一に、これは「乏しい中からの献げ物である」ということ。 第二に、これは「信頼の献げ物である」ということ。

 イエス様は言われました。「あの金持ちたちは皆、《有り余る中から》献金し たが、この人は、《乏しい中から》入れたからである」。ここに明らかな対比が あります。「乏しい」というのは、「足りない」ということです。「必要な分さ え欠けている」ということです。むしろ自分が必要としている。お金について言 えば、これはとても分かり易い。ある人は自分の状態を、この貧しいやもめに重 ねて見るでしょうし、ある人は自分の状態を「あの金持ちたち」に重ねて見るこ とができるでしょう。また、ある人は「その中間ぐらい」と言うかもしれません。

 しかし、考えてみますなら「乏しい中から」という言葉が関係するのは、必ず しもお金の話だけではないはずです。経済的に豊かな人が「乏しい」という言葉 と全く無縁かと言えば、決してそうではないでしょう。「お金はあるけれど、時 間がない」という人だっているでしょう。お金も時間もあるけれど、年老いて体 力が乏しいという人だっているでしょう。あるいは能力に乏しい、愛に乏しいと 感じている人だっているのではありませんか。

 そのような乏しさの中で、私たちはしばしば考えるのです。豊かだったら献げ られるのに、と。時間がもっとあったら神様に奉仕できるのに。体力があったら、 若さがあったら、もっと仕えることができるのに。もっとあの人のように有能だっ たら、あの人のように愛に溢れた人だったら、神様のお役に立てるのに、と。

 しかし、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。乏しい中からの献げ物 だからレプトン銅貨二つなのです。そんな献げ物が、実際的に何の役に立つかと 言われても仕方ない。そんな献げ物です。しかし、それが役に立つかどうかなん て考えないで、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。僅かばかりのもの です。忙しい人はレプトン二つ分に時間しか献げられないかもしれないでしょう。 病気の人は、レプトン二つ分のことしかできないかもしれないでしょう。でも、 イエス様は言われるのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれ よりもたくさん入れた」と。イエス様という御方はそう見ていてくださるのです。

 そのようにイエス様は貧しいやもめを指し示します。その一つの理由は、イエ ス様と一緒にこのやもめを見ていた弟子たちが、やがては同じ立場に置かれるこ とになるからです。やがて迫害の中にあって、様々な制約の中にあって、その乏 しさの中から自分自身を献げて教会を形作っていくことになる。ですからこの 「やもめ」の姿は「教会」と関係しているのです。その意味で私たちも目を向け なくてはならない姿がそこにあるのです。

 そして、もう一つ。イエス様はこうも言われました。「この人は持っている生 活費を全部入れたからである」と。生活費を全部入れたのは、明らかにそれでも 大丈夫だと思っているからでしょう。自分が自分の生活を支えているのではない。 神様が生かしてくださっている。その信頼があってこその献げ物ではありません か。

 ここに書かれているように持っている生活費を全部献げるというようなことは、 恐らくは特別なことなのでしょう。彼女が毎日同じことを繰り返しているとは思 えない。しかし、その特別な献げ物に見る「神への信頼」は一朝一夕で形作られ るものではありません。貧しい生活の中にあって、この日だけでなく、これまで 毎日毎日、神に信頼して生きてきたということです。ならば、彼女の献げたレプ トン二つは、信頼に生きる日々の生活をお献げしたものであるとも言えるでしょ う。

 これもまた弟子たちがしっかりと見ておかなくてはならないことでした。やが て彼らには、神への信頼の生活を背景としない献げ物などあり得なくなるからで す。信仰生活は命がけになるのですから。その点では私たちは置かれている状況 が違うとも言えます。しかし、献げ物においても大事なのはその背後に信頼の生 活があることであるという点は同じでしょう。私たちの献金にしても、私たちの 献身にしてもそうなのです。時として様々な乏しさの中からほんの僅かばかりの ものを献げるにしても、大事なのは、それを受け取ってくださる神様に日々信頼 して生きている、その神様と共に生きているということなのです。

見事な石と奉納物によって飾られた神殿

 そして今日の聖書箇所の後半に入り、話は次のように続きます。「ある人たち が、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言わ れた」(5節)。要するに、イエス様がレプトン銅貨二つを献げるやもめに注目 させているのに、そのもう一方で人々は神殿の見事な石と奉納物で飾られている ことに見とれている。そのように話はつながっていくのです。

 どうしたって人の目はそちらに向くのでしょう。紀元前20年にヘロデ大王に よって修復・増築が開始された神殿。それから数十年を経たイエス様の時代にお いてもまだ工事が続いているような大建築。完成したら未来永劫に残ると思える ような壮麗な建物。そちらの方に、どうしたって目が向きます。一人のやもめの 貧しい献げ物。そこにどんなに神への信頼の生活が現れていたって、そんなもの は吹けば飛ぶような不確かなものにしか見えないものです。実際、生活費全部献 げて、その後どうなったかは書いていない。普通に考えるならば、すぐにこの女 は困ったことになったとしか思えない。信仰生活というものは、見ようによって はそんな不確かなものにしか見えないのです。いざとなったら何の役に立たない。 「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたんだよ」と言われても、 「はあ、でもそれが何なの」というような話です。それよりは、目の前の大建築 の方がよほど重要に見えるし確かなものに見える。人の目はそちらに惹かれてい くのです。

 しかし、イエス様はその神殿についてこう言われたのです。「これらの大きな 建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」 (2節)。直訳するとかなりまどろっこしい表現となりますが、要するに、重なっ た石が一つも残らないほどに完全に崩壊するということです。

 これを聞いた弟子たちは、「そんな馬鹿な」と思ったことでしょう。その大建 築は永遠に残るとさえ思えたに違いない。しかし、イエス様は正しかったのです。 紀元70年、威容を誇ったヘロデの神殿はローマ軍によって徹底的に破壊される こととなりました。実は、このルカによる福音書は、その後に書かれたのです。

 しかし、それは何も特別なことではないことを私たちは知っています。確かに 見えるもの、絶対に崩れそうにないものが瞬くまに間に崩壊することがあること を、私たちはよく知っているのです。建物ばかりではありません。同じように、 絶対的な権力を誇っていた国家の体制が崩壊することがある。絶対に倒れるよう に見えない大企業が崩壊することもあります。絶対に安全であると思っていた社 会の制度が崩壊することもある。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残 ることはない」と主が言われたことは、現実には様々な形で起こります。

 そのような崩壊が起こる時、社会においても個人の人生においても、そのよう に何かが崩れてしまうという危機的状況に置かれる時というのは、確かに大事な 人生の転機ともなり得ます。自分はいったい何に目を向け、何を追い求め、何に 寄り頼んで生きてきたのかを省みる契機ともなります。本当に変わらざるものは 何なのか、失われない価値あるものとは何なのかを考える契機となります。もし そうなるならば、崩壊の経験というものも大きな意味を持つことになります。

 しかし、実際にはそうならないことも多々あるのです。人は危機に置かれる時 に、安易な救いに飛びつくのです。それこそ偽メシアについて行ってしまうとい うことが起こり得る。だからイエス様は言われたのです。「惑わされないように 気をつけなさい」(8節)。今日の説教題です。人々はこう質問したのです。 「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときに は、どんな徴があるのですか」。しかし、イエス様はその質問を無視するかのよ うに言われた。「惑わされないように気をつけなさい」。そのことの方がよほど 重要だからです。

 いざという時に「惑わされない」ためにはどうしたら良いのでしょう。「わた しがそれだ」「時が近づいた」という言葉、様々なこの世の言葉に翻弄されない ためにはどうしたら良いのでしょう。そのためには、普段のあり方が重要になっ てくるのでしょう。いざというときには、普段どう生きているかが、どうしても 出てしまうものなのです。見事な石と奉納物で飾られた神殿の類にしか目を向け ていなければ、それが崩壊した時に、他の似たようなものに飛びつきたくなるの です。

 ならば、どこに目を向けるべきなのでしょう。あの貧しいやもめです。神に信 頼して貧しさの中から全てを献げたあのやもめの生活の方が、見事な石で出来た 神殿よりも、イエス様の目にはよほど確かなものと見えたに違いありません。変 わることのない御方、崩れることのない御方と共に生きる生活を築いていくこと なのです。神に信頼し、貧しい自分自身を献げながら生きる生活を築いていくこ となのです。今、もし平穏無事であり安定の中にいるとするならば、いざという 時にではなく、今この時の信仰生活を大切にすることです。そして、そのような 信仰によって建て上げられていくのが教会なのです。それこそが建物ならぬまこ との神殿なのだと第2朗読でパウロは言っていました。「わたしたちは生ける神 の神殿なのです」(2コリント6:16)と。

 
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