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「キリストの十字架のゆえに」

2010年3月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 15章33節~39節 

つまずきとなる言葉

 イエス様は十字架の上で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれまし た。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という 意味です。

 この箇所についてひとつだけはっきりしている事があります。それは、この叫 びを聞いた人々が「この男は絶対にメシヤなどではない」と確信しただろうとい うことです。人々が待ち望んでいたメシアとは政治的な解放者に他ならなかった からです。人々が求めていたのはローマ人の支配からイスラエルを解放し国を建 て直してくれる力ある王だったのです。メシヤであることのしるしは何よりもそ の「力」なのです。遡ること数日前、イエスがエルサレムに入城した時、人々は 熱狂的にイエスを迎え入れました。メシアと信じて迎えたのです。なぜですか。 イエスの働きに超自然的な力が働いているのを見たからです。この御方には力が ある。我々を解放する力がある。そう思ったのです。ところが今や、イエスは力 なく十字架の上に吊るされています。しかも、あげくのはてに「わが神、わが神、 なぜわたしをお見捨てになったのですか」などと泣き言を言っている。神から遣 わされた救い主、油注がれたメシヤが嘆きの声を上げて死んでいくなどという、 そんな馬鹿げた話はあり得ないのです。

 これはユダヤ人ではない私たちにもある程度は感覚的に理解できることでしょ う。一般的に言いまして、死に直面しても決して動じることなく泰然と死んでい く人々は尊敬されます。「立派な最期であった」と言われ賞賛もされる。最期に 至って嘆きごとを言いながら死んでいった人をあえて誉めたたえたりしないでしょ う。ましてや、それが神からのメシアであったと言えば、やはり信じることは困 難です。

 その意味で、この「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」というこの言葉は、 いつの時代においても、伝道する上で最大のつまずきとなるような言葉なのです。 イエスがメシアであることを信じることを困難にさせる最大の妨げなのです。に もかかわらず、マルコはこの言葉を福音書に書き残したのです。しかも、イエス 様が使っていたアラム語のままで、まさにイエス様の言葉として、これを後世に 伝えようとしたのです。それはなぜなのか。私たちはその意味をよく考えねばな りません。

なぜ見捨てたのですか

 そこでまず、十字架の上でイエス様が口にしたのと同じ言葉が記されている詩 編をお開きいただきたいと思います。詩編22編です。これは苦しみの中にある 人の祈りです。彼の置かれている状況はその詩の中に垣間見られます。「わたし は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わ たしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る」(7-8節)。「雄牛が群がってわたし を囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり、 牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる」(14節)。これがこの詩人の置かれ ている状況です。

 具体的なことはわかりません。とにかく彼は周りの人たちから苦しめられてい る。しかし、この人にとって最も深い苦しみは、そのような人たちがいることで はないのです。誰かが酷いことをしたということではないのです。彼の最も深い 苦しみは「神から見捨てられている」と感覚なのです。苦しみが延々と続く。祈っ ても事態は全く改善されない。そのような中で神の愛も分からなくなってしまっ た。もう見捨てられているとしか思えなくなってしまった。そういうことです。 だから彼は冒頭で叫んでいるのです。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわた しをお見捨てになるのか。」

 人は愛されていることさえ信じることができれば、苦難に耐えていくことがで きるのです。神に愛されていることさえはっきりしていれば忍ぶことができるの です。そのような人物は聖書の中にいくらでも登場してまいります。それは聖書 の中だけの話ではありません。ブレーズ・パスカルが病気の苦しみの中でこのよ うに祈った言葉が伝えられています。「主よ、わたしは、ただ一つのことを知っ ているだけです。それは、あなたに従うのは善で、あなたに逆らうのは悪である ということです。このほか、すべてのことのうち、どれが善く、どれが悪いかを 知りません。健康と病気と、富と貧しさと、この世のあらゆることがらのうち、 どれが自分に有益であるかを知りません。それは人間と天使との力を超え、あな たの摂理の秘密の内に隠されている分別です。その摂理をわたしはあがめ、あえ て探索しようとは思いません。それゆえに、主よ、わたしをどんな時にも、あな たの御心にかなう者にしてください。今のように病気をしている時には、自分の 苦しみの中であなたをあがめさせて下さい。」彼がこのように祈れたのは、彼が 神に見捨てられているとは思っていないからです。神に愛されていることを知っ ているからです。だから、「自分の苦しみの中であなたをあがめさせて下さい」 という言葉が出てくるのです。

 ですから、逆に言えば、この神の愛を信じられないとき、人は耐えがたい苦し みに襲われるのです。この詩編22編の詩人の苦しみはまさにそこにあったので す。イエス様もまた、この詩人と同じように具体的な苦しみを経験されました。 イエス様は人々に捨てられました。愛する者に裏切られました。人々からあざけ られました。馬鹿にされました。辱しめを受けました。殴られました。鞭打たれ ました。十字架の上に釘付けられました。しかし、イエスにとって最も耐えがた い苦しみは「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と口にしなくてはならないと ころにあったのです。

わたしたちのために呪いとなって

 そのように詩編22編を開きますと、そこで苦しんでいる人の姿がイエス様の 姿と重なってまいります。しかし、実は詩編22編の詩人とイエス様の間には決 定的な違いがあるのです。詩編22編は確かに「わたしの神よ、わたしの神よ、 なぜわたしをお見捨てになるのか」で始まります。しかし、実際には神から見捨 てられ断罪され滅ぼされたわけではないのです。ですから、その最後は神への信 頼の言葉で終わるのです。「子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、 成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう」(詩編2 2:31-32)。彼は神から見捨てられてはいないことを悟るのです。実際、神 はこの人を見捨ててしまったわけではないのです。

 ところが、イエス様の場合は違うのです。どのように違うのか。私たちは今日、 第二朗読においてガラテヤの信徒への手紙をお読みしました。その3章13節に こう書かれているのです。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わ たしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13)。

 「呪いとなって」というのは「呪われた者となって」ということです。呪われ た者となるとは、言い換えるならば神から見捨てられるということです。完全に 見捨てられたということです。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」というイ エス様の叫びは、信仰が弱まってしまったという話ではないのです。実際に呪わ れたのです。裁かれたのです。捨てられたのです。愛する天の父から捨てられた のです。それは何のため。私たちを「呪いから贖い出す」ためだと聖書は教えて いるのです。言い換えるならば、私たちが神から見捨てられないようになるため、 ということです。

 私たちは確かに色々な出来事の中で、「私は神から見捨てられているのではな いか」という思いを持つことがあります。「なにゆえ、見捨てられるのですか」 と叫びたくなることがあります。しかし、考えてみてください。私たちは本当に そのように叫ぶことができるのでしょうか。むしろ私たちは本来は見捨てられて も仕方ない存在ではないでしょうか。

 これは身近な人間関係を考えても分かります。私たちの考えること、語ってい ること、行なっていることの大部分は人の目から隠されています。もし、仮にあ る人の前ですべてが暴かれたとしたら、その人はなおあなたを愛するでしょうか。 すべてが明らかになったとき、なお人はあなたを受け入れるでしょうか。むしろ、 あいそをつかし、軽蔑し、見捨てるのではありませんか。ましてや、聖なる神が 私たちのすべてを知っているとするならば、私たちが見捨てられたとしても、裁 かれて滅ぼされたとしても、それはむしろ当然のことではないでしょうか。

 しかし、神は私たちを見捨てまいとされたのです。私たちのすべてをご存じの 上で、この世がどれだけ罪に汚れているかをご存じの上で、この世をなお愛そう とされたのです。私たちをそれでもなお愛し、赦し、受け入れようとされたので す。それゆえに、裁かれなくてはならないこの世の罪、私たちの罪をすべてキリ ストの上に置かれ、キリストを裁かれ、キリストを見捨てられたのです。第一朗 読においてイザヤ書53章が読まれましたが、そこにこう書かれていたとおりで す。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そ のわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ53:6)。イザ ヤ書に書かれていたことが、イエス・キリストにおいて実現したのです。それが あの叫びなのです。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、な ぜわたしをお見捨てになったのですか)」。神は、独り子を裁くことによって、 私たちに愛の手を伸ばされた。罪に汚れて、見捨てられても仕方のないような私 たちに、愛の手を伸ばされたのです。

 ですから、私たちもまた、その手をつかむのです。キリストがわたしたちのた めに呪いとなってくださった。そのことを信じて、神の愛の手をつかむのです。 そして、キリストが私たちの代わりに見捨てられてくださったゆえに、わたしは 絶対に見捨てられることはない。そのことを信じて生きていくのです。どんな辛 いことがあろうが、苦しいことがあろうが、わたしは見捨てられていない、神に 愛されている、神に赦されている、そのことを信じて生きていくのです。そして、 神に見捨てられていないゆえに、最終的に完全に救われることを信じて生きてい くのです。

 そのように愛なる神の手をつかんで、今日、ひとりの方が洗礼を受けます。お 体の具合を考慮し他の人たちより少し先に洗礼を受けます。今日、神に愛されて いることを信じて、一人の人が新たに生き始めます。今日、私たちはそこに、今 もこの時この場所に伸べられている神の愛の御手を見ることができるでしょう。

 
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