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「本当に必要な癒し」

2010年2月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 2章1節~12節

福音を求めて集まる人々

 「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知 れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」 (1-2節)。そんなことが書かれています。イエス様の集会って、どんな感じだっ たのでしょう。この場所もある程度窮屈になってきましたが、こんなものではな いでしょう。「すきまもないほど」だったというのですから。そこには病人もた くさんいた。悪霊に取りつかれた人もたくさんいた。そんなことが想像されます。 数日前のカファルナウムでの出来事が1章に出ているのですが、32節以下にこ んなことも書かれていますから。「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪 霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まっ た」(1:32-33)。

 癒すことのできる方のところに癒されたい人が集まる。当たり前のことのよう に思えます。イエス様のおられた家に人がいっぱい集まったこと、ごく自然なこ とのように思えます。しかし、その前の方から読んできますと、その日の夕方に 起こったことは、ある意味ではとても不思議なことなのです。

 その直前に何が起こったかを見てみましょう。その日は安息日でした。イエス 様は会堂に入って教え始められたのです。人々はそこで驚いたのです。イエス様 が「権威ある者」として教えられたからです。その権威とは神の権威です。イエ ス様は神の権威に溢れて、神の権威ある言葉を語っておられたのです。そこで事 件が起こります。汚れた霊に取り付かれた男が叫びだしたのです。「ナザレのイ エス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の 聖者だ」。イエス様は「黙れ。この人から出て行け」と叱りました。汚れた霊を 叱ったのです。すると汚れた霊が出て行った。人々はびっくりするような出来事 を目撃したのです。すなわち神の権威と力がリアルに現れるという出来事に遭遇 したのです。

 そのような事態に遭遇したら人々はどのような反応を示すでしょうか。通常、 ユダヤ人ならばまずは恐れるのです。このような形で神の権威に直接触れたなら、 「わたしは滅びる」と言って普通は恐れおののくのです。聖なる神がリアルに現 れるということは怖いことなのです。あの預言者イザヤでさえ、聖なる神のリア リティに触れた時、「災いだ。わたしは滅ぼされる」と叫んだのですから。神様 をせいぜいお願い事する対象ぐらいにしか考えていない人々ではないのです。彼 らは聖なる神を知っているのです。

 ですから、このような場面で、特に安息日の会堂において神の権威が現れた時、 単純に病気の人や悪霊に取りつかれた人たちが集まるようになるはずはないので す。にもかかわらず、イエス様のいるところに人々が病人を連れてきた。他なら ぬ《イエスにおいて》神の権威がリアルに現れたとき、彼らは怖がるのではなく て、病人を連れてきたのです。悪霊に取りつかれた人、罪に縛られている人、自 分をコントロールできない不自由な人を連れてきたのです。苦しんでいる人を連 れてきたのです。どうしてそのようなことが起こったのか。彼らがイエス様を通 して触れたのは、裁きの神ではなかったからでしょう。そうではなくて彼らがそ こに見たのは憐れみの神、救いの神の権威と力であったからに違いないのです。

 もちろん、それはイエス様が教えていたことと無関係ではないでしょう。「会 堂に入って教え始められた」とありますけれど、イエス様が「この世の罪を裁く 神」について教えておられた時に、神の権威がそこでリアルに現れたら恐怖以外 の何ものでもないはずです。しかし、実際には彼らは神の憐れみに希望を抱くよ うになった。ならばイエス様が権威をもって教えておられたのたのは、何よりも 神の救いの到来であったに違いない。そこで人々が聞いたのは、罪を赦し、憐れ んでくださり、救ってくださる神であったはずなのです。「時は満ち、神の国は 近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と1章15節に書かれているように、 主が会堂で語られたのも、福音を信じるようにとの招きであったに違いない。で すから、福音書の後の方に見るように、病気とは関係ない罪人や徴税人もまたイ エス様の周りに集まってきていたのです。

屋根をはがして

 そのようにして、今日お読みした箇所に至ります。数日後のカファルナウムで の集会も、戸口の辺りまですきまのないほどになりました。繰り返しますが、単 にイエス様が癒しの奇跡を起こすからではありません。イエス様の言葉、イエス 様の教えがあってこその出来事です。ですから、今日の箇所でも「イエスが御言 葉を語っておられると」(2節)と書かれているのです。人々はイエス様の御言 葉を聞いていたのです。他の箇所でも見るように、人々は御言葉を聞くために集 まっているのです。もちろん、病気の人たちは、もちろん癒されたかったに違い ない。癒されるために来たのでしょう。しかし、それよりも何よりも、彼らが知 りたかったのは、聞きたかったのは、「あなたは神から見捨てられてはいない」 ということだったのです。神は私にとっても憐れみの神であり、救いの神である。 そのことを知りたかったのです。聞きたかったのです。罪の赦しと救いをもたら す神の権威に出会いたかったのです。

 今日の箇所に出てくる中風の人と四人の男たちの思いも同じであったろうと思 うのです。中風の人は病気が治ることを望んでいたことでしょう。四人の男たち も、この中風の人の病気が治ることを心から願っていたことでしょう。その願い がどれほど切実であったかは当人でなければ分かりませんが、それにしても屋根 に穴をあけてつり降ろすという行為はやはり極端です。彼らの求め、特にこの中 風の人の求めは、もっともっと根源的なものであったに違いない。そう思わざる を得ない出来事がここに描かれているのです。

 それはある程度想像することができます。ただでさえ、病気になれば、「あな たの病気はあなたの罪のゆえだ」と言われる社会に生きているのです。彼もそう 言われてきたことでしょう。確かに、あなたの罪だと言われれば、様々なことが 思い起こされるものです。自分のしてきたことが思い起こされる。あのヨブのよ うに、「自分は絶対に潔白だ」と言い切れる人は、そうそういないに違いない。 それゆえに、病気の苦しみにしても、その他の苦しみにしても、そこで神様のこ とを考えるならば、どうしも行き着かざるを得ないのは、やはり根源的な問いな のです。わたしは神に見捨てられているのか。永遠に見捨てられてしまうのか。 それとも、神はわたしの罪を赦し、わたしを憐れんでくださるのか。神はわたし にとって裁きの神であるのか、それとも救いの神であるのか。そのことを問わざ るを得ないのです。

 それゆえに、彼らはイエス様のいる家に来たのです。彼らは何よりも福音その ものであるイエス様に近づきたくて来たのです。そこで憐れみの神、救いの神に 出会うために、彼らは屋根に穴をあけたのです。福音が語られているイエス様の 集会に、イエス様が御言葉を語っている集会に、なんとしてでも参加しようとし たのです。一番近いところで、参加したかったのです。

 イエス様はその行為の中に、彼らの信仰を見たのでした。福音を信じる信仰を 見たのです。だからイエス様は、彼らが一番聞きたかった言葉を、神の権威をもっ て宣言したのです。「子よ、あなたの罪はゆるされる」。日本語ですと、なんと なく「いつか後の日に赦される時が来るでしょう」という感じがしますが、ここ でイエス様が言っているのはそういうことではありません。「今、ここにおいて、 あなたの罪は赦される」ということです。(ですから、この言葉を「あなたの罪 は赦された」と完了形にしている写本もあるのです。)そこで中風の人も、連れ てきた四人の人も、憐れみの神、救いの神に出会っているのです。いや、その集 会に集まっている人々もまた、そこで憐れみの神、救いの神に出会っているので す。

どちらが易しいか

 しかし、この「あなたの罪は赦される」という宣言の重さを、本当の意味で知っ ておられたのはイエス様であると言えるでしょう。イエス様はそこにいた律法学 者たちに言いました。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起 きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(9節)。そして、イ エス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言っ て中風の人に宣言するのです。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担い で家に帰りなさい」。するとその人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見て いる前を出て行きました。人々は驚きました。律法学者たちも驚いたことでしょ う。しかし、イエス様にとっては、「起きて、床を担いで歩け」と言う方が簡単 なのです。イエス様にはよく分かっているのです。病気を癒す奇跡の言葉よりも、 「あなたの罪は赦される」という言葉の方が、ずっとずっと重いことを。それは 簡単に口に出来ない言葉であることを主は知っておられたのです。

 それを口にするならばどうなるのか。どのような犠牲を自分が払わなくてはな らないのか。そのことを主はご存じだったのです。イエス様は、罪の赦しを神の 権威をもって宣言しました。しかし、イエス様は知っているのです。神は赦しの 神であるゆえに、この世界に罪の赦しを与えるために、その独り子を罪の贖いと して十字架につける神でもあることを。イエス様はその神の御心に生きる独り子 として、罪を贖う神の独り子として、罪の赦しを宣言しているのです。

 そのようなイエス様のもとに、私たちは週毎に集まります。この御方のもとで こそ、私たちは裁きの神ではなく、救いの神に出会うからです。キリストのもと にあってこそ、十字架のもとにあってこそ、キリストの裂かれた体、流された血 をいただくところにおいてこそ、私たちは神の憐れみの中を生き続け、どこまで も希望をもって生きることができるからです。この御方のもとにこそ、この世が 「癒し」と呼ぶものよりも、もっと深い根源的な癒し、私たちすべての人に必要 な癒しがあるのです。

 
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