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「本当の強さはどこに」

2010年10月10日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書14章43節~52節

逃げてしまった弟子たち

 今日の福音書朗読はユダの裏切りの場面でした。場所はゲッセマネの園。剣や 棒を持った群衆がユダに引き連れられて、イエスを捕らえるためにやってきます。 真夜中の暗闇の中で、間違いなくイエスを捕らえるために、彼らは合図まで決め ていました。「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように 連れて行け」と。

 イエス様はそれまで逃げ隠れしていたわけではありません。毎日、神殿の境内 で、公の場所で、人々に教えていたのです。しかし、彼らは昼間にイエスを捕ら えることはできませんでした。イエス様を支持する大勢の群衆がいたからです。 そのような人々のただ中でイエスを逮捕したならば大騒ぎになりかねません。暴 動が起こるかもしれません。ローマ当局も黙ってはいないでしょう。ローマの軍 隊がエルサレムに乗り込んでくることになる。そのような事態はなんとしても避 けねばなりません。それゆえに、真夜中の逮捕となったのです。

 そのために雇われたのがユダでした。銀貨三十枚で。ユダの役目は人目に付か ない所でイエスを逮捕する手引きをすることでした。群衆のいない所で捕らえる ために、イエスと少数の弟子たちだけが集まる場所に案内することを求められた のです。もっともイエスの弟子たちの中には血の気の多いのも少なくありません。 暴れる奴がいるかもしれない。ということで、ユダは武装した大勢の人々を同行 させました。ユダが予想したとおり、暴れた奴がいました。他の福音書によれば、 剣を振り回したのはペトロらしい。しかし、多勢に無勢。どう見ても勝ち目はあ りません。結局弟子たちはどうしたか。聖書は淡々とこう報告しています。「弟 子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50節)。

 イエスを置いて一目散に逃げていく弟子たち。しかし、それはイエス様にとっ ては驚きではありませんでした。主は既にこの事態を予告しておられたのです。 イエス様は弟子たちとの最後の晩餐において、こう言っておられたのです。「あ なたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散って しまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先 にガリラヤへ行く」(27-28節)。

 そうです。イエス様には分かっていたのです。しかし、イエス様の言葉に異議 を唱えた人がいました。ペトロでした。そんなことはあり得ない、と。彼はこう 言ったのです。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。 他の連中はどうであるかは分からないけれど、自分だけはつまずかない。自分だ けは見捨てて逃げるようなことはない。それがペトロの確信でした。しかし、主 はそのペトロに言われました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、 鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」しかし、ペト ロは引き下がりませんでした。彼は力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒 に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しませ ん。」

 他の人の心の中までは分からない。しかし、自分の心の中にあるものは分かっ ている。誰でもそう思います。私たちもそう思っているし、ペトロもそう思って いた。だから「たとえみんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言う のです。他の人はどうであれ、自分のことは分かっている。確かに彼の内には揺 るぎないものがあるのです。ペトロの内にはイスラエルの復興という希望があり ました。神の国の実現という夢がありました。そのために命を捨てても惜しくな いという使命感がありました。何よりもそのために来られたメシアなるイエス様 への忠誠心、そして、イエス様に対する偽りのない愛がありました。そうです、 ペトロは本気で言っていたのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなって も、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と。

 それはペトロだけではありませんでした。他の弟子たちもまた同じことを考え ていたのです。「皆の者も同じように言った」(31節)と書かれているとおり です。しかし、その彼らについて、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてし まった」と聖書は語っているのです。彼らの内にあった希望も夢も使命感も愛情 も忠誠心も、その時には何一つ確かなものとして役には立たなかったということ です。そうです、心の中にあるものは、いざというとき、役に立たなかったので す。

強さは人の外にある

 その弟子たちの姿と極めて対照的なのはイエス様の姿です。裏切られた人。弟 子たちからも見捨てられた人。大きな権力によって捕らえられ亡き者とされよう としている人。嵐の中の一枚の木の葉のような存在。それがイエス様でした。し かし、ここを読みますと、その一枚の木の葉はなんと嵐の中にあっても吹き飛ば されてはいない。主は毅然として、武装した群衆に対してこう語られたのでした。 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは 毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえな かった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」(48-49節)。

 「これは聖書の言葉が実現するためである」。そうイエス様は言われました。 言い換えるならば、聖書にあらかじめ示されている「神の御計画が実現するため である」ということです。あなたたちは暴力によって、あるいは権力によって、 私をどうすることもできると思っているかもしれないが、実はそうではない。父 なる神の御計画が実現に向かって進んでいるだけなのだ。そうイエス様は言い放っ たのです。そのイエス様の言葉に表れているのは父なる神と子なるキリストとの 絆です。裏切りと暴力のただ中にあって、イエス様を立たせていたのは、信念や 使命感などではありませんでした。イエス様は自分の心の内にある強さによって 立っていたのではないのです。そうではなくて、イエス様は父なる神との絆によっ て立っていたのです。

 この直前には、キリストの祈りの姿が描かれていました。「アッバ、父よ、あ なたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(3 6節)。苦しみながら、悩みながら、血のように汗を滴らせながら祈るイエス様 の姿。そこに見るのは内なる強靱な精神力によって泰然として現実に向かうイエ ス様の姿などではありません。この世的に見るならばあまりにも弱々しいイエス 様の姿です。しかし、そこには恐れも悲しみもすべて注ぎだして祈ることができ る、父と子の絆がありました。この父と子の関係こそが、キリストを支えたので す。「この杯をわたしから取りのけてください」と憚ることなく祈ったイエス様 は、その末にこう口にして立ち上がります。「しかし、わたしが願うことではな く、御心に適うことが行われますように」。この父との関係こそが、ユダの裏切 りの前に、捕らえに来た群衆の前に、キリストを揺らぐことなく立たしめたので す。

 私は牧師ですから入院している方をお訪ねする機会が少なくありません。する と時折、他の患者さんから「信仰のある人はいいですね」というような言葉を聞 くことがあります。苦難の時に、危機に直面したときに、信仰がその人を支える というのは事実です。しかし、その言葉を聞きながら、その人はどのようなつも りで言っているのかな、と思うことがあります。「その人の内にある信仰心がそ の人を支えるのだ」という意味でしょうか。実際、そのような意味で語られてい ることが少なくない。「何を信じたってよいのだ。信じる心が大事なのだ」とい う言葉もしばしば耳にいたします。しかし、そのような意味において「信仰心が その人を支えている」と言うならば、それは正しくありません。ペトロや他の弟 子たちに見るように、人の心の中にあるものなどは実に脆いものです。状況によっ ていくらでも崩れてしまうものなのです。

 人間を支えるのは人間の内にある「信じる心」などではありません。そのよう な意味における「信仰」などではありません。動かざるものは人間の《内》にあ るのではなくて、《外》にあるのです。すなわち、生ける神御自身です。人間に とって本当の強さとは、動かざるものを自分の心の内に持つことではなく、動か ざる御方にしっかりと繋がることなのです。

目を覚まして祈っていなさい

 ですから、イエス様は弟子たちにこう言われたのです。「誘惑に陥らぬよう、 目を覚まして祈っていなさい」(38節)。そうです、「祈っていなさい」なの です。自分の内に目を向けるのではなくて、自分の内に確かなものを探してそれ に寄り頼むのではなくて、ひたすら神に目を向け、神とつながっていること、神 と向き合って生きることを求めるのです。

 この逃げ出した弟子たちは、後に使徒たちと呼ばれる初代教会の指導者となり ました。その指導者たちの恥ずかしい過去がこうして聖書に記されている。考え てみれば不思議なことですが、一つのことは明白です。彼らが恥ずかしい過去を 決してもみ消そうとはしなかったということです。むしろあえて語り続けた。ペ トロなども、自分が三回イエス様を否んだことを語り続けた。だから聖書にこの ように残っているのです。彼らが教会の指導的な立場にいることや、そもそもキ リスト者であり続けていられるのは、彼らの心の内に強さを持っているからでは ない、ということを彼らは骨身に染みて分かっていたに違いありません。

 それは恐らくこの福音書を書いたマルコにとっても同であったに違いありませ ん。彼は弟子たちが逃げたという話に、もう一つのエピソードを書き加えました。 一人の若者が真っ裸で逃げて行ったという話です。別になくてもよさそうな話で しょう。でも、彼はどうしても書きたかったに違いない。というのも、マルコも またいわば「逃げ出した人」だったからです。パウロが第2回の伝道旅行に出発 する際の出来事を、使徒言行録は次のように記しています。今日の第2朗読で読 まれた箇所です。「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思っ た。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行 かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた」(使徒15:37-38)。 第一回目の伝道旅行のとき、パウロたちに同行したマルコには、それなりの使命 感や熱情があったに違いありません。しかし、彼は途中で脱落してエルサレムに 帰ってしまったのです。パウロは怒りました。そんな奴はもう連れて行けないと 第2回目の際にパウロに見限られてしまったのがマルコです。

 しかし、マルコはそれで終わりませんでした。彼はバルナバと共にキプロスに 渡り、伝承によれば後にペトロの通訳として働き、そしてやがてこの福音書を書 きました。そして、彼はその中に、裸で逃げていく一人の若者のことを書いたの です。きっと「これはわたし自身に他ならない」という思いを込めて書いたので しょう。マルコにとりましても、福音書を書いている自分が今あるを得ているの は、自分の心の内にある確かさや強さによるのではないことは明白だったのです。

 
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