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「キリストによって遣わされて」

2010年6月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 6章1節~13節

無一文にしての派遣

 今日の福音書朗読は、イエス様が十二弟子を村々にお遣わしになったという話 です。これはいわば予行演習です。やがて後の日に、弟子たちは本格的に派遣さ れることになるのです。イエス様が十字架にかかられた後に、そして復活し天に 上げられた後に、弟子たちは聖霊を受け、教会としてこの世に派遣されることに なるのです。

 それにしても予行演習にしてはイエス様のなさることはあまりにも過激だと思 いませんか。主は弟子たちに「杖一本のほか何も持っていくな。パンも金も持っ ていくな」と命じられたのです。要するに、送り出す際に弟子たちの持ち物を全 部没収してしまったということです。弟子たちは近所にお使いにいくのではない のです。何日も村々を行き巡る宣教の旅に出るのです。弟子たちにとって初めて の経験です。しかもただでさえ困難が予測される旅であるのに、弟子たちをあえ て無一文にして送り出されたのです。無茶苦茶な話です。

 しかし、あえてイエス様が弟子たちに対してそのようにされたのは、そうしな ければ彼らが学び得ないことがあったからでしょう。やがて本当の意味でこの世 界に派遣されていく弟子たちが学ばなくてはならなかったことが少なくとも三つ あることをこの箇所に見ることができるのです。それは私たちもまた学ばなくて はならないことです。頌栄教会をキリストがこの世に遣わしているとするならば、 どうしても私たちが学ばなくてはならないことがある。私たち一人一人がこの世 界に遣わされ、キリストに仕え、人々に仕えようとするならば、どうしても学ば なくてはならないことがある。誰かの救いのために仕えるとするならば、誰かが 神に立ち帰り、誰かが解放され、誰かが癒されるために、私たちが主のお役に立 ちたいと願うならば、どうしても学ばなくてはならないことが、少なくとも三つ あるのです。

協力することを学ぶため

 第一は「協力すること」です。この弟子たちの派遣において、まず目に留まり ますのは、「二人ずつ組にして」なされたということです。二人組みで旅をする こと自体は、ユダヤ人に一般的であった習慣です。聖書に良く出てくる話です。 一人で旅することが危険であったという事情もあります。しかし、危険を回避す ることが大事なら、無一文で送り出すことはしないでしょう。この二人組での派 遣には、もっと大事な意味が込められているのです。すなわち、イエス様は単独 の個人的な働きを求められなかったということです。弟子たちは、世に遣わされ、 人々を愛し、人々に仕えることになります。しかしその前に、弟子たちのお互い の間でそれが実現することを求められた。世に出て行く前に身近な弟子たち同志 が互いに愛し合うこと、仕え合うこと、そのようにして、弟子たちが協力しなが ら共に働くことを求められたのです。

 その組み合わせは誰が決めるのですか。イエス様です。「二人ずつ組にして」 の主語はイエス様です。それぞれが自分と馬の合う人を選んだのではありません。 二人ずつ組にされたのはイエス様です。だから反りの合わない人とペアになるこ ともある。協力しながら働くということが、いつも容易であるとは限りません。

 実際、あの弟子たちはもともと互いに惹かれ合って集まったわけではありませ んでした。イエス様が集めたのです。だから中には反りの合わない人もいるでしょ う。例えば弟子の一人は「熱心党のシモン」でした。熱心党はローマからの解放 のために戦う民族主義的過激派です。しかし、弟子の中にはマタイ(またの名を レビ)もいるのです。彼はもと徴税人です。ユダヤの民族的な誇りを売り飛ばし てヘロデ家とローマに仕えていた人々です。いわば国粋主義者と売国奴が同居し ているのが弟子の群れでした。そこからイエス様が決めた二人組みで送り出され るのです。これは弟子たちにとって試練です。

 しかし、そこでイエス様はどうなさったか。イエス様は送り出すに当たって、 持ち物を没収したのです。彼らは困ったことになるでしょう。しかし、困難の中 に置かれることは、必ずしも悪いことではありません。食べ物や持ち物があれば、 争ってもいられますが、食べるものすらなくて困ったら、どうしても助け合わな くてはなりません。一人でもやっていけるから決裂が起こるのです。一人ではど うにもならなくなれば協力するのです。その意味で、「困窮」は協力することを 学ぶことのできる学校です。イエス様は彼らの持ち物を取り上げて、協力するこ とを学ぶための学校に叩き込んだとも言えます。

 そのように、主に遣わされる者が学ばなくてはならない第一のことは「協力す ること」です。私たちが困窮の中に置かれ、一人ではどうにもならない状態に置 かれるとするならば、それは協力することを学ぶためであるかもしれません。

へりくだることを学ぶため

 第二に学ぶべきことは「へりくだること」です。主は「パンも、袋も、また帯 の中に金も持たず」に行くことを求められました。それでは、どうやって生きて いったらよいのでしょう。主はこう言われたのです。「どこでも、ある家に入っ たら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」(10節)と。

 当時のユダヤ人社会においては、旅人を泊めたり、もてなしたりすることは、 信仰的な美徳と考えられておりましたので、決して珍しいことではありませんで した。イエス様は、そのような習慣を背景として語っているのです。要するに、 「誰もがするように、旅先で誰かの世話になれ」と言っているのです。

 世話になるということは、頭を下げなくてはならないということです。人に対 して身を低くしなくてはならないということです。弟子たちはそのような状況に 置かれたのです。しかも、新しい村に足を踏み入れる度に、彼らは繰り返し身を 低くせざるを得ないようにされたのです。何かをする以前に、まず泊めてもらわ なくてはならない。食べさせてもらわなくてはならない。そのような弱い者とし て彼らは村に入っていくのです。無一文ですから、何をするにも助けが必要なの です。

 そのように、イエス様は、弟子たちが何かを与える前に、まず何かを受ける者 とされたのです。助けを必要とする弱い人々として村に入ることを求められたの です。言い換えるならば、強い人間が弱い人間を助けるかのように、あるいは上 の者が下の者に何かを教えるかのように、弟子たちが村々に入っていくことを主 はお許しにならなかったということです。

 他者に仕えることを喜びとする人は、往々にして受ける側に身を置くことを嫌 います。与える側だけに身を置こうとするのです。しかし、そこには落とし穴が ある。以前、あるボランティア団体の集まりで講演を頼まれたことがありました。 そこに集まっていたのは、長年人々のために尽くしてきた人たちでした。しかし、 公演後に食事をしていた時に、少なからぬ人がこう口にするのを聞きました。 「わたしは人のお世話にはなりたくない」と。それが印象的でした。やはり何か がおかしいと言わざるを得ないでしょう。

 「わたしは人の世話にはなりたくない」ーーいつの間にか私たちも口にしてい るかもしれません。しかし、与える側にばかり身を置きたがる人は、本当の意味 で人と共に生きることができないのです。同じ人間として、同じ地平に立って、 他者と大切なものを分かち合うことができない。そういうものです。人の世話に なりたくない人は、おそらく良き神の働き人にはなれないのです。

 これはまた身近な人に福音を伝えることにおいても言えるでしょう。ここに集っ ている人の中には、家族で独りだけのキリスト者という方も少なくないでしょう。 ご家族に神様の恵みを伝えたい、福音を伝えたいと思っているに違いありません。 しかし、もしかしたらその前に、まず家族に「助けてください」と素直に言える 人にならねばならないのかもしれません。知らず知らずに自分を上に置いている ことが、自分のプライドや高ぶりが、しばしば福音宣教の妨げになっていること があるからです。主に遣わされる者が学ばなくてはならない第二のこと、それは 「へりくだること」です。私たちが助けを必要とする弱い者とされるなら、それ は「へりくだること」を学ぶためであるかもしれません。

神の御業に期待することを学ぶため

 そして、第三に学ぶべきこと、それはひたすら「神の御業に期待すること」で す。既に申しましたように、弟子たちは、弱い者、助けを必要とする者として村 に入っていくことを強いられました。もはや彼ら自身が権威ある者のように、上 に立つ者のように振舞うことはできません。彼ら自身が力ある者であるかのよう に振る舞うことはできません。しかし、そうであるからこそ、彼らは神に期待す るしかなかったのでしょう。そこに神の権威が現れることを。神の力が現れ、神 の御業が現れることを。そして事実、そのような物乞いのような有り様であった 弟子たちを通して、人間の権威とは異なる神の権威が現われたのです。

 12節を御覧ください。彼らは助けを必要とする弱い人々として村に入って行っ たにもかかわらず、そして事実、人々のお世話になっていたにもかかわらず、そ の働きについてはこう記されているのです。「十二人は出かけて行って、悔い改 めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病 人をいやした」(12節)と。多くの悪霊が追い出された。多くの病人がいやさ れた。それは何を意味しますか。その前に、人々の間に悔い改めが起こったとい うことです。信仰が起こったということです。信仰のないところにおいては、イ エス様でさえ力ある業を為しえなかったのですから(6:5-6)。人々は弟子た ちの言葉を受け入れ、福音を信じたのです。

 これが弟子たちの権威や力によるのでないことは明らかでしょう。それはまさ に神の御業としか言いようがない。誰かが悪霊から解放されるなら、それは弟子 たち自身の力によるのではなく、イエス様が与えてくれた「汚れた霊に対する権 能」(7節)によるのだと言わざるを得ない。誰かが癒されるならば、それは自 分の力ではなく神の霊の働きであると認めざるを得ない。それはあの弟子たちの 目にも明らかであったはずです。弟子たちは、自分自身としては人々に提供でき る何ものをも持っていなかったのですから。

 教会が、本当に神からのものを手渡しているのか、それとも人間が提供できる ものしか手渡していないのか、教会に現われているのは本当に神の言葉そのもの の力であり権威なのか、それともただ人間の能力や権威だけが現われているのか、 私たちはよくよく省みなければなりません。

 もし、人間の提供するもの、人間の力の現われしか見られないとするならば、 もしかしたら私たちは色々なものを持ちすぎているのかもしれません。ならば、 あの弟子たちのように、イエス様によって没収してもらう必要があるのです。自 分の力ではどうしようもないところに置かれる必要があるのです。そして、へり くだらなくてはならない状態に置かれる必要がある。そして、神の御業をひたす ら待ち望むことを学ばなくてはならないのです。

 あるいは逆のことも言えるかもしれません。もしかしたら、私たちは自分の弱 さ、自分の無力さ、自分の貧しさを思いながら、そして一週間の歩みに大きな不 安を覚えながら、ここから出て行くことになるかもしれません。しかし、そこで こそ私たちはひたすら神の御業に期待することを学ぶことができるのです。

 そのように、イエス様は弟子たちを無一文で遣わされることによって、少なく とも三つの大切なことを学ばせられたのでした。それは後に弟子たちが教会とし てこの世界に仕えていく時に、繰り返し学ばなくてはならないことだったに違い ありません。そして、ここにいる私たちもまた、繰り返し学ばなくてはならない ことであるに違いありません。キリストに遣わされた者として、真にこの世界に 仕えるために。

 
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