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「目を開いてくださるキリスト」

2010年7月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 8章22節~26節

見えないものに目を注ぐ

 本日の使徒書の朗読ではコリントの教会に宛てたパウロの手紙をお読みしまし た。そこにはこう書かれていました。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べも のにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(2コリント4: 17)。

 「一時の軽い艱難」とパウロは言います。パウロが経験したのは軽い艱難だっ たと思いますか。いいえ、どう考えても軽くはありません。例えば、同じ手紙の 中にこう書かれています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが 五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したこと が三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊 の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽 の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え 渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(同1 1:24-27)。これらは一つを取っても軽い艱難などではありません。しかし、 彼は「軽い艱難」と呼ぶのです。

 それはなぜなのか。先に挙げた言葉は次のように続きます。「わたしたちは見 えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、 見えないものは永遠に存続するからです」(同4:18)。どうもここに鍵があ るようです。見えないものに目を注ぐのは、見えないものが見えているからです。 肉の目をもって見えないものが、信仰の目をもって見えているからです。そして、 パウロの人生にとって決定的な意味を持つのは、肉眼で見えるものではなく、信 仰をもって見えるものなのです。だから艱難の中にあっても希望を奪われること はないのです。落胆しないのです。信仰によって生きているからです。

 私たちもまた、見えないものに目を注いで生きたいと願ってここに集まってい ます。肉眼で見えるものだけを大事にして生きるつもりなら、わざわざ日曜日に 早起きして午前中に集まったりしないでしょう。私たちは見えないものに目を注 いで生きたい。目に見えないものを大事にして生きていきたい。それは目に見え る現実に目をつぶるということではありません。私たちは現実を生きなくてはな らない。しかし、目に見えるものによって振り回されて生きたくない。目に見え るものによっていちいち落胆したり、苛立ったり、うらやんだり、ねたんだり、 自己憐憫に陥ったり、希望を奪われたりして生きたくない。目に見えるものでは ない、一時的なものではない、変わらざるもの、動かざるもの、誰にも奪われな いもの、永遠なるもの、本当に価値あるもの、本当に豊かなものに目を注いで、 そこにしっかりと人生の土台を置いて生きたいのです。

 残念ながら、私たちはパウロと同じように見えているとはかぎりません。「わ たしたちの一時の軽い艱難」と言えるほどに永遠なるものが見えてはいないかも しれません。もっともそのパウロでさえ、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに 映ったものを見ている」(1コリント13:12)と言っている。完全に見える ようになったとは言っていません。ならばましてや私たちにおいては、まだまだ 見えていない、ということになるのかもしれません。しかし、それでもよいので す。今日の福音書朗読は、まさにそのような私たちに与えられているのですから。 何が書かれていましたか。目の見えなかった人がキリストによって目が見えるよ うになったという話です。そのように、イエス様が私たちをも見えるようにして くださるのです。

キリストの熱意によって

 マルコによる福音書には、目の見えない人が癒された話が二回出てきます。そ の一つは今日の箇所です。もう一つは10章に記されています。バルティマイと いう盲人の物乞いが癒されたという話しです。その人は、道端に座っていたので すが、ナザレのイエスが通りかかると耳にすると、「ダビデの子イエスよ、わた しを憐れんでください」と大声で叫び始めたのでした(10:47)。人々は叱 りつけて彼を黙らせようとしますが、彼はますます大声で叫び続けます。そして、 ついにその声がイエス様の耳に留まりました。主は言われます。「あの男を呼ん で来なさい」。主のお声がかかると、彼は目が見えないにもかかわらず、躍り上 がってイエス様のもとにやってきたのです。今日の聖書箇所に出てくる人の姿は、 そのようなバルティマイの姿とは対照的です。彼は人々に連れられてやってきま した。触れて欲しいと願ったのは、本人ではなく、連れてきた人々です。この描 写を読みますかぎり、この人にバルティマイほどの熱意は感じられません。

 このように、イエス様のもとに人が来る仕方は様々です。ある人は自ら救い主 を叫び求めてやってきます。他の人々に止められてもなお求め続けます。またあ る人は、他の人々に連れられてやってきます。その場合は、本人が切に求めてい るわけではないかもしれません。そのように、ここには家族の誰かから誘われて 教会に来られた方がいるかもしれません。友人に誘われて教会に足を踏み入れた という人もいることでしょう。キリスト教系の学校で勧められて、あるいはレポー トの宿題を出されて教会に初めて来られる人も珍しくはありません。

 しかし、それはそれで良いのです。皆がバルティマイのようである必要はあり ません。ここに出て来る目の見えない人のようであってもよいのです。大事なの は、本人の熱意があろうがなかろうが、とにかくイエス様のもとに連れてこられ たという事実です。その人が既にイエス様の前にいるという事実です。そのよう に私たちにとっても重要なのは、今、現にこうして礼拝堂にいて主を礼拝してい るという事実なのです。そこで既に決定的に重要なことは始まっているのです。

 あとはイエス様のなさることです。目が見えるようになるとするならば、それ はイエス様の御業です。ですから、ここにもイエス様がなさった一連のことが書 かれていますでしょう。まず、イエス様が自らその目の見えない人の手を取って、 村の外に連れ出します。そして、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、 「何か見えるか」と尋ねられます。なぜわざわざ目に唾をつけたのか。唾液には 殺菌作用がありますから、傷口に唾をつけるということは昔から行われていたこ とです。しかし、唾が見えない目に利くとは思えません。さらにいえば、バルティ マイを癒した時には、唾などつけなかったのですから、癒しを行うために必ずし も必要なことではないでしょう。ですので、なぜイエス様が唾を塗ったのかはわ からない。しかし、一つのことはわかります。イエス様はこの人の目を癒そうと しておられるということです。

 それはこの人にも分かったに違いありません。何かは知らないけれど、とにか く一生懸命に塗ってくれている。実はイエス様の唾だったのですが、この人には 何か分からない。薬だと思ったかもしれません。いずれにせよ、どうやって目を 開くのかは分からないけれど、とにかくこの目を開こうとしていてくださる。そ のイエス様の熱意だけは分かったに違いないのです。そのことを私たちもまた知 らなくてはならないのでしょう。私たちが見えるようになりたいと思う以前に、 イエス様が見えるようにしたいと願っておられるのです。目を開きたいと願って おられるのです。一時的なものではない、変わらざるもの、動かざるもの、誰に も奪われないもの、永遠なるもの、本当に価値あるもの、本当に豊かなものを見 せたいと思っておられる。それはこの地上の人生の間にも見せたいと思っておら れるし、最終的には永遠にそれを見て喜ぶ者にしたい。そう願っておられるので す。

繰り返し手を置かれる主

 しかも、この聖書箇所は、イエス様が一度だけでなく、もう一度手を置かれた ことを伝えているのです。イエス様は一度で終わりにしてしまわれない。繰り返 し手を置かれるのです。するとさらに良く見えるようになった。その様子が次の ように語られています。「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が 見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』そこで、イエスがも う一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり 見えるようになった」(24-25節)。

 ここには私たちにとっても大事なことが少なくとも二つ書かれています。一つ は、この人が繰り返しイエス様に触れていただいたということです。しかし、こ の物語が世々の教会において読まれてきたのはなぜですか。あれから二千年後の 日本の教会において読まれているのはなぜですか。キリストが今も私たちに触れ てくださる御方であるからです。私たちが見えるようになるために、その御体を もって触れてくださるのです。繰り返し触れてくださるのです。復活したキリス トの体はどこにありますか。ここにあります。教会はキリストの体であると聖書 は教えているのです。

 キリストは教会という体を通して私たちに触れてくださいます。キリストは教 会が行う洗礼を通して触れてくださいます。聖餐のパンと杯を通して触れてくだ さいます。御言葉の説教を通して触れてくださいます。教会が共に祈り礼拝を捧 げることにおいて、また互いに愛し合い仕え合う交わりにおいて、キリストは私 たちに触れてくださいます。主は私たちが見えるようになることを願いつつ、 「何か見えてきたか」と問うてくださる。良く見えなくても失望することはない のです。いつまで経ってもわからないなどと言って嘆く必要はないのです。繰り 返し触れていただいたら良いのです。

 そして、もう一つ。彼はおぼろげに見えてきたときに、こう言いました。「人 が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」(24節)。それを 聞いて、イエス様はもう一度両手をその目に当てました。すると、「よく見えて きていやされ、何でもはっきり見えるようになった」(25節)と書かれており ます。「よく見えてきて」と訳されていますが、もともとは「ひたすら見つめる」 という意味の言葉です。聖書協会口語訳では「盲人は見つめているうちに、なおっ てきて、すべてのものがはっきりと見えだした」となっていました。彼はそのよ うに、見え始めたものを一心に見つめていたのです。するとさらにはっきりと見 えてきたのです。

 おぼろげかもしれない。しかし、見え始めたものを大切にしてください。よく 見えないことを嘆くのではなくて、ぼんやりとでも見え始めているものにしっか りと目を向けてください。信仰をパーセントで表すことは正しい表現ではないか もしれませんが、あえて言うならば、1パーセントの信仰と99パーセントの疑 いであっても、その心に生まれた1パーセントの方を大事にしてください。ひた すら目を向けることです。そして、何度でも主に触れていただいたらいい。やが て「顔と顔とを合わせて見る」(1コリント13:12)ように、すべてをはっ きりと見る時が来るでしょう。なぜなら、私たちがそのことを望む以前に、主が 熱心に願っていてくださることですから。

 
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