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「何回まで赦すべきでしょうか」

2010年9月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 18章21節~35節

七回までですか

 ある時、イエス様が徴税人や罪人たちと共に食事をしていると、ファリサイ派 の人々が弟子たちに尋ねました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一 緒に食事をするのか」。すると、これを聞いたイエス様はこう言われたのです。 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正 しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12-13)。

 私たちが今ここにいるのは、イエス様が招いてくださったからです。正しい人 を招くためではなく、罪人を招くために来られたイエス様だからこそ、私たちを も招いてくださったのです。病院に病人がたくさんいるのを見て驚く人は、病院 が何であるかを知らない人です。教会に罪人がいることを見て驚く人は、教会が 何であるかを知らない人です。私たちは癒されるために招かれた病人であり、救 われるために招かれた罪人です。ですから私たちは神の光の中で自分自身の現実 を認め、神の光の中で悔い改め、赦しを祈り求め、赦しにあずかり、神との交わ りの中に留まり続けます。神との交わりの中で、私たちは癒され、罪の力から解 放され、変えられてゆくのです。その意味において、私たちは皆、途上にある者 です。全き癒し、全き救いの途上にある不完全なる者です。

 そのような私たちですから、互いに傷つけ、傷つけられること、苦しめ、苦し められるということもまた起こり得ます。それゆえに、神に対して罪を認め、赦 しを求めるだけでなく、互いに対して自らの罪を認め、互いに赦しを求めること、 そして互いに赦し合うことが必要となってきます。そのように、互いに赦し、赦 されながら、互いに受け入れ、受け入れられながら全き救いに向かって歩んでい く。それが教会です。しかし、そこではまたかつてペトロが口にしたような問い も起こってくるかもしれません。ペトロはイエス様にこう質問しました。「主よ、 兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までです か」。ということで、説教題は「何回まで赦すべきでしょうか」となっています。

 「何回まで赦すべきでしょうか」。普通はだいたい三度までです。これは万国 共通みたいです。「仏の顔も三度まで」と言いますでしょう。ユダヤの世界にお いても、神の赦しは三度までと考えられていたようです。それを考えますと、ペ トロが口にした「七回までですか」というのは非凡な寛容さと言えます。さすが はイエス様の一番弟子!と思いきや、イエス様から返って来たのは、「よく言っ たペトロよ」というお褒めの言葉ではありませんでした。主はこう言われたので す。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22 節)。そんな無茶な!それはいくらなんでも言い過ぎでしょう!そう言いたくな るような極端な言葉ですが、イエス様はさらに輪をかけて極端なたとえ話を語り 始めたのでした。

憐れみ深い王

 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金 の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来 が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来 に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひ れ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」 (23-27)。

 一万タラントンと言えば一人の労働者に対する六千万日分の給料に相当します。 どう考えても、そんな多額の借金ができるはずありません。これを聞いている人 は、そもそも一万タラントンとはどのくらいの額なのか、その額のあまりの大き さにイメージすらできなかったに違いありません。いくらなんでも無茶苦茶です。

 もちろん、イエス様はあえてそのような極端な話をなさったのでしょう。これ は天の国、神の国のたとえです。そのたとえにおいて、「王」が出てきたら明ら かに神様を指しています。借金している家来とは私たち人間のことです。そもそ も罪と赦しの話をしていたわけでありますから、借金として語られているのは私 たち自身の罪の話です。要するに、その話をするに当たって、想像もできないよ うな莫大な借金を負っている家来の話をして、「これがあなたたちだよ」と言っ ているのです。

 先ほど、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため である」というイエス様の言葉を引用しました。そのイエス様に招かれて、私た ちもまたここにいる。だから私たちは赦しを祈り求め、赦しにあずかり、神との 交わりの中に留まるのだと申しました。そうです、確かに教会生活の中で、神の 光に照らされて見えて来る自分自身の姿があります。教会に来る前にはまったく 気づいていなかった自分の罪深さも見えてきます。はじめは馴染めなかった「主 よ、赦してください」という祈りが、次第に私たちの心からの祈りになってまい ります。しかし、イエス様のたとえ話によれば、私たちは恐らくまだまだ見えて いないのです。私たちは本当の意味で自分の罪深さなど、分かってはいないので す。一万タラントンという借金については想像も及ばないように、神に対する私 たちの罪の負い目がいかに大きいかということは、まさに想像も及ばないことな のです。

 しかし、イエス様のたとえ話の極端さは、その借金の額に留まりません。主君 はこの家来に対して、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するよう に」と命じました。これは理解できます。主君は殊更に酷い要求をしているわけ ではありません。全部を売り払ったとしても、一万タラントンには遠く及ばない のですから。私たちの理解を超えてしまうのはその次です。「その家来の主君は 憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)。一万タ ラントンの借金の帳消し!そんな馬鹿な!そんなことはあり得ない!イエス様の 話を聞いていた誰もがそう思ったに違いありません。しかし、それが神の赦しだ、 神の憐れみだ、とイエス様は言われるのです。人間の罪が想像の及ばないほどに 大きいとしても、神の憐れみはそれよりもはるかに大きいのだ、ということです。

 神様は私たちの想像も及ばないほどに憐れみ深い王なのだということ、神の国 はまさに憐れみの王国なのだということを、イエス様はこのたとえ話で教えてく ださっているのです。そのイエス様によって招かれて、私たちもまたここにいる のです。私たちもまた、神の憐れみの王国に招かれたのです。一万タラントンの 借金が帳消しにされる王国へと私たちは招かれたのです。信仰生活とは、そのよ うな憐れみ深い王の家来として生きることに他ならないのです。

憐れみ深い王の家来として生きる

 このたとえ話の家来もまた、憐れみ深い王の家来として新たに生き始めました。 もはや悲しみと恐れの中に、自己憐憫と絶望の中に生きる必要はありません。い つ決済の時が来るかと、ビクビクしながら生きる必要はありません。憐れみ深い 王によって憐れみを受けた者として、喜びと感謝をもって、そうですただひたす ら王への感謝をもって生きていくことができるのです。

 王への感謝をどのように表したら良いのでしょう。どのように御恩に報いたら よいのでしょう。一万タラントンを帳消しにされた御恩に報いることなど、本来 は到底できることではありません。しかし、せめてもできることはあります。そ れは王が憐れみ深くあるように、誰かに対して憐れみ深くあることです。王の計 り知れない憐れみにあずかった者として、王から受けた憐れみを今度は誰かと分 かち合って生きて行くことです。具体的に王から受けた憐れみを分かち合うチャ ンスはいくらでもありそうです。特に、自分に罪を犯した人に出会う時、自分を 傷つけた人に出会う時などは、まさに王の憐れみを示して分かち合う絶好のチャ ンスでしょう。

 この家来にも、憐れみ深い王の家来として行動するチャンスが、すぐに訪れた のです。なんと向こうから「自分に百デナリオンの借金をしている仲間」がやっ て来た。チャンス到来です。憐れみによって与えられた機会です。そうでしょう。 もし一万タラントンの負債を帳消しにされていなかったら、外でこの仲間に出会 うこともなかったのですから。しかし、この家来は残念ながらそのチャンスを生 かすことができませんでした。イエス様は、次のようにたとえ話を続けます。

 「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間 に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、 『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲 間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見 て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家 来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消 しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間 を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり 返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」(28-34節)。

 「主君は怒った」と書いてあります。このたとえ話で初めて主君が怒っている のです。一万タラントン返せなくても、主君は怒らなかったのです。この主君の 怒りは、主君の期待の裏返しです。主君は何を期待していたか。「わたしがお前 を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」 (33節)。これだけなのです。これこそが主君の望んでいた唯一のことだった のです。主君が望んでいたのは、一生かかってでも償いをするという類のことで はなく、一生負い目を背負って生きることでもなく、ただ憐れみを受けた者とし て憐れみをもって生きることだったのです。

 ペトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょ うか。七回までですか」と言いました。三回にせよ七回にせよ、数を数えている うちは、まだ意識においては貸しを積み上げているということでしょう。これだ けあの人には貸しがあります。また一つ貸しが増えました。そのような意識であ るならば、七回でも八回でも490回でも同じです。イエス様が言っておられる のは、まったく別のことです。私たちは憐れみ深い主君の家来として、すべての 出会いを主君の憐れみ深さを表す機会として生かすのです。そのようなチャンス はいくらでもあります。教会はそのようなチャンスに満ちています。そのように 生きる人は、確かに赦した数を数えはしないものです。七の七十倍とは、そのよ うな意味なのです。

 
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