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「燃え尽きてしまわないために」

2010年3月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 テモテへの手紙二 1章8節~14節

苦難を共に耐え忍んでください

 今日はパウロがテモテに書き送った手紙をお読みしました。パウロはこれを獄 中から書き送っています。この時、テモテはエフェソの教会の牧会をしながら、 パウロに代わって小アジアの諸教会の指導に当たっておりました。そのテモテに パウロはこう書き送ります。「だから、わたしたちの主を証しすることも、わた しが主の囚人であることも恥じてはなりません。」

 ある意味でとても不思議な言葉です。牧師であるテモテが主を証しすることを 恥じることなどあり得るのでしょうか。いわばパウロの愛弟子とも言えるテモテ が、福音のために投獄されているパウロを恥じることなど、あり得るのでしょう か。「主を証しすること」は、直訳すれば「主の証し」ですから、これはキリス トの十字架を指すと読むこともできます。ならばなおさらです。テモテがキリス トの十字架を恥じとすることがあり得るのでしょうか。しかし、テモテが実際に 「恥じて」いたかどうかは別として、その時のテモテの状態を考えるならば、パ ウロはどうしてもそのことを語らざるを得なかったのです。

 本日朗読された箇所の直前にはこう書かれています。「そういうわけで、わた しが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたた せるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を わたしたちにくださったのです」(6-7節)。ここで「神の賜物」と呼ばれてい るのは牧師としての務めです。それを「再び燃え立たせるように」と言われてい るということは、要するに《消えかかっていた》ということです。

 かつては神から与えられた務めに燃えていたのです。しかし、今やテモテは燃 え尽きる寸前のような状態になっていた。どうしてそうなってしまったのか。テ モテに宛てられた二つの手紙を読みますと想像がつきます。テモテの務めは困難 を極めていたからです。エフェソの教会には異端の教師の問題がありました。テ モテ自身が年若く未熟であるという問題もありました。彼自身の体の弱さという 問題もありました。それらの問題に直面して、思うように事は進まなかったので しょう。そのような中でかつて燃えていた火も消えかかっていたのです。

 もちろんそれが「神の賜物」であることは分かっています。キリストに召され て牧者としての務めを与えられていることには確信があったに違いない。しかし、 現実に彼は多くの困難に直面して苦しんでいるのです。疲れてしまっているので す。神の御心はどうであれ、困難からは誰だって逃げたいと思うもの。残った火 などを自ら吹き消してしまいたい。牧師としての務めも捨てて、故郷のリストラ に帰ってしまいたい。そう思ったことは恐らく一度や二度ではなかったでしょう。 パウロには彼の気持ちが手に取るように分かっていたに違いない。だからこそパ ウロはここでテモテに言うのです。「わたしたちの主を証しすることも、わたし が主の囚人であることも恥じてはなりません」と。

 考えてみてください。もしここでテモテが逃げ出してしまうならば、苦難を耐 え忍んで獄中にいるパウロについて「わたしとは無関係です」と言っているよう なものではありませんか。さらに言うならば、十字架の苦しみを背負われたイエ ス様についても「わたしとは無関係です」と言っているのと同じでしょう。なら ば結局は主の十字架も福音のために囚人となっているパウロの苦しみをも「恥と している」のと変わらないことになってしまうのです。

 だからパウロは言うのです。「むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわ たしと共に苦しみを忍んでください」と。もし主の証し、主の十字架を誇りとす るならば、またこのように囚人となっている私を誇りとしてくれるなら、神の力 に支えられて私と苦しみを共にしてくれ。あなたには力と愛と思慮分別の霊が与 えられているではないか。だから苦しみを共に耐え忍んでくれ。そのようにパウ ロは言っているのです。

 まことに身につまされる言葉です。私たちもまた、困難に直面するとき、苦難 の中に置かれるとき、できることなら逃げ出したいと思うことはいくらでもある からです。そのような私たちに、この受難節に当たって主の十字架を思う時に、 また救いを宣べ伝えるために苦しみを耐え忍んだ多くの聖徒たちを思う時に、私 たちの心にも「神の力に支えられて、苦難を共に耐え忍んでください」という言 葉が響いてまいります。

神の力に支えられて

 苦難から逃げ出さないで、そこに留まって耐え忍ぶことができるとするならば、 それはパウロの言うように、「神の力に支えられて」のことです。私たちは逃れ るためではなく、担わなくてはならないことを担うためにこそ、耐え忍ばなくて はならないことを耐え忍ぶためにこそ、神の力を求めねばならないのです。そし て、その神の力は信仰によって私たちに与えられるのです。どこまでも主に信頼 し、どこまでも主を待ち望む、その信仰によって与えられるのです。今日読まれ た旧約聖書の言葉にもありました。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のよ うに翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40: 31)と。

 今日の箇所でもパウロが次のように神への信頼を語っています。「この福音の ために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしは このように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、 わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、 その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」(11-1 2節)。

 パウロは福音の宣教者として任命されました。神から福音をゆだねられたので す。ゆだねられたものを守るのは、ゆだねられた者の責任ではないでしょうか。 そうです。普通はそのように考えるのです。しかし、パウロはここで不思議なこ とを言っているのです。神はパウロに福音をゆだねたのだけれど、それを神自ら が守ってくださる、と。自分が信頼している神が、このゆだねられたものを守っ てくださるとパウロは信じているのです。言い換えるならば、パウロに使命と務 めを与えられた神は、自ら責任をもってその使命を遂行させてくださるというこ とです。いつまででしょう。「かの日まで」。つまり終わりの日までです。そう です、最後まで神が守ってくださる。パウロはそのことに信頼しているのです。

 なるほど、パウロが燃え尽きない人であった理由を私たちはここに見るような 気がします。神が託されたのならば神が守ってくださる。神が与えた使命ならば 神が全うさせてくださる。耐え忍ぶことが神の御心ならば、神が全責任を負って 支えてくださる。そのようにパウロは「自分が信頼している方を知っている」。 だから燃え尽きないのです。すべては自分の行いにかかっているなどとパウロは 思っていないのです。そのように思っていたら、いつかは疲れ果ててしまうでしょ う。しかし、そうではない。すべては神の御業にかかっている。それが分かって いるのです。人間が第一に為すべきこと、それは神に信頼することなのです。

すべてに先行する神の恵み

 考えてみますなら、そもそも私たちが何かをする以前に、キリストを信じる者 として存在していること自体、私たちの行いによるのではなくて神の恵みの御業 なのです。燃え尽きかけているテモテもまた、そのことを思い起こさなくてはな らないのでしょう。ですからパウロは9節においてこう語っているのです。「神 がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたした ちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです」。そして、さら に「この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与え られ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされ たものです」とパウロは言うのです。

 びっくりするようなことが書かれていると思いませんか。「キリスト・イエス の出現によって明らかにされた」という部分はまだ分かります。まさにこの地上 に人となってくださった御子キリストにおいて、神の恵みは完全に現れた。それ はまだ分かります。しかし、その前の部分、分かりますか?「この恵みは、永遠 の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ」。「永遠の昔に」 とまで言われると、私たちの頭は到底ついていけません。

 しかし、パウロがあえてこのような言葉を用いるのは、このような言葉をもっ てしか、恵みの何たるかは表現できないからでしょう。要するにパウロが言いた いのは、恵みが最初だということなのです。「永遠の昔に」と言ってしまえば、 その前はないのですから。とにかく初めに恵みがあるということ。私たちが考え ることのできるいかなるものも、神の恵みより前にはいかないのです。私たちは 常にギブ・アンド・テイクの世界に生きていますから、恵みについてさえも、 「わたしが~をしたから恵みが与えられたのだ」という思考になってしまうので す。しかし、「~をしたから」はないのです。「この恵みは、永遠の昔に与えら れた」のですから。恵みが無条件に何よりも先に来る。パウロはいつもその事実 に目を向けてきたのです。そして、その恵みに目を向けさせようとしているので す。

 そのような神、無条件にまず恵みを与えてくださった神が、福音のために私を 任命してくださった。そのような神が福音をゆだねてくださった。そして、すべ てを恵みから始められた神だから、無条件に最後までゆだねられたものを守って くださるはず。パウロは自分が信じている方が、そのような方であると知ってい るのです。だから苦しみを受けていたとしてもそれを恥とはしない。そこにあえ て留まるのです。与えられた使命を放棄して逃げだそうとは思わない。そして、 なおも燃え尽きてしまうこともない。

 そのようなパウロはテモテにもそうあって欲しいと願っているのです。「キリ スト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言 葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に 住まわれる聖霊によって守りなさい」(13-14節)。テモテは確かに「ゆだね られている良いもの」を守らなくてはならない。テモテには与えられている務め があります。しかし、それを実現するのは恵みによってすべてを始めてくださっ た神御自身です。神自ら私たちの内に住まわれて、与えられた務めを全うさせて くださる。だから「わたしたちの内に住まわれる聖霊によって」なのです。すべ てに先行する神の恵みへの信頼、そして、わたしたちの内に住まわれる聖霊への 信頼。それこそが、私たちにとっても、燃え尽きてしまわないための秘訣です。

 
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