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「ついに救いの時が来た」

2010年2月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 1章12節~15節

復活されたキリストの言葉として聞くこと

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。今日の福音 書朗読の中でイエス様がそう言っておられました。これはイエス様がガリラヤへ お戻りになり、宣教を開始されたその第一声として伝えられている言葉です。も ちろん、イエス様はその時一回だけ語られたというのではない。繰り返し語られ た言葉でしょう。あるいは、この言葉は、イエス様が宣べ伝えられたすべての言 葉の要約とも言えます。イエス様は各地を行き巡り、多くのことを教えられまし た。しかし、その多くの言葉をもって語られたのは、要するに、「時は満ち、神 の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということなのです。

 ところで、そのようにイエス様の宣教の言葉を伝えているこの福音書、最後に 何を伝えているかご存じでしょう。イエス様が十字架にかかられたこと、そして 復活されたことです。復活の朝、墓の入り口をふさいでいた石は転がされていた。 今年もイースターに読まれる箇所です。墓の中には、白い長い衣を着た若者が座っ ていた。その若者はこう言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架に つけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはお られない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペト ロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて 言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16:6-7)。

 そして、復活したキリストはガリラヤへ行き、弟子たちに会い、ペトロにも会 い、もう一度「わたしについて来なさい」と言われるわけでしょう。ちょうど、 この福音書は終わりまで行って、またこの1章に戻ってくる。そのような書き方 がされているのです。それは何を意味しますか?まだ続いているということです。 イエス様の宣教のお働きは続いている。十字架と復活を経て続いている。復活し たキリストのお働きとして続いている。イエス様は今も語り続けておられるので す、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。復活し たキリストが、キリストの体である「教会」を用いて、今も語っておられるので す。だから、私たちもまた、今、その言葉を聞いているのです。

 去る水曜日から受難節に入りました。イースター前までの46日間です。46 日間というのは半端な数字ですが、それはこの間に日曜日が6回あるからなので す。40日と6日で46日。カトリック教会では四旬節と呼びます。つまり40 日の期間。ですので6回の日曜日はある意味では受難節には属さないと言えます。 キリストの御苦しみを思う受難節という季節ですが、そこに繰り返し復活の光が 差し込んでくる。そのキリストの復活を思って礼拝するのです。それが受難節の 中における日曜日の出来事です。

 弟子たちはもう一度、ガリラヤにおいてキリストにお会いしました。復活した キリストにお会いしました。キリストはこの地上におられた間だけでなく、永遠 に弟子たちの群れと共にいてくださる御方として、彼らに現れたのです。今日も 私たちは、永遠に共にいてくださる御方、復活して今もお語りくださっているキ リストと共にここにいるのです。

罪を正しく裁かれる王が来られる

 そこで今日は、そのようなイエス様の私たちへの語りかけとして、先ほどの言 葉を心に留めたいと思うのです。「時は満ち、神の国は近づいた」。イエス様は 宣言してくださっています。ついにその時が来た。神の国は近づいた。そう主は 言われるのです。

 さて、そこで私たちはよく考えたいと思うのです。これはうれしい知らせでしょ うか。「神の国」とは「神の支配」という意味です。王としての支配です。神が 王として支配されることです。ならば「神の国は近づいた」とは、「王である神 が近づいてきている」ということです。絶対的な権威と力を持った王である神様 が近づいてくださる。おいでくださる。それはうれしい知らせでしょうか。誰で も苦しい時に神の名を口にします。「ああ、神様!」と。助けが必要な時に、神 様を呼び求めます。「ああ、神様!」と。普段「神など信じない」と言っている 人であっても、苦境に立たされた時に、「神様ーっ!」と叫ぶかもしれません。 しかし、その時に本当に神様が来られたら、近づいて来られたら、とてつもない 大きな力と権威をもって近づいて来られたらどうでしょう。それはうれしいこと でしょうか。

 いや、それは本来は単純にうれしい知らせではなく、恐ろしいことであるはず なのです。なぜなら「王」であるとは第一には「裁きを行う者」であることを意 味するからです。王権とは裁きを行うことのできる権威です。王が死刑を宣告す るならば死刑になるのです。この世の王においてさえ、そのようなことが起こり ます。ましてや神が有罪を宣告し、滅びを宣言するならば、それはもはや他の何 者も覆すことのできない決定となるでしょう。神様がそのような王として近づい て来られる。「神の国が近づいた」とはそういうことです。

 しかも、神様は人間の裁きとは異なり、正しい裁きをなさるのです。人間が相 手ならばいくらでも誤魔化すことはできます。実際に行ったことでさえ、人間相 手ならば隠しておくことはできるのです。ましてや心の中のことは、いくらでも 隠しておくことはできるでしょう。しかし、神の御前ではそうはいきません。 「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」(ヘブライ4:1 3)と聖書は語ります。そのような神が、最終的な判決を下すことのできる王と して近づいて来られるのです。それはうれしいことでしょうか。単純に喜ばしい ことであるはずがありません。このように「神の国は近づいた」というメッセー ジは、単純にうれしい知らせではないのです。

 ならば、それに続くイエス様の言葉は変でしょう。「悔い改めて福音を信じな さい」。福音とは「良い知らせ」という意味ですから。本当は単純にそうは続か ない。本来はこういう言葉になるはずです。「悔い改めて正しい人になりなさい」 「悔い改めて善い行いをしなさい」。実際、ここで「捕らえられた」と言われて いる「洗礼者ヨハネ」はそのような教えを宣べ伝えていたのです。今日お読みし たのは、マルコによる福音書ですが、ルカによる福音書にはヨハネのメッセージ がより詳しく記されています。洗礼者ヨハネはこう人々に語ったのです。「蝮の 子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわ しい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言って おくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおで きになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り 倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3:8-9)。

 そのように「悔い改めて正しい人になりなさい」「悔い改めて善い行いをしな さい」というのが自然な流れなのです。もしそうしなければ、切り倒されて火に 投げ込まれるよ、と。なぜなら、神はすべてご存じだから。神は正しく裁くこと のできる王だから。その王が来られるのだ。悔い改めて、正しい人になりなさい。 神が王であり最終的な裁きの権能を持っておられるならば、当然の話でしょう。

 そうです、それは確かに当然のことです。誰にでも分かり易いし納得が行く。 しかし、そこにいったい救いはあるのでしょうか。「悔い改めて正しい人になり なさい」に救いはあるのでしょうか。恐らくいつでも自分の正しさとにらめっこ しながら、「自分の正しさは十分であろうか。自分の善い行いは十分であろうか」 と問いながら、最終的な神の裁きを恐れおののきながら待つことになるのではあ りませんか。「神の国は近づいた」という言葉は、どうしたって喜びにはならな いでしょう。そこには救いがないと言わざるを得ないのです。

罪の赦しを宣言してくださる王が来られる

 しかし、ここで神様が王として、最終的に判決を下すことのできる御方として、 《罪の赦し》を宣言したとしたらどうなるでしょう。王が恩赦の権威をもって罪 の赦しを宣言したとするならば、どうなるでしょう。神が最終的な審判者ですか ら、もはや他の誰もその人を罪に定めることはできない。もはや自分自身でさえ、 自分を罪に定めることができない。しかも、その王が絶対的な権威をもってその 人に対して、「わたしはあなたを私の子とする」と宣言したらどうでしょう。さ らに「わたしはあなたを自由の身とする。あなたはもはや何者によっても束縛さ れることはない」と宣言されたらどうでしょう。神が、そのような王として近づ いてくださるならば、話は全く違ってくると思いませんか。それならば、まこと に良き知らせです。

 そうです。それこそがイエス様の告げ知らせてくださった福音、良き知らせな のです。神が来られる。王として来られる。最終的な裁きを行う王として来られ る。そして、その王は、罪の赦しを宣言してくださるのです。神は罪を赦し、罪 の束縛を断ち切り、罪から救ってくださる王として来てくださるのです。

 事実イエス様はその宣教の働きの中で、神の権威をもって罪の赦しを宣言され たのです。そんな一例が2章に出ています。イエス様は、御自分の前に連れて来 られた中風の人に、こう宣言されたのです。「子よ、あなたの罪は赦される」。 そして、神が罪の赦しを宣言なさるなら、もはや誰もその人を罪に定めることは できないのです。彼は中風でした。癒されることを求めてきました。そして、彼 は癒されました。それは驚くべき奇跡です。しかし、もっともっと大きなことが、 実は彼の身に起きていたのです。王が罪の赦しを宣言なさった。ゆえに、もはや 他の誰もそれを取り消すことはできない。他の誰も彼を断罪することはできない。 いわば、そのような王が来てくださった。イエスという御方を通して来てくださっ たのです。

 それがイエス様の告げ知らせておられた福音です。いや、イエス様が今も告げ 知らせていてくださる福音です。十字架と復活を経て、復活したキリストが語り 続けていてくださる福音です。あの時、罪の赦しを宣言されたイエス様は、自ら 罪の贖いの犠牲として十字架の上で血を流された御方として、今も語っていてく ださるのです。自らの御苦しみをもって罪の贖いを成し遂げてくださった復活の 主として語っていてくださるのです。「神の国は近づいた。王なる神は近づいて 来られる。罪を赦す権威をもって近づいてくださる。その御力をもって、完全に 自由な神の子としてくださる。」

 だから「神の国は近づいた。悔い改めて正しい人になりなさい」ではなくて、 「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」なのです。そうです。信じ なかった者から信じる者となるのです。悔い改めて福音を信じるとはそういうこ とです。「福音を信じる」ところから救いは始まるのです。神が来てくださいま した。神様の方から罪の赦しを携えて救いに来てくださいました。神様の方から 近づいて来てくださいました。時が満ちてイエス様がこの地上に来られたように、 時が満ちて、今、あなたも福音を耳にしているのです。主はあなたにも語ってお られます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

 
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