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「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

2010年2月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 23章35節~43節

届いている神の恵み

 今日は35節からお読みしましたが、その少し前にはこんなことが書かれてい ます。「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引か れて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを 十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」(32-3 3節)。そして、イエス様の言葉が続きます。「そのとき、イエスは言われた。 『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」 (34節)。この言葉はあの二人の犯罪人にもはっきりと聞こえたことでしょう。 その後でそれぞれがイエス様に話しかけているように、彼らは声の届く距離にい るのですから。そうです、彼らはそれほどイエス様の近くにいたのです。いや、 《いさせられた》というのが正しいのでしょう。彼らは自分で好んで十字架にか かったわけではありませんから。

 当然のことながら、彼らが十字架にかけられているのは、捕まったからです。 そして、裁判にかけられた。死刑だけは免れることを願っていただろうと思いま すが、結果は死刑の判決でした。彼らが何をしたのかは分かりません。マルコに よる福音書には「二人の強盗」と書かれています。あるいはローマからの解放を 求めていた過激派である「熱心党」の者たちではないかと言う人もいます。いず れにせよ、捕まったことは不運であったとも言えます。何をしたにせよ、死刑と いう判決が下ったことは悲しむべきことだったに違いありません。しかも当時に おいて最も残酷な死刑と言われた十字架刑に処せられるというのは、最大の不幸 以外の何ものでもなかったでしょう。

 しかし、福音書は私たちに伝えているのです。その時、彼らは救い主のすぐ側 にいたのだ、と。彼らは声を聞くことのできるところにいた。そして、声を聞い てもらえるところにいたのだ、と。不運と思えるようなことであっても、災いと しか思えないような結末であっても、ともかくその時、彼らはメシアと共にいた のです。彼らは救い主のもとに辿り着いたのです。ならばそこには確かに神の恵 みがある。そう言うこともできるでしょう。この二人の犯罪人にも神の恵みは届 いていたのです。

 このように現される神の恵み。ある意味で私たちにも覚えがあります。私たち がキリストに辿り着いたのも、必ずしもあの東方から来た占星術の学者たちのよ うに、星に導かれてメシアを求めてはるばる旅をしたからではないでしょう。否、 むしろ自分が望まないような仕方で、メシアの側に《いさせられた》としか言い ようのないことって、あるではありませんか。ある人は病気を通して、ある人は 家庭の問題を通して、様々な苦しみを通して、キリストのもとに導かれたのでしょ う。ある人は親がキリスト者だったから、という人もいるかもしれません。それ を最初から「恵み」として受け取れる人は本当に幸せだと思いますが、必ずしも そうならない。私もまたキリスト者の家庭に生まれたのですけれど、子どもの時 には「私はなんと不幸な星のもとに生まれてきたことか」としばしば嘆いたもの でした。しかし、どのような道筋にせよ、キリストの側へと導かれたのなら、そ れは恵みであり、恵み以外の何ものでもないのです。

神を恐れないのか

 しかし、恵みが必ずしも恵みとして受け取られるとは限りません。恵みは届い ています。人は恵みにあずかることもできますが、もう一方において、与えられ た恵みを無駄にしてしまうこともあり得ます。ですから、パウロがコリントの教 会に宛てた手紙の中でもこう言われています。「神からいただいた恵みを無駄に してはいけません」(2コリント6:1)。それはここに描かれている二人の犯 罪人の姿にも良く現れております。

 犯罪人の一人はこう言いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々 を救ってみろ」(39節)。「自分自身と我々を救ってみろ」とは、具体的には 十字架から降ろすことです。十字架刑から解放することです。そのようにして苦 しみから解放することです。苦しみがあれば苦しみから解放されることに救いを 求める。それは私たちにも良く分かります。私たちも常々そうしていますから。

 問題があれば解決されることに救いを求めます。病気ならば癒されることに救 いを求めます。死に直面したならば、死なないで少しでも長く生きられることに 救いを求めます。個人的な事柄だけではりません。当時の熱心党員だったら、ユ ダヤ人社会全体がローマから解放されることに救いを求めるでしょう。苦しみか ら解放してくれてこそ救い主、メシアだと思う。期待に応えられないようなメシ アなど要らないのです。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをの のしった」と書かれています。「お前はメシアではないか」というのは、ののし りの言葉なのです。なぜののしっているのか。人間の求めに応えられないメシア だからです。期待に応えられないメシアだからです。無力なメシアだからです。 十字架にかけられているメシアだからです。無力なメシアなど要らないのです。 だから彼は残されている力をイエスをののしるために使ったのです。

 しかし、その時、もう一人がこう言いました。「お前は神をも恐れないのか、 同じ刑罰を受けているのに」(40節)。本当に必要なのは十字架から降ろして もらうことなのか。いや、もっと重大なことがある。もう一人はそのことに気づ いたのです。この二人はまさに人生の終わりに差しかかっているのです。それは 単なる苦しみの時ではないのです。災いの時でもないのです。それは、人生その ものを問われている時なのです。あなたはこれまでどのように生きてきたのか。 与えられた命をどう生きてきたのか。そのことが神の御前において問われている、 この上なく厳粛な時に他ならないことを、もう一人は気づいたのです。確かに今 は人間の裁きによって十字架にかけられている。しかし、人間の裁きが最終的な 裁きなのではない。本当に人生を問われるのは、神の御前においてなのだ。その ことに気づいた彼は、叫んだのです。「お前は神をも恐れないのか」と。

 苦しみからの解放を求めて悪いわけじゃない。主に求めたらよいと思います。 問題があれば解決されることを求めたらいい。病気になったら癒しを求めたらい いと思います。わたしも年がら年中「助けてください。何とかしてください」と、 ありとあらゆることについて懇願しながら生きています。それが悪いことだとは 思いません。しかし、私たちが苦しみの中にある時、悩みの中にある時、それは もしかしたら私たちにとって決定的に重要なことが問われている時かもしれない のです。あなたは与えられた命をどう生きてきたのか。神の御前においてどう生 きてきたのか。あなたと神との関係はどうなっているのか、と。

 そして、その時に「わたしは人に対しても神に対しても正しく生きてきました」 と言い得ない者であることを認めざるを得ないのです。人に対してならば自分の 正しさを主張できるかもしれません。なんで悪くもない私がこんな思いをしなく てはならないのか。そう言うこともできる。言わなくても思っているものです。 しかし、神に問われるならば言い得ない。私たちの人生そのものが問われる時、 神の御前では一人の罪人として立たざるを得ないのです。私たちは神を恐れなく てはならない。

わたしを思い出してください

 しかし、そのような私たちに、今日、良き知らせ(福音)が届いているのです。 それが今日読まれた福音書の言葉です。十字架にかけられた犯罪人である彼ら。 人生を終えようとしている時に、人生そのものが問われている決定的な時に、も はや何も為しえない彼ら。まさに罪人として人生を終えざるを得ない彼ら。その ような彼らと共にーー誰がおられますか?ーーそこに十字架にかけられたイエス様が おられたのです。彼らは犯罪人として逮捕され、死刑判決を下され、処刑される という一連のことを通して、イエス様のすぐ側に導かれていたのです。彼らは声 の届くところに、《いさせられた》のです。神の恵みとして。最初に申しました ように、ここに見るのは、まさに私たちの姿に他ならないのです。

 救い主は声の届くところにおられた。だからもう一人の犯罪人は、残された力 を絞り出すかのようにして、イエス様にこう言ったのです。「イエスよ、あなた の御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)。

 私たちはこの言葉の意味するところを良く考えなくてはなりません。これは単 に「死んでもわたしを忘れないでくださいね」と言っているのではないのです。 「あなたの御国」と書かれていますけれど、本当は「あなたの王国」という言葉 なのです。「あなたの王国」というのですから、その王国の王は誰かと言えば、 それはイエス様なのです。そして、王というのは裁判官でもあるのです。裁く権 威を持っているのが王なのです。人間の目から見たら十字架の上で死んでいく一 人の犯罪人にしか見えないイエス様なのでしょう。しかし、そうじゃない。この 御方は死んでいくのではなくて、まことの王として君臨する御方なのだ。そして、 最終的に裁く権威をお持ちなのは、ユダヤの大祭司でもローマの皇帝でもなくて、 この御方なのだ。このもう一人の犯罪人はそう言っているのです。

 ならば「わたしを思い出してください」という言葉は、本来は続かないはずで しょう。皆さんだったらどうですか。あなたがどう生きてきたのかということを 最終的に裁くことのできる方に「わたしを思い出してください」と言いますか。 むしろ「わたしを忘れてください」と言いたくなるのが本当でしょう。私が生き ていたことをどうぞ忘れてください。私がしてきたことをどうぞ忘れてください。 そう言いたくなるのが本当ではありませんか。

 しかし、この人は言ったのです。「わたしを思い出してください。わたしを覚 えていてください」と。どうしてですか。この御方は、イエスという王は、きっ と憐れんでくださるに違いないと思ったからでしょう。言い換えるならば、イエ スという王は、その裁きを行う権威をもって、赦しを宣言してくださるに違いな い。私の人生そのものに赦しを与えてくださる御方であるに違いない。そう信じ たからでしょう。つまり「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わ たしを思い出してください」という言葉をもって、彼は罪の赦しを願い求めてい るのです。この人にとっては本当に重要なことは十字架から降ろしてもらうこと ではなくて、罪を赦していただくことだったのです。

 するとイエス様は、即座にこう答えてくださったのです。「はっきり言ってお くが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。なんとイエス様が御国の王座 に着いた後ではなくて、そしてこの犯罪人が死んだ後ではなくて、まだ生きてい る時に、その時に、彼はイエス様の口から答えを聞いたのです。「あなたは今日 わたしと一緒に楽園にいる。」これは完全な罪の赦しの宣言に他なりません。彼 はもはや罪人として死んでいく必要はなくなったのです。地上において、まだ十 字架の上でもがき苦しんでいるときに、罪の赦しの言葉を前もって聞くことがで きたのですから。確かにイエス様の側に《いさせられた》ことは恵みでした。神 の恵みは届いていました。そして、その恵みは無駄にはなりませんでした。彼は 確かに神の恵みにあずかったのです。

 この同じ恵みが、私たちにも確かに届いていることを感謝しましょう。彼がイ エス様の側に《いさせられた》のは人生最期の日でした。私たちは、人生最期の 日ではなくて、その前に既にイエス様のもとにいるのです。ここに連れて来られ ているのです。それが恵みであり恵み以外の何ものでもないことを覚え、神様に 感謝しましょう。その恵みを私たちは決して無駄にしてはならないのです。

 
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