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「自分自身を神にお献げする」

2010年9月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 12章38節~44節

信仰生活は献身の生活

 「自分自身を神にお献げする」というのが今日の説教題です。「献身」の話で す。「献身」という言葉は教会ではしばしば「伝道者となる」となるという意味 で用いられます。誰かが牧師となるために神学校に行きますと「彼は献身しまし た」などと言われます。しかし、当然のことながら「献身」の意味するすべてで はありません。「献身」はここにいる私たちすべてに関わるテーマです。パウロ は言っています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがた に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。信仰生活とは 神様に自分自身を献げて生きる生活に他なりません。それを最も良く表現してい るのは主の日の礼拝の「献金」です。これは献金の奉仕者がしばしば「これを私 たちの献身のしるしとしてお献げします」と祈るように、献金は私たち自身を献 げる象徴的行為なのです。私たちは日曜日に「讃美歌付き講演会」に来ているの ではありません。私たちは自分自身をお献げするために集まっているのです。

 確かに信仰の入り口は「自分のために神様を求める」ということであるかもし れません。それで良いのです。しかし、何十年の信仰生活を経てもなお「自分の ための神様」という意識しか持っていなかったら何かがおかしい。どこかで逆転 しなくてはならないのです。すなわち「神様のための自分」という自己認識に生 きるようになる。それが大事なことです。

 かつてアッシジのフランシスコがこう祈りました。「ああ主よ、わたしをあな たの平和の道具にしてください」。「道具にしてください」というのは、あなた のものとして用いてください、ということです。続きはご存じでしょう。

  ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
  憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
  争いのあるところにゆるしを、
  分裂のあるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りのあるところに真理を、
  絶望のあるところに希望を、
  悲しみのあるところに喜びを、
  闇のあるところに光をもたらすことができますように。
  ああ主よ、わたしに、慰められるよりも、慰めることを、
  理解されるよりも、理解することを、
  愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
  わたしたちは与えるので受け、
  ゆるすのでゆるされ、
  自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。アーメン。

 この祈りもまた、「献身」の一つの形です。いずれにせよ、大事なことは、 「わたしをお献げします。わたしの体、わたしの人生をあなたにお献げします。 あなたのご計画の中であなたの栄光のために用いてください」という願いが私た ちの信仰生活の中で確かな位置を持つことなのです。

律法学者に気をつけなさい

 そのように「献身」ということを考えながら、今日の福音書の言葉に耳を傾け ますと、「律法学者に気をつけなさい」という言葉が響いてまいります。続きま すのは、実に辛辣なイエス様の言葉です。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、 長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会 では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈 りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(38 -40節)。

 なんとなく目に見えるようではありませんか。自分の権威を振りかざし、人々 から重んじられること喜び、弱い人々を足蹴にしながら、外見は敬虔さを装う、 実に偉そうな人たちの姿。もちろん、幾分の誇張はあると思います。しかし、実 際に当時の律法学者たちの中に、このような要素があったことは事実なのでしょ う。

 しかし、どうでしょう。彼らは最初からそうだったのでしょうか。遡って、彼 らが律法学者となるために、ラビのもとで律法を一生懸命に学んでいた時はどう だったのでしょうか。さらに遡って、自分がつくべき先生を探し求めていた時は どうだったのでしょうか。さらには律法に仕える働きにあこがれて「大きくなっ たらあんな先生のように神様にお仕えする仕事がしたいなあ」と言っていた子供 の頃はどうだったのでしょうか。

 恐らくは皆、永遠なる神の世界にあこがれて、神の言葉に従うことを喜んで、 その神の言葉に仕える者として生きて行きたいと願って、神に仕える働きに身を 献げてスタートしたのでしょう。かつてガマリエルという高名なラビのもとで学 んだことのあるパウロはこんなことを言っています。「わたしは、キリキア州の タルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで 先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に 仕えていました」(使徒22:3)。そうです教育を受けている時既に彼は神に 身を献げて熱心に仕えているという意識だったのです。パウロだけが特別だった か。そうではないでしょう。律法学者を志す若者たちは皆、そうだったに違いな い。

 ところがいつしかイエス様の言われるような姿となってしまったのです。純粋 な志をもって歩み始めた彼らが、いざ律法学者となって人々から敬われ重んじら れるようになると、いつの間にか、長い衣をまとって歩き回ることを好むように なりました。長い衣は権威の象徴です。最初は律法の権威を守ることが彼らの関 心事だったのでしょう。しかし、次第に自分たちの権威が認められることが大事 になってしまったのではありませんか。だから長い衣をまとって歩き回ることを 好むようになっただけでなく、広場で挨拶されることを求めるようになりました。 人々から敬われることが彼らの関心事となりました。会堂では上席、宴会では上 座に座ることを望むようになりました。他の人より上に置かれることが大事なこ ととなりました。やがては自分よりも弱い立場にある人を自分のために利用する ようになりました。しかし、その一方で敬虔なそぶりは失わない。彼らは神に語 るためではなく、人に見せるための長い祈りをしました。人々から敬虔であると 見なされることは律法学者として重要なことだったからです。

 いったい彼らの内に何が起こったのか。問題は明らかです。関心が神から人へ と移って行ったということです。人から敬われること、人から重んじられること、 人から評価されること、称賛されることは、それ自体悪いことではありません。 別に敬われ、称賛されても良いのです。しかし、この世の誉れはたえず私たちの 関心を神から引き離す危険を伴っている。それもまた事実でしょう。失敗や挫折 を私たちはしばしば試練と呼びます。しかし、私たち自身が試されるという意味 において本当に厳しい試練は、むしろ人々から評価され、重んじられ、尊敬され、 賞賛されている時なのです。純粋な思いで神のために、神に身を献げて、神に仕 えるつもりでスタートしても、いつの間にか人間にしか関心が向かなくなってい る。人の目や人からの扱いばかり気にしている。そんなことが起こるということ でしょう。イエス様は「律法学者に気をつけなさい」と言われた。それは律法学 者が危険人物だからではありません。律法学者のようになる危なさがあるからで す。そう、弟子たちもまた、後の信仰者も、ここにいる私たちもまた、そのよう になる危なさがあるからです。

貧しいやもめの献金

 しかし、「献身」というテーマを考えます時に、私たちが神に向かっているの か、それとも人にしか向かっていないのかということは、違った場面でも問題と なります。それはどういう時か。「わたしなんて」と思う時です。「わたしなん て、何の役にも立たない」「わたしが身を献げても、神様のために何もできない」。 そのように思ってしまう。「わたしには能力がないから」「わたしはもう若くな いから」「わたしは健康ではないから」「わたしには経験がないから」「わたし は裕福ではないから」。だから自分を献げても意味がないように思ってしまう。 しかし、そのように言っている時、本当に神様に向いているのでしょうか。神様 のことを考えているのでしょうか。

 「律法学者に気をつけなさい」という話の後に、やもめの献金の話が続きます。 「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられ た。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、 レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」(41-42節)。そんな 話です。レプトン銅貨二枚というと、今日の金銭感覚で言えば数十円といったと ころです。実はその数十円は、イエス様の言葉によれば生活費の全部だったらし い。レプトン銅貨二枚あったのだから、一枚でもよかったのに、二枚入れた。イ エス様の説明を聞けば、「ああこの人、半分ではなくて全部入れたんだ。すごい なあ」と思うかもしれません。

 しかし、見ようによっては、「だから何なの?」と言うことだってできるわけ ではありませんか。それがいったい何の役に立つの?誰かの助けになるの?そん な無理していったい何か意味があるの?生活費全部を献げたっていうのは美談で はあるかもしれないけれど、実質的に何か意味があるの?そう言う人がいても不 思議ではないでしょう。

 そうなのです。この人が「自分が献げることが何か意味があるか」とか「何か の役に立つか」などということを考えていたら、この人は献げることはできなかっ たはずなのです。他の人の目にどう映るかだけでなく、自分の目にどう映るかと いうことをも含めて、人間の目にどう映るかを考えていたら、献げることはでき なかったはずなのです。それこそ明日の生活費として取っておいた方が良いに決 まっているのです。しかし、この人は献げたのです。神様に献げたのです。純粋 に神様のことを思って献げたのです。神に献げたくて献げたくて。ただ神様に信 頼して、神様に自分自身をゆだねて、貧しく乏しい自分自身をゆだねて、貧しい 自分自身をそのまま神様に献げたのです。

 そして、大事なことは、それをしっかりと見ていてくださる方がおられたとい うこと。イエス様です。イエス様は見ておられた。それが役に立つか、意味があ るか。そんなことはイエス様にとってどうでも良かった。その人が神に献げたこ と。その人の献身を見ておられたのです。

 なぜその人の献身がイエス様の目に留まったのでしょう。イエス様も自分自身 を神に献げようとしておられたからです。それはどのような形で。十字架の上で 死ぬという仕方で。この世の目から見たら、それがいったい何になるの、という ことでしょう。まさに犬死じゃないですか。しかし、イエス様は自分の命を神に ゆだねたのです。そして、神はその死に意味を与えられたのです。神は御心に従っ て、イエス様の献身、イエス様の従順をこの世界の救いのために用いられたので す。

 献身。それは神を思って献げるのです。神に献げる。なぜなら、神が受け取っ てくださるから。そして、私たちの献身は、神の御手の中にあって意味を持つの です。だから、この礼拝においても、私たちは自分自身を神に献げます。神は私 たちを受け取ってくださいます。

 
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