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「誰かが神の恵みを知るために」

2010年6月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 1章29節~39節

家に来てくださったイエス様

 今日の朗読箇所の一番最初に出てくるのは、シモンのしゅうとめがイエス様に よって癒されたという話です。このように書かれています。「すぐに、一行は会 堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シ モンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエス に話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一 同をもてなした」(29-31節)。

 確かにイエス様の奇跡物語と言えばそうです。「癒しの奇跡」です。しかし、 奇跡にしてはあまりにも地味だと思いませんか。例えば、この直前には汚れた霊 に取り付かれた男が解放されたという話が出てきます。イエス様が「この人から 出て行け」と命じると、汚れた霊がその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて 出て行った(26節)というのです。それを見て人々はびっくりします。無理も ありません。あるいは、今日の箇所の直後には、かつて「らい病」と訳されてい た「重い皮膚病」を患っている人が、たちどころに癒されたという話が出て来ま す。これもまた、その病気が非常に恐れられていた当時の状況を考えますと、か なりセンセーショナルな出来事であったに違いない。その他にも、中風で寝たき りの人が癒された話、目の見えない人が見えるようになったという話、耳の聞こ えない人が癒されて聞こえるようになったという話。死んだはずの娘が生き返っ たという話まで出て来ます。そのような中で、「熱が下がりました」という話は 極めて異質です。なぜこんな小さなことが取り立てて書かれているのでしょうか。 他にもっと書けることはいくらでもあったでしょうに。

 恐らくこの出来事が書き残された一つの理由は、それが他ならぬ「シモンのしゅ うとめ」だったからでしょう。このマルコによる福音書は、多くの部分をシモン・ ペトロの記憶に基づいて書かれたと言われます。ペトロが様々な場面で語った話 が言い伝えられ主な資料として用いられた。ならば、当然、シモンのしゅうとめ の癒しは特別な出来事としてクローズアップされることになります。

 しかし、考えられる理由はそれだけではありません。これはペトロの家にイエ ス様が来てくださったという話なのです。それはペトロにとって何よりも忘れが たい出来事であったに違いありません。そのことは、特にマルコによる福音書に おいて、印象深く描かれています。16節から改めて読んでみてください。すべ ては同じ日に起こった出来事として書かれているのです。それはイエス様の招き から始まります。イエス様はその朝、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられました。 そのとき、シモンとシモンの兄弟アンデレは湖で網を打っていたのです。彼らに イエス様は言われました。「わたしについて来なさい。人間を捕る漁師にしよう」 (17節)。イエス様と初対面であると考える必要はありません。しかし、メシ ヤとしての招き、従って来るようにとの呼びかけとしては初めてであったに違い ない。その呼びかけに彼らはすぐさま応えます。「二人はすぐに網を捨てて従っ た」(18節)と書かれているとおりです。

 網をとりあえず片づけたのではありません。「網を捨てた」が意味するのは 「漁師をやめた」ということです。そんな大事なことを、家族と相談せずに決め て良いのでしょうか。しかし、少なくともこの福音書では、そのように即座に、 誰にも相談しないで、仕事もやめてイエス様についていったように書かれている のです。後にペトロはイエス様にこう言っています。「このとおり、わたしたち は何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10:28)。それが彼らの意 識であったのです。それこそ、「どこまでもついていきます」という思いで従っ て行ったのです。

 イエス様に従って行きますと、まずイエス様が入って行ったのは、安息日の礼 拝が行われている会堂でした。彼らも一緒にそこに座ります。そして、先ほど触 れたような出来事に遭遇するのです。イエス様が権威をもって命じると汚れた霊 が出て行く。人々はびっくりして口々に言いました、「権威ある新しい教えだ!」 と。そこにいた誰にもまして、ペトロやアンデレは興奮したに違いありません。 この御方についていくという決断は間違っていなかった!まさに権威ある新しい 教えだ!私たちはどこまでもこの御方について行こうではないか!そして、彼ら は興奮してイエス様に聞いたことでしょう。イエス様、次はどこへ行かれるので しょうか。どこまでもついて行きます!するとイエス様は言われます。「それで は行くことにしましょう??あなたたちの家へ」。それが今日の読んだ話なのです。

 イエス様が向かわれたのは、なんと自分たちの家だった!それはもう忘れられ ないような出来事でしょう。しかも、そこで何が起こったか。家族が神の恵みを 知るようになったのです。確かに奇跡としては「熱が下がった」という地味な話 です。しかし、そこで起こったことは極めて象徴的な出来事でもありました。 「イエスがそばに行き、手を取って起こされると」(31節)と書かれています。 イエス様はしゅうとめを「起こされた」のです。「起こす」というこの言葉、実 は後に大事な場面で出てきます。イエス様の復活の場面です。「復活させる」と いう意味で出てくるのです。まさに、それはキリストと共に葬られ、キリストと 共に復活し、新しい命に生きるという、洗礼の恵みを指し示すような出来事だっ たのです。また、シモンのしゅうとめは「一同をもてなした」(31節)と書か れています。この「もてなす」というのは、教会でしばしば用いられる「仕える」 という言葉なのです。つまり、シモンの家で起こった出来事は、キリストに従っ た人の家族がキリストの愛に触れ、キリストによって復活の命にあずかり、キリ ストに仕える者とされていくことを、象徴するような出来事に他ならなかったの です。

 確かに、イエス様を信じて、イエス様に従っていくということは、時と場合に よっては、一旦家族を捨てるということを意味します。家族を一旦手放さなくて は従えないということがある。家族が信仰に反対している場合などは、まさにそ うでしょう。あるいは家族を捨てるとまでは言えないにせよ、家族を悲しませる ことになる。その心を痛めることになる。そのようなことは起こり得ます。しか し、それでもなおイエス様に従うとき、イエス様御自身が家族に関わってくださ るのです。網を捨てて従ったペトロの家にイエス様御自身が向かわれたようにで す。ならば家族のことはイエス様にゆだねて自分はとにかくイエス様に従って行っ たらよいのです。イエス様御自身が救ってくださる。パウロが後にこう語ってい るようにです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われま す」(使徒16:31)。

キリストの御業が現れる場所に

 そのように、イエス様がペトロの家に来てくださった。ここに書かれているの は、そのような出来事です。しかし、「シモンのしゅうとめ」の癒しについて書 かれている理由は、それだけではありません。イエス様のなさったことが、明ら かにシモンの家族の中だけで留まらなかったからです。

 32節以下にはこう書かれています。「夕方になって日が沈むと、人々は、病 人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口 に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、 また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。 悪霊はイエスを知っていたからである」(32-34節)。そのように、シモンの しゅうとめがキリストの恵みにあずかっただけでなく、多くの苦しむ人々が、福 音書の表現によれば「町中の人が」、キリストの恵みにあずかることとなりまし た。イエス様に従ったペトロの家は、さらに多くの人がキリストを求めて訪れ、 癒しと解放を経験する場所となりました。こうして、シモンの家は、ガリラヤ伝 道のいわば拠点となっていくのです。

 しかし、多くの人がキリストの恵みにあずかる場所となるということが何を意 味するのか、私たちは聖書を丁寧に読んで理解しておく必要があります。町中の 人が集まってきたのは、夕方になって日が沈んでからのことです。ユダヤの一日 は日没から始まるからです。それまでは安息日でした。安息日には仕事をするこ とが許されていません。医療行為も律法違反です。だから日が沈んで安息日が終 わると同時に人々はイエス様のもとに集まってきたのです。事情はわかりますけ れど、夕暮れに夥しい人が家に集まってきたら、その家にとってははなはだ迷惑 な話でしょう。しかし、イエス様はそこで大勢の人たちを癒し始められたのです。 また、悪霊の追い出しを始められたのです。

 今日と住宅事情が違います。いくつもの部屋があるわけではありません。イエ ス様が働いておられる限り、弟子たちだけでなく、シモンの家の人たちも休めま せん。恐らく、夜遅くまで人々が残っていたに違いない。しかも朝早くから人々 が詰めかけているのです。「みんなが捜しています」とシモンが言っているよう にです。さらに二章を見ますと、そこに書かれているのは同じ家だと考えられる のですが、「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになっ た」と書かれているのです。いや、それだけではありません。ついには屋根まで 破壊されるという事態に至るのです。

 多くの人がキリストの恵みにあずかる場所となるとは、こういうことなのです。 イエス様の御業のために用いられるとは、こういうことなのです。そこには自分 にとって心地よいことだけがあるのではありません。自分にとって不快なことも あります。我慢しなくてはならないこともある。犠牲を払わなくてはならないこ ともある。しかし、そのようにして、他の誰かが神の恵みを知るようになるので す。

 ですから、そこにはまた喜びもある。自分がキリストを知るだけでなく、生け るキリストの御業を間近で見させていただくことになるからです。キリストと共 にある喜び、そしてキリストによって用いられる喜びがそこにあります。きっと 後の日にシモン・ペトロは喜びをもって語ったことでしょう。あの日、イエス様 が私の家に来てくださった。しゅうとめを癒してくださった。そこにいた家族が 皆、神の恵みを見て喜んだ。しかし、それで終わりではなかった。私の家はその 日から大変なことが始まった。家の屋根が破壊されるようなことまであった。で もそこには神の国の喜びが満ち溢れていた、と。そして、この福音書を書き記し たのが伝統的に語られてきたように使徒言行録に出て来る「マルコと呼ばれてい たヨハネ」(使徒12:12)なら、彼にも良くわかったはずです。彼はそのよ うな家で育ったからです。マルコの母マリアの家はエルサレムにあって弟子たち の集会のために用いられた家だったからです。

 主は私たちをも、そのように用いてくださいます。しかし、皆さんはそのこと を求めますか。平穏無事な一生や家族の小さな幸せではなく、この一生が主の栄 光のために用いられ、家族が新しい命にあずかり、共にキリストに仕えるように なることを求めますか。多少の犠牲を払うことになろうとも、誰かが神の恵みを 知るようになることのために用いられることを求めますか。皆さんが求めるのは、 復活して今も生きて働きたもうキリストの御業を安全な場所に身を置いて遠くか ら眺めていることですか。それともキリストと共に働く者となることですか。私 たちの教会はどうでしょう。私たちが求めるのは、単に心穏やかに快適に過ごせ る教会なのでしょうか。それとも、多少我慢しなくてはならないことがあろうと も、多少の不快な出来事に遭遇しようとも、多少の犠牲を払うことになろうとも、 生けるキリストの御業が豊かに現れ、多くの人が神の恵みを知るようになる教会 となることでしょうか。ーー私たちもまた、喜びをもってやがて来る日に語れるよ うになりたいものです。たいへんなことは沢山あったけど、辛いこともあったし、 酷い目にもあったけど、そこに確かにキリストはおられ、多くの人たちが神の恵 みを知るようになった、と。

 
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