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「主はあなたと共に」

2010年12月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 1章26節~28節

 天使ガブリエルがおとめマリアのところに来てこう言いました。「おめでとう、 恵まれた方。主があなたと共におられる」。--これこそ、まさにクリスマスのメッ セージです。このクリスマスにおいて聖書を通して神が私たちに宣言してくださっ ている言葉です。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。こ の言葉を2010年のクリスマスに与えられた御言葉として心に刻みましょう。

この世界に先駆けて

 ここに出て来る一人の女性。二千年も前にナザレという村に生きた一人の人。 あのナザレのイエスの母となった人、マリア。それはある特定の個人であると同 時に、ある象徴的な存在でもあります。すなわちマリアに起こった出来事は先駆 けなのです。マリアに告げられたのは救い主がマリアの胎に宿ったという知らせ でした。そして、やがて時満ちて救い主がこの世に誕生することになります。そ のように救い主がこの世界に誕生することによって、この世界が救い主を宿す世 界となるのです。マリアの胎に宿り、そしてこの世界に宿った。その意味でマリ アは先駆けです。

 そう考えますと、マリアはここで「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共 におられる」という言葉を聞いているのですが、マリアは世界に先駆けてそれを 聞いているとも言えます。これはやがて救い主の誕生において神がこの世界全体 に語ろうとしていることでもある。さらに言うならば、救い主がマリアに宿って この世界に生まれたのは、この世界が「主があなたと共におられる」という恵み の言葉を聞くためでもあると言えるのです。

 主は共にいてくださる。この世界と共にいてくださる。罪に満ちたこの世界、 互いに傷つけあい、殺し合っているこの世界、光である神を退けて暗闇の中に留 まっているこの世界を神は決して見捨てない。主は共にいてくださる。そのよう な世界のただなかにいる私たちと、私たちの暗闇の現実においても、主は共にい てくださる。この世界はもはや希望のない滅びゆく世界ではなく、救い主を宿し た世界、主が共にいてくださる世界です。私たちの人生もまた希望なくただ滅び に向かう人生ではなく、主が共に生きてくださる人生なのです。

 そのような救い主の宿りを、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共にお られる」という言葉と共に、マリアはこの世界に先駆けて告げ知らされました。 彼女はこの世界に先駆けて、神の救いを知り、神の恵みを知ったのです。ですか ら、今日はお読みしませんでしたが、この同じ章に、マリアの讃美の歌が記され ているのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜び たたえます」と彼女は歌うのです。

 さて、ここにいる私たちもまた、ある意味ではこのマリアと同じことをしてい ると言えるでしょう。この世界に告げ知らされるべき良き知らせを、マリアと同 じように世界に先駆けて聞いているのです。教会とはそういうものです。私たち の信仰生活とはそういうものです。救い主が来られたことを告げられ、「主があ なたと共におられる」という恵みの言葉を告げ知らされ、世界に先駆けて主と共 に生き始める。それが信仰生活です。

 実際、まだこの世界全体が救い主の到来を喜び祝っているわけではありません。 確かに街は賑やかにクリスマスのデコレーションで飾られています。しかし、皆 が救い主の到来を祝っているわけではありません。そのようなこの世界の中で、 私たちはこの世界に先駆けて、まず先に救い主の到来を祝い、主が共にいてくだ さることを喜び、マリアのように讃美の歌を共に歌っているのです。それが教会 がしていることですし、してきたことなのです。その意味では、ここに描かれて いるマリアという存在は教会の原型であると言うこともできるでしょう。

主があなたを用いられる

 しかし、「主があなたと共におられる」という言葉を先駆けて告げ知らされる ということは、ただ先駆けて主の救いと恵みを知るということに留まりません。 ただ先に主の救いを讃美する者となるということに留まらないのです。

 マリアに与えられたお告げは単に喜ばしい出来事を知らせるに留まりませんで した。そうではなくて、そのために他ならぬマリアという一人の人間が用いられ ることになる、その体が用いられることになる、というお告げだったのです。さ らに言うならば、それは救い主の誕生だけに終わらないのです。彼女はキリスト の母として生きていくことになるのです。これは神様が彼女の人生を用いようと しているというお告げに他ならなかったのです。「主があなたと共におられる」 とは、そのことをも意味していたのです。「あなたを用いようとしておられる主 が共におられる」ということでもあるのです。

 マリアが敬虔なユダヤ人であったならば、彼女もまた救い主を待ち望む一人で あったことでしょう。しかし、その実現のために自分が用いられるということは 全くの想定外だったに違いない。自分が用いられるとなると、話は全く違ってく るのです。例えば、こんなことを考えてみてください。あなたが祈っています。 「神様、この世界には苦しんでいる人、悲しんでいる人の何と多いことでしょう。 わたしの友人も大きな悩みの内にあります。神様、助けてください」。すると神 様の声が天から聞こえてきます。「あなたの祈りは確かに聴かれた。わたしはあ なたの祈りの内にある人々に関わり、わたしの力を現そう。」もし、そのような 声が聞こえたら、恐らく喜ぶことでしょう。しかし、続けて神様がこう言われた らどうでしょう。「わたしは救いを実現するために、あなたを用いたい。あなた の体とあなたの人生を用いたいのだ」。--「え?ちょ、ちょっと待ってください。 それは話が違います。用いるならば誰か別の人を用いるか、直接神様がやってく ださい。」--もしかしたらそのような反応を示すかもしれません。

 そのように、私たちは往々にして、神が何かをしてくださることを一生懸命に 求めるのですけれど、そのために自分が用いられることは想定していないものな のです。そうです、確かにメシアが与えられることをマリアは願っていたでしょ うし、それが与えられることは喜ばしい知らせでした。しかし、そこには《この わたしが用いられる》という想定外のことが含まれていたのです。それがこのマ リアの直面している出来事なのです。「主があなたと共におられる」とはそうい うことでもあったのです。

 しかし、そこでマリアはどうしたでしょうか。彼女はこう言ったのです。「わ たしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)。 これが「主があなたと共におられる」というお告げに対するマリアの応答でした。 マリアは、共におられる主に、自分の体を差し出したのです。自分の人生を差し 出したのです。そして、私たちは知っているのです。主は確かにマリアの体と、 マリアの人生を、この世界の救いのために用いられた。その生涯は永遠の意味を 持ったのだ、と。

 先ほど申しましたように、マリアは教会の原型でもあります。信仰に生きると はどういうことかを指し示している存在です。私たちはこの世界に先駆けて「主 はあなたと共におられる」という言葉を聞きました。そのような私たちを主は用 いようとしておられるのです。この世界に「主はあなたと共におられる」という ことを現わすために、この世界に主の救いを現わすために、主は私たちと共にお られて、私たちを用いようとしていてくださるのです。私たちに必要なことは、 「主はあなたと共におられる」という言葉を聞いた者として、「わたしは主のは しためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言って、自分自身を差 し出すことだけです。

 救い主が来られたことを告げられ、「主があなたと共におられる」という恵み の言葉を告げ知らされ、その主と共に生き始める。それが信仰生活です。先ほど、 そう申し上げました。しかし、さらに言うならば、信仰生活において「主と共に 生きる」とは、主に自分を差し出して、自身と自分の人生を用いていただくこと である、と表現することができるでしょう。私たちは何ができるか、何を持って いるか、若いか年老いているか、健康であるか病気であるか--関係ありません。 ただ自分を差し出すことです。

 今日、信仰告白式が行われます。彼女は小学生ですが自ら志願して、精一杯の 準備をして、幼いながらも精一杯の信仰を言い表して、今日、自分自身を神様に 献げます。その姿は今日私たちにとって、「主が共におられる」ということを指 し示すしるしとなるでしょう。このクリスマスにおいて、「おめでとう、恵まれ た方。主があなたと共におられる」という言葉が、本当の意味で私たち一同への 言葉となりますように。

 
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