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「見えないものに目を注ぐ」

2010年4月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙二 4章7節~18節

宝を内に持つ土の器

 「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(2コリント4:7)。 そうパウロは語っています。「土の器」と言われれば、私たちは確かに土の器で す。脆く、弱く、壊れやすい土の器です。最終的には必ず壊れてしまう土の器。 どんなに強がって見ても所詮は土の器です。いや土の器であることを知っている からこそ必死に強がって見せたり、突っ張って見せたりするのでしょう。  そんな土の器である私たち。しかし、たとえ土の器であっても、それは宝を納 めている土の器だと言うのです。この土の器の中に宝がある。その宝とは何か。 宣べ伝えられてきたイエス・キリストです。あるいは13節に「それと同じ信仰 の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」と ありますから、宣べ伝えられ信じられてきたイエス・キリストとも言えるし、あ るいは単純にイエス・キリストを信じる信仰のことであると言ってもいいでしょ う。

 私たちの「宝」であるイエス・キリストを信じる信仰。それは単に一つの思想 を受け入れることではありません。信仰箇条に知的に同意することではありませ ん。信仰とはある種の「心の持ちよう」などではありません。今日お読みした箇 所の直前には次のように表現されています。「『闇から光が輝き出よ』と命じら れた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄 光を悟る光を与えてくださいました」(6節)。この光こそ、信仰であり「宝」 です。

 パウロが念頭に置いているのは明らかに創世記冒頭の天地創造物語です。こう 書かれています。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世 記1:3)。その「光あれ」と命じられた神様が、私たちの心にも「光あれ」と 言ってくださった。そのようにして、信仰の光を与えてくださったのです。今日 の箇所によれば、神自らが私たちの内に輝いて、私たちを照らしてくださり、十 字架にかかられたあの御方を私たちの救い主として信じるということが起こった のです。パウロがなぜわざわざ創世記の話を持ち出したのか。信仰が与えられる ということがまさに天地創造に匹敵するほどの神の御業だからです。圧倒的な憐 れみによる神の御業。まさに神の「光あれ」が私たちの内に起こったのです。だ から宝なのです。

 そのように、神からの宝を納めた土の器として生きる。それが信仰者として生 きるということです。信仰によって土の器が土の器でなくなるわけではありませ ん。あくまでも土の器は土の器です。私たちが土の器であることを実感するのは、 特に苦難の中に置かれた時でしょう。すべてが順調に進んでいる時には、自分の 弱さや脆さなど意識に上らないものです。しかし、苦難の中では自分の弱さ、脆 さが問題となります。ですから、パウロもここで土の器であることが問題になる 場面について、いくつかの言葉を連ねます。「四方から苦しめられても」「途方 に暮れても」「虐げられても」「打ち倒されても」。それはすべてパウロ自身が 迫害の中で経験してきたことであるに違いありません。

 いやこれだけではありません。「土の器」であることの一つの典型的な現れは 「病気」ですけれども、パウロ自身何らかの病気を患っていたのであろうと言わ れているのです。彼はそれを後に12章で「一つのとげ」(12:7)と表現し ています。どのような苦しみであったかは分かりません。しかし、それは恐らく パウロの伝道の働きにも支障をきたすようなものだったのでしょう。そのように 「土の器」という表現は、まさにパウロ自身の経験からの言葉でもあるのです。

 そのように人が土の器を実感するのは苦難の中に置かれた時であると言えます。 しかし、もう一方において、宝が宝としてその真価を発揮するのもまた、人が苦 難の中に置かれた時なのです。ですから彼は言うのです。「わたしたちは、四方 から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨 てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8-9節)と。また、先にも触れまし たように、彼は自分の身に与えられた「一つのとげ」について語っているのです が、そこでまた彼が聞いた主の言葉をも伝えているのです。主はパウロにこう言 われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に 発揮されるのだ」(12:9)。

イエスの命がこの体に現れるため

 そのように、土の器であることがはっきりする場においてこそ、内にある宝が その真価を発揮するのです。そのことが、今日お読みした箇所では次のように表 現されています。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イ エスの命がこの体に現れるために」(10節)。

 「死を体にまとう」という言い方は通常の日本語表現にはありません。しかし、 その意味するところはイメージできるような気がしませんか。長く苦しみが続い ている時、あたかも死をまとって歩いているような気がする。どこに行くにもそ れが離れない。この「死」という言葉は死んだ状態のことではなくて、あえて言 うならば死んでいくプロセスを意味する言葉です。そんな死のプロセスをいつも どこへ行くにも身にまとっている。背負って歩いていると言ってもいいでしょう。 迫害にせよ病気にせよ、パウロの日常というのは、まさにそんな死を背負って歩 いているような状態だったのだと思うのです。それは程度の差こそあれ、私たち にも経験がないわけではありません。

 しかし、彼は苦しんでいる自分について、単に「死を体にまとっている」と言っ ているのではなくて、「《イエスの》死を体にまとっている」と言っているので す。私たちは孤独に一人で苦難を背負って歩いているのではないのです。確かに そこで味わっているのは自分の苦しみであり、自分の死であり、自分の死を体に まとっているはずなのに、なんとそこで「《イエスの死》を体にまとっている」 ということが起こるのです。いわば私たちは苦しみにおいて、イエス様と一つに なるのです。これはイエス様の側から言うならば、「あなたは一人で苦しんでい るのではないよ」ということです。「あなたは一人で痛んでいるのではないよ。 あなたは《わたしの死を》体にまとっているのだよ。苦しんでいるあなたの身に おいて、わたしとあなたは一つだよ」。イエス様がそう言ってくださっていると いうことでしょう。

 そして、私たちは知っているのです。十字架にかかって苦しんで死んでいった イエス様は、それで終わらなかった。復活なさったと。私たちが先週、世界中の 教会と共にお祝いしたとおりです。十字架の向こうに復活があったのです。です から、私たちが十字架にかかったイエス様と一つになるならば、復活したイエス 様とも一つになるのです。「イエスの死を体にまとう」なら、イエスの命もまた この身に現われるのです。「いつもイエスの死を体にまとっているのは、イエス の命がこの体に現われるためなのだ」とさえパウロは言うのです。そして、最終 的には御国において完全に復活の命にあずかることになるのです。

 考えてみてください。苦しみの中で何と一つになるのか。それは決定的に重要 なことではありませんか。人は苦しみの中で悪魔と一つになることもできる。し かし、信仰によってイエスと一つになることもできるのです。サタンと一つにな るならば、まさに身に負っている死は死としてその人を支配することになるでしょ う。しかし、もう一方で、苦難はキリストを求め、いよいよキリストと深く強く 結ばれる時ともなり得るのです。そして、もしそうなるならば、そこに確かにイ エスの命が現れるのです。復活の命を人は経験するのです。確かに世々の教会に おいて、人は迫害の中で、あるいは病床において、あるいは無駄と思えるような 労苦で何年も人生を削ってしまうような中で、復活の命に輝いて生きてきた人た ちがいたのです。私自身、本当に大きな苦しみの中で、あるいは病床において、 キリストに深く結ばれて、キリストの命に輝いていた幾人もの人の姿を思い起こ すことができます。信仰者として生きるとは、そのような宝を持って生きること なのです。土の器であってもよいのです。大事なのは、そのような宝を内に持っ ている土の器として生きることなのです。

 そして、さらに言うならば、イエスの命がこの身に現れるとするならば、それ は私たち自身のためではないのです。パウロは何と言っていますか。12節を御 覧ください。「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命 が働いていることになります。」彼にとって重要だったのは、単に自分の内にキ リストの命が現れることではなかったのです。そうではなくて、「あなたがた」 つまりコリントの信徒たちの内に、その命が働くことだったのです。コリントの 信徒たちを生かすためだったのです。さらには多くの人々の喜びのためだったの です。「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに 恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです」(15節) と語られているとおりです。そうです。自分の内にキリストの命が現れるとする ならば、それは誰か他の人を生かすためなのです。

 私たちもパウロのように、自分のためではなく、誰かを生かすためにこそ、キ リストの命がこの身に現れることを求めるべきなのでしょう。キリストの命が誰 かの内に働くことを求めるべきなのでしょう。私たちが本気でそのことを求めて いくときに、自分が受ける苦しみもまた、誰かを生かすための苦しみとして、キ リストの命が現れるための苦しみとして受け入れることができるのでしょう。そ の時、確かにその苦しみは、「《イエスの死》を体にまとっている」ことに他な らないのです。

 今日の箇所の最後にパウロはこう言っています。「わたしたちは見えるもので はなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えない ものは永遠に存続するからです」(18節)。今日の説教題にもなっている言葉 です。私たちが土の器であることは単純に目に見える事実です。内にある宝その ものは目に見えません。目に見える土の器の方にしか目を向けなかったら、落胆 するしかないでしょう。彼が「わたしたちは落胆しません!」と言い切ることが できたのは、目に見えない宝の方に目を向けていたからです。そちらの方が永遠 なのです。

 
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