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「戦う相手を間違っていませんか」

2010年2月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 6章10節~20節

強くなりなさい

 「強くなりなさい」。そう書かれていました。本日の第二朗読です。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)。強くなることがどうして必要なのでしょう。それは戦いがあるから。戦わなくてはならないからです。戦う相手は誰でしょう。続く11節に書かれています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」。戦うべき相手は「悪魔」だと言うのです。戦うべき相手が「悪魔」であるということは、要するに「人間相手に戦ってはならない」ということです。ですから12節にこう書かれているのです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」と。「血肉」とは人間のことです。戦う相手は人間ではない。そのことを忘れてはならないのです。人間同士が争っている時、人間同士が戦っている時、憎み合い、傷つけ合っている時、そこで本当に勝ち誇っているのは悪魔なのです。

 パウロはここで特に「悪魔の策略」という言葉を用いています。「悪魔の策略」などと言いますと、極めて迷信じみた言葉に聞こえるかもしれません。しかし、もう一方でこれほど見事に現実を言い表している表現はないのではありませんか。例えば一つの家庭を考えてみてください。誰も争いながら一生を送りたいと思って結婚する人はいません。夫も妻も憎み合うことなど望んでいるはずがない。しかし、どちらも望んでいないことがいつのまにか実現しているのです。あるいは子供たちをも含め、誰も争い合い、憎み合う家庭なんて誰も望んではいないはずです。しかし、誰もが望んでいないことが、いつの間にか実現してしまうのです。首をかしげざるを得ない。まさに悪魔の策略に陥ってしまったとしか言いようがない。

 あるいは、この世の様々な対立や争いを考えても思います。しばしばこの世で目にするのは、善いことをしようとしている団体同士が互いに争っている姿です。あるいは、善いことをしようと思って行動する人が、争いの種となってしまっていることもある。歴史を振り返るならば、正義の実現が叫ばれるところにおいて最も残酷なことが起こり、多くの血が流されるという現実がある。まさに、悪魔の策略としか言いようがないこと。そんなことが確かにあるのです。もちろん、それは教会も例外ではないのであって、キリスト者の生活においても、教会の歩みにおいても、悪魔の策略というのはいつでも身近な話です。だからこそ、パウロはこれを教会に書き送っているのです。改めて語っているのです。私たちの戦いは血肉に対するものではありませんよ。人間に対するものではありませんよ。戦う相手を間違えてはいけませんよ。悪魔の策略に対抗して立つことが大事なのですよ、と。

 人間相手の戦いならば、武器をもって戦うこともできるでしょう。権力がものを言う場合もあるでしょう。「数が力」ということもあるでしょう。しかし、それでは人間相手には勝てるかもしれないけれど、悪魔には勝てないのです。悪そのものに勝つためには、罪の力そのものに勝つためには、本当の意味で「強くなる」ことが必要なのです。

 ですからパウロは、ただ「強くなりなさい」と言うのではなく、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と言っているのです。「主に依り頼み」というのは一つの意訳です。もともとは「主の内にあって」という言葉です。新共同訳では「主に結ばれて」と訳されることが多い。そうすると、「強くなりなさい」と言われているけれど、どうも自分自身が強い人間になるというよりも、キリストにしっかりとつながっているということが重要なのです。そして、キリストにつながって強くなるということが、より具体的に、「神の武具を身に着ける」と表現されているのです。

 私たちには身に着けるべきものがあるのです。キリストに結ばれた生活、信仰生活において身に着けるべきものがある。それなくしては、本当の意味で強くなれない、戦えない。少なくとも人間相手ではない戦いを戦うことができない。そういう武具があるのです。では、私たちがキリストにあって身に着けるべき武具とはなんでしょう。ここには六つの武具について記されています。その一つ一つに目を向けてみましょう。

神の武具を身に着けて

 第一は「真理の帯」です。信仰者はまず「真理」をしっかりと身に付けなくてはなりません。真理とは何でしょうか。テモテへの手紙2に、ヒメナイとフィレトという二人の人物について、次のように書かれています。「彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています」(2テモテ2:18)。パウロはそこで「真理」という言葉を使っているわけですが、それは明らかに「正しい教え」を意味しています。正しい教えの中心はキリストの十字架と復活ですが、彼らは復活について自分勝手な解釈を始めた。そして、正しい教えから外れたために、他の人々にも悪影響を及ぼしていたのがこの二人なのです。

 正しい教え。教会が伝え続けてきた信仰の内容。「教理」と呼んでもよいでしょう。それをしっかり学んで身に着けるということは極めて重要なことです。「信仰は勉強じゃない。」――確かにそうです。しかし、信仰において《体験》を強調する熱心なキリスト者が、学ぶことを疎かにしたがために、悪魔に足をすくわれて道を踏み外してしまった例は、決して少なくはないのです。私たちは真理の帯をしっかりと身に付けなくてはなりません。

 第二は「正義の胸当」です。「正義」は他の箇所では単に「義」と訳されています。胸当にすべきは人間の正義ではありません。神の義です。キリストの十字架における罪の贖いのゆえに、罪人を赦して義としてくださる神の義です。人間の義は悪魔の前に役には立ちません。悪魔は告発者であって私たちの義に挑戦して来るからです。「おまえは罪人ではないか。神に裁かれて滅びるばかりのものではないか。どこに神の前に立つ資格があるか」と告発するのです。確かに悪魔の告発の言葉は間違っていません。私たちは神の御前に立つ資格などありません。私たちの正しさなど神の前に通用するものではありません。しかし、そこで望みを失えば、悪魔の策略に陥ることになります。だから神の義を胸当としなくてはならないのです。「わたしはキリストによって救われ、罪を赦され、神に義とされたものなのだ」と宣言しなくてはならないのです。

 かつてマルティン・ルターが、そのような悪魔の来訪にしばしば苦しんだことを書いています。ある時には悪魔に向かってインク瓶を投げつけたという有名な話があります。ヴァルトブルク城にはその時の染みが今でも残っているそうです。しかし、ルターはこの義の胸当てによって悪魔に勝ったのでした。彼は後にこう記しています。「不快な敵(悪魔)は、今や、神の掟に対して罪を犯したという非難を、われわれに放ち得ないのだ。そはキリストは、われわれに反対し、われわれに反対の証言を立てる良心の証書を取り去って、十字架に釘付けたもうたからだ。」

 胸当ては命を守るものです。義の胸当ては信仰者の命を守ります。この胸当てを身に着けているかぎり、何者も私たちを神から引き離し、絶望させ、滅ぼすことはできないのです。私たちはこの義の胸当てがある限り、悪魔に立ち向かうことができるのです。

 第三は「平和の福音を告げる準備」と書かれています。これが履き物に当たります。私たちは福音を伝えることによって悪魔に勝つのです。

 これを書いているパウロはかつて教会の迫害者でした。迫害を受けたエルサレムの教会の人々はユダヤとサマリアの地方に散らされていきました。散らされた人々は迫害に対抗するために武器を集めたか。いいえ、そうではありません。聖書にはこう書かれています。「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(使徒8:4)。人の目から見たら望ましくは見えないどんな場面でさえも、あるいは望ましく思えないどんな人との関わりでさえも、それは福音を告げ知らせるチャンスと成り得るのです。人間相手に戦う代わりに、福音を伝える。そのための準備こそが、悪魔と戦うために足に履くべき履き物です。

 第四は「信仰の盾」です。「信仰」という言葉も広い意味合いを持つ言葉です。ある時には神の「真実」を表わす言葉ですし、その真実に対する私たちの「信頼」を表わす言葉でもあります。しかし、ここでは特に「信頼」という意味が「盾」には相応しいように思えます。これは「盾」と言いましても、体がすっぽりと入る大盾を意味します。それをもって悪魔の放つ火の矢を消すのです。悪魔は様々な火の矢を放ってくることでしょう。時には誘惑であり、時には苦難であったり災いであるかも知れません。火の矢が飛んでくる現実は避けられません。しかし、その火の矢で火だるまになる必要もありません。火の矢の火は消すことができるのです。何をもってですか。信仰をもってです。神の真実にどこまでも信頼することによってです。信頼さえ失わなければ、火の矢の火は消されるのです。

 第五は「救いの兜」です。テサロニケの信徒への手紙1では、「救いの希望を兜としてかぶり」と書かれています(1テサロニケ5:8)。ですから、この「救い」とは、最終的な救いの完成を意味していると言えるでしょう。今、私たちはまだ戦いの中にあり、傷つきながら苦闘しているのですが、この戦いは永遠に続くのではありません。勝利の日が来るのです。その希望を手放してはなりません。しっかりとかぶっていなくてはなりません。

 第六は「霊の剣」すなわち神の言葉です。神の言葉が語られ、神の言葉が聞かれるところに聖霊が働かれます。神の言葉が語られ、聞かれる第一の場は、こうして共に集まる主の日の礼拝です。私たちは共に集まるこの時を疎かにしてはなりません。私たちの生活が御言葉から離れないことこそ勝利の秘訣です。御言葉によって生き、御言葉によって歩むときに、私たちは完全に勝ち抜いて固く立つことが出来るのです。

 以上、簡単に六つの武具を見てまいりました。それらを「身に着け」なくてはならないと語られているのです。当たり前の話ですけれど、身に着けるのは本人でないとできません。誰かが代わりに身に着けるわけにはいかない。「うちの妻が熱心な信者ですから」「うちの親は敬虔なキリスト者でしたから」――関係ありません。身に着けなくてはならないのは本人です。しかも、武具を身に着けるのと洋服を身に着けるのでは意味合いが違います。戦いの時に初めて身に着けた武具が役に立つでしょうか。役に立ちません。それまで身に着けて訓練していなければ、いざという時に役に立ちません。だから、「邪悪な日によく抵抗し、しっかり立つことができるように」(13節)と書かれているのです。悪い日、悪魔との戦いが本当の意味で必要となる時が来るのです。神から引き離されてしまうのか、それとも信仰に留まるのか、そのことが決定的に問われるような、せめぎ合いの時が来るのです。それは私たちにとっては例えば病気になったときかもしれませんし、人生に大きな問題が起こった時かもしれません。あるいは人生最期の時かもしれません。いずれにせよ、その時に泥縄は役に立ちません。今は何も問題がないから大丈夫、などと言っていたら、いつか足をすくわれることになります。平穏無事である時にこそ、武具をしっかりと身に着けていく生活が必要なのです。

 
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