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「信仰のないわたしをお助けください」

2010年7月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 9章14節~29節

なんと信仰のない時代なのか

 今日の福音書朗読は、イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山か ら降りてきた時の話です。(山の上で何があったかは9章前半をお読みください。) 山から降りて来ると、弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれて律法学者たちと議論 しているではありませんか。そこでイエス様は「何を議論しているのか」と尋ね ました。

 議論をしているから、その内容について尋ねた。それだけのことでしょうか。 いや、恐らくはそうではないでしょう。議論しているのはおかしい、とイエス様 は感じられたに違いない。そこで起こっていること、何かがおかしい。実際、確 かにおかしなことが起こっていたのです。それは一人の人がイエス様に答えた言 葉からわかります。彼はこう言ったのです。「先生、息子をおそばに連れて参り ました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつく と、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎ しりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟 子たちに申しましたが、できませんでした」(17-18節)。

 山を降りてきたイエス様が目撃した光景を思い描いてみましょう。一人の人が 息子を連れてきました。病気の息子を連れてきたのです。その子に現れていたの は「てんかん」のような症状です。父親は「霊に取りつかれている」と表現しま した。当然のことながら、癒してほしくて連れてきたのです。霊に取りつかれて いるならば、その霊から解放してほしくて連れてきたのです。その症状が現れた のはその子が幼い頃からだと言います。子供だけでなく両親も長い間苦しんでき たに違いない。子供を助けるためならば、どんなことだってしたでしょう。しか し、どうしてよいかわらかない。助ける力もない。それはとても辛いことです。 ですから藁にもすがる思いで弟子たちのもとに連れてきたのです。

 しかし、結果から言いますと、この子供は癒されなかった。解放されませんで した。この父親は依然として悲しみに顔をゆがめたままそこに立っています。息 子も同じでしょう。であるのに、弟子たちは何をしていますか。律法学者と議論 しているのです。その親子のことは放り出して、議論に熱中しているのです。弟 子たちも律法学者たちも、もはやこの親子のことは眼中にない。さらに言うなら ば、そこに集まってきた群衆も同じです。事の発端となった親子のことよりも、 今は議論している弟子たちの方を取り囲んでいるのです。これがイエス様の目撃 した光景です。

 何かがおかしい。そう思いませんか。しかし、こういうことは良くある話です。 現実に苦しんでいる人がいるのに、あるいは罪に支配されている人がいるのに、 この世界においてサタンが支配している現実があるのに、その傍らで議論に熱中 している。論争に熱中している。もはや論争に勝つこと、相手を説得すること、 自分の立場を守ることにしか関心がなくなってしまっている。よくある話です。

 そこでイエス様は嘆きながらこう言われました。「なんと信仰のない時代なの か。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに 我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」(1 9節)。間違ってはなりません。イエス様はここで「憐れみの欠如」を嘆いてい るのではないのです。「議論ばかりして実践的な愛のない奴らだ」と言って嘆い ておられるのではないのです。そこで問題なのは「信仰の欠如」だと言っている のです。「なんと信仰のない時代なのか」と。そうです、これは信仰の問題なの です。今日、私たちに語られているのは信仰の問題なのです。ならば私たちは考 えなくてはなりません。イエス様は何をもって信仰の欠如と言っておられるのか。 イエス様が求めておられる信仰とはどのようなものなのか。続くイエス様と父親 とのやりとりは、そのためにこそ語り伝えられているのです。それでは先を読み 進んでまいりましょう。

信じます、不信仰なわたしをお助けください

 「その子をわたしのところに連れてきなさい。」そうイエス様は言われます。 そこで人々は病気の息子をイエス様のもとに連れてきました。するとその子は引 きつけを起こし、地面に倒れ、転び回って泡を吹いたのです。主はその子につい て尋ねました。「このようになったのは、いつごろからか」と。その後のやり取 りは次のように書かれています。「父親は言った。『幼い時からです。霊は息子 を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるな ら、わたしどもを憐れんでお助けください。』イエスは言われた。『「できれば」 と言うか。信じる者には何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じ ます。信仰のないわたしをお助けください』」(23節)。

 「『できれば』と言うか」。主はそう言われる。父親を咎めているわけではあ りません。信じなさいと言っているのです。「おできになるなら」なんて悠長な こと言っていられる状況にないことは、イエス様の方がよくご存じなのです。目 の前で息子が泡を吹いて転げまわっているのですから。実際に自分ではどうする こともできない現実が目の前にあり、そして自分が無力であるならば、「信じら れる」だの「信じられない」だの言っている場合ではないでしょう。イエス様を 信じるしかない。イエス様において現れている神の憐れみと力を信じるしかない。 神を信じて寄り頼むしかないのです。

 イエス様に言われてこの父親にも分かったのでしょう。信じられるか、信じら れないかなんて言っている場合じゃない。可能だろうか、不可能だろうかなんて 言っている場合じゃない。信じるしかないんだ、と。たとえ信じることがどんな に難しくても信じるしかない。だから父親はこう叫んだのです。「信じます。信 仰のないわたしをお助けください」と。ある意味では支離滅裂な言葉です。しか し、そう言うしかないでしょう。信じることが困難なら助けていただくしかない のです。そうです、助けていただかなくてはならないのは、息子である以前に自 分自身なのです。信じることが困難な自分自身なのです。息子のことを神に願う 前に、自分自身が助けを必要としているのです。

 それは父親だけでありません。本当はあの弟子たちも同じなのです。苦しんで いる息子が連れて来られた。その息子を解放することができなかった。自分たち の無力さが明らかにされたのです。無力さが明らかにされたなら、律法学者たち と議論している場合ではないでしょう。自分ができるとかできないとか、そんな ことを人に語っている場合ではないでしょう。神様の御支配を信じて、無力な自 分たちを神にゆだねて、ひたすら神の御業を求めるしかないのです。それこそあ の父親のように「信じます。信仰のないわたしたちをお助けください」と言って、 神に願い求めるしかない。本来、彼らはそうあるべきだったのです。ですからこ の箇所の結論部分において、イエス様はこう言っておられるのです。「この種の ものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と。

祈りによらなければ

 ここで弟子たちが宣教のために遣わされた時の話を思い出してください。イエ ス様は弟子たちを二人組にして村々へと遣わされました。その際に主は弟子たち を無一物にして送り出したのです。しかし、その時の様子が次のように記されて いました。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、 多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:12-13)。 さらに同じ章の30節にはこう書かれています。「さて、使徒たちはイエスのと ころに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。 彼らが意気揚々と帰ってきて、自分たちの成果を得意満面に報告している姿が眼 に浮かぶようではありませんか。

 そのように聖書には「自分たちが行ったことを報告した」と書かれているので すが、もちろん、本当は弟子たちが行ったのではありません。神様がなさったの です。何も持たずに出て行った弟子たち、ただ神を信じるしかなかった弟子たち を通して、神がその力を現わされたのです。それは弟子たちも分かっていたはず です。これは自分たちの力によるのではないということを。

 しかし、彼らの心が変化していったであろうことは容易に想像できます。きっ と彼らは感謝されたのです。癒された人たちから。解放された人たちから。また、 その家族から。そのようなことが繰り返されたらどうなりますか。どうしたって 「わたしがしてあげた」という思いになるではありませんか。あたかも私の功績 であるかのように。そうしているうちに、次第に関心は自分の方に移ってくるの です。神の国を宣べ伝えながら、神の御支配に思いが向かなくなる。神を信じな さいと宣べ伝えていながら、自分は神様の方に向かないで自分の方ばかり見てい るということが起こり始めます。また、神様の方に向かないで、自分の方ばかり 見ていると、この自分を他の人は自分をどう見ているかが気になるようにもなる。 そういうものでしょう。結局、いつも考えているのは自分や周りの人々のこと、 人間のこと、こちら側のこと。信仰とは言いながら、こちら側のことしか考えて いないということが起こるのです。

 確かに弟子たちはそうなっていた。今日お読みした箇所からも明らかです。だ から苦しんでいる親子をそっちのけで、議論に熱中するようなことにもなるので す。こちら側に目が向いているならば、自分たちが癒せなかったということは大 問題ですから。その事実を人々がどう見るかも大問題ですから。さらに律法学者 たちによってどう判断されるかも大問題ですから。もちろん自分で自分をどう見 なしえるかということも大問題です。それまでの弟子としての自信が崩れてしま うかもしれませんから。だから必死で弁明せざるを得ない。自信を失わないよう に頑張るしかない。そのための議論です。しかし、それらは皆、すべてこちら側 のことではありませんか。

 本当に重要なことは、悪霊に縛られている息子に対し、またそのゆえに苦しん でいる父親に対して、神様が何をしてくださるのかということなのでしょう。だ からこそ、本当は信じるべきだったのでしょう。信じて求めるべきだったのでしょ う。神様の御支配を信じて、こちら側のことはゆだねて、無力な自分たちをも神 にゆだねて、ひたすら神の御業を求めるべきだったのでしょう。それが祈るとい うことではありませんか。だからイエス様は「祈りによらなければ」と弟子たち に言われたのです。

 「なんと信仰のない時代なのか」とイエス様は言われました。イエス様が求め ておられるのは、私たちが「完全に信じています」と胸を張って言えるようにな ることではないのです。そうではなくて、こちら側ばかり見ている目を転じて、 イエス様が指し示される神の国に、神の御支配に目を向けるようになることなの です。私たちが自分の無力さを認め、弱さを認め、ボロボロであることを認め、 そこからひたすら神を仰ぐ者となることなのです。救っていただかなくてはなら ないことを認めて、いや、時として、救ってくださる神を信じることさえできな い自分であることを正直に認めて、ひたすら主の憐れみを求める者となることな のです。「信じます。信仰のないわたしを助けてください」と叫んだ、あの父親 のようにです。

 
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