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「完全な愛は恐れを締め出します」

2010年4月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 22:1~14

愛は恐れを締め出す

 今日読まれた聖書の中に「完全な愛は恐れを締め出します」という言葉があり ました。「愛」には確かに恐れを追い出す力がある。私たちはしばしばそのこと を経験いたします。人生に恐れや不安はつきものです。どんなに屈強なマッチョ であっても、健康診断で「あなたの肺に影がありますねえ」と言われただけで、 もう不安や恐れに取り付かれてしまう。そういうものです。しかし、そこで誰だっ ていい、たった一人でも愛してくれる人がいたら違ってくるでしょう。恐れを克 服して、そこからまた生きていけるはず。その意味で、確かに愛には恐れを追い 出す力があると言うことができます。

 人間の愛でさえそうなのです。神の愛ならなおさらです。愛には恐れを締め出 す力がある。神に愛されていることさえ分かるなら、そして、神に愛されている と信じることができるなら、恐れは自ずと出て行くのです。神に愛されているこ とさえ分かるなら、そして、神の愛を信じ、信頼することができるなら、最終的 には死の恐れでさえ出て行くのです。いや、さらに言うならば、死の向こうに最 後の審判があるとしても、最終的に私たちの人生そのものが審判を受けるその場 面においても、恐れる必要はないわけでしょう。なぜなら、最終的にすべてを裁 く権威を持っている方は神様なのですから。その神様が愛していてくださるとい うことなのですから、もはや何も恐れる必要はない。ということは、まさに「完 全な愛は恐れを締め出します」ということは、人生の総決算についてさえも言え ることなのです。恐れることなく生き、恐れることなく未来に向かい、恐れるこ となく人生を終え、恐れることなく神の御前に立つ。そのためには、恐れを締め 出す愛が必要なのです。

 そして、私たちにはそのような関係が既に神様との間に与えられているのだと ヨハネは言っているのです。その前の16節に書かれていますでしょう。「わた したちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です」。 そう言えるということは、なんと幸いなことか。最終的に人間が幸いであるため に、これ以外にいったい何が必要であるか、とさえ言える。そのような幸いの中 に、私たちもまた招かれているのです。だからここにいて、今この言葉を聞いて いるのです。

十字架に現れた神の愛

 そのように、私たちもまた、ヨハネと共に「わたしたちは、わたしたちに対す る神の愛を知り、また信じています。神は愛です!」と言って生きることができ る。そのためにはヨハネと同じ方向を向いていなくてはなりません。ヨハネはど こに向いて「神のは愛です」って言っているのでしょう。ヨハネはどこを向いて 「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知った!」と言っているのでしょ う。

 「神は愛です」という言葉が、単純にこの世の経験から出てこないことは明ら かです。なぜなら、この世に満ちている理不尽な出来事「神は愛です」という言 葉に激しく抵抗するからです。毎日目にし耳にする悲しいニュースと「神は愛で す」という言葉は単純に結びつきますか。結びつかないだろうと思うのです。そ れともヨハネは、そのような悲しみや痛みとは無縁の、平和で幸いに満ちた生活 をしていたから、このようなことを書いているのでしょうか。まさかそうではな いでしょう。というのも、迫害の中にあった教会にとって、理不尽な苦しみや悲 しみは、むしろ身近な日常の経験だったからです。

 ヨハネが「神は愛です」と言う時、彼が目を向けているのは自分の身の回りに 起こっている出来事ではありません。そうではなく、キリストなのです。しかも、 十字架にかけられたキリストなのです。今日の朗読箇所の少し前にはこんな言葉 が記されています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛 して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。こ こに愛があります」(4:10)。このように彼の指先は十字架にかかったキリ ストを指し示して「ここに愛がある」と言っているのです。

 聖書の始めの方に書かれている「エデンの園の物語」をご存じでしょう。アダ ムとエバが、禁じられた木の実を食べてしまうという話です。そこで印象深いの が、その後の描写です。このように書かれています。「その日、風の吹くころ、 主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避け て、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』 彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れてお ります。わたしは裸ですから」(創世記3:8-10)。

 その映像が目に見えるようではありませんか。さわやかな風が吹く中、野の草 花や空の鳥たち、造られたものすべてが神を喜び、神が与えてくださった命を喜 んで生きている中、アダムとエバはジメジメとした木の陰に隠れているのです。 神の顔を避けて!もはやまっすぐに神に顔を向けて生きられない。それゆえに不 安と恐れを抱えながら生きている。なんという惨めな姿か。しかし、これは昔々 の話などではありません。今もなお変わらない私たち人間の姿そのものです。

 しかし、そうやって神の顔を避けて、木の間に隠れて生きていた私たちを、神 様が追い求めてくださったのです。「アダムよ、どこにいるのか」と神様が呼び かけたように。「アダム」という言葉は「人」という意味です。まさに「人よ、 あなたはどこにいるのか」と神は呼びかけておられるのです。そのように、私た ちにも呼びかけ、呼び求め、手を伸ばしてくださった。イエス・キリストをこの 世に送り、キリストを十字架にかけられたとは、そういうことです。神様があく までも愛の手を伸ばし続けられた。「人よ、あなたはどこにいるのか。償いの犠 牲は屠られた。あなたの罪は赦された。だからもういいのだよ。隠れてなくてい いのだよ。わたしの顔を避けて不安と恐れを抱えながら生きていなくていいのだ よ。顔を上げて、わたしにまっすぐに顔を向けて生きていいのだよ」。いわばそ う言ってくださったのです。それはすなわち、「あなたは罪人だ。しかし、それ でもわたしはあなたを愛している」という神様の意思表明です。それがキリスト の十字架です。だからヨハネは言うのです、「ここに愛があります」と。キリス トの十字架に目を向けながら、「神は愛です」と言っているのです。

愛にとどまりなさい

 そのように神がキリストを通して御自身の愛を現してくださった。十字架によっ て神の愛を知らせてくださったのです。だから、私たちとしては、その愛を感謝 をもって受け入れ、神の愛を信じて生きていくことが重要なのでしょう。それを 聖書は「愛にとどまる」と表現しているのです。そのように神の愛を信じて、神 と一つになって生きていくのです。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内に とどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と書かれているとおりで す。これが信仰生活です。神の愛を信じ、神の愛にとどまる生活です。

 そのように、私たちが「愛にとどまる」ということが大事なのです。神がどん なに愛してくださったとしても、愛は一方通行では完成しない。そういうもので しょう。私たちが愛を受け入れ、愛を信じて生き、愛にとどまってこそ、愛の関 係が完成するのです。言い換えるならば、神の愛は私たちの内で全うされるので す。そのように神の愛が一方通行ではなくて私たちの内で全うされるとき、さら にヨハネと一緒にこう言うことができるのです。「こうして、愛がわたしたちの 内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわた したちも、イエスのようであるからです」(17節)。

 「イエスのようである」は、「彼のようである」と書かれているのですが、新 共同訳のように、内容的にはイエス様のことを言っていると考えてよいでしょう。 これは実に驚くべき言葉です。皆さんは、「この世でわたしは、イエスのようで ある」と言えますか。「そんなこと、絶対にありえない」と思いますでしょうか。 しかし、わたしたちが「愛にとどまる」ならば、そのように言えるのです。「こ の世でわたしは、イエスのようである」と言えるのです。どのような意味におい てですか。ただ一点において、すなわち、父なる神との関係において、「わたし はイエスのようである」と言えるのです。

 神の顔を避けて隠れているイエス様、想像できますか。それはありえないこと でしょう。なぜですか。罪のない御方だからです。恐れを抱いて隠れる必要はな かった。ですから、イエス様はいつでもまっすぐに父なる神に向かって、「父よ」 と呼びかけておられたのです。そして、私たちもそのようなイエス様のように生 きることが許されているのです。なぜですか。既に述べましたように、罪を償う 犠牲が屠られたからです。だから、もうアダムのように、「あなたの足音が聞こ えたので、恐ろしくなり、隠れております」などと言う必要はないのです。この 世にあって、私たちもまた顔を上げて、「父よ」と呼びかけることができる。こ の世にあってイエスのようであり得る。ならばヨハネが言うように、最終的な裁 きの日さえも、もはや恐怖の対象とはなり得ないでしょう。「裁きの日に確信を 持つことができます」とさえ言えるのです。

 ならば大事なことは、私たちが一生懸命に恐れを締め出すことではないのです。 生きることの恐れ、死ぬことの恐れ、死後の裁きの恐れ、そのような諸々の恐れ の要因となるものを一生懸命に人生から取り除くことではないのです。そんなこ とをして恐れを自分で取り除いても、恐れは次から次へとやってくる。一つ解決 したら、次がやってくるのです。そんなことよりも、大事なことは神の愛を信じ ることです。愛を信じて生きていくことなのです。愛にとどまること。神が愛し てくださっているのですから、私たちも愛を信じて生きて、愛が私たちの内で全 うされていることこそが大事なのです。ヨハネと共に信仰を言い表して、新たな 週へと歩み出しましょう。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、 また信じています。神は愛です!」

 
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