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「七の七十倍」

2009年9月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 18章21節~35節

報復の放棄

 ペトロがイエス様のところに来て言いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」するとイエス様はこう言われます。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」このようなやりとりから今日の聖書箇所は始まります。

 「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」という話です。一般的に「誰かが罪を犯したなら」という話ではありません。「誰かが罪を犯した時、刑罰を与えずに何度でも赦してやりなさい」ということなら、当然のことながら、「それでよいのか」という話になりますでしょう。その人のためになるのか。それは正しいことなのか。そのような議論も起こります。しかし、イエス様が言っているのは、一般的な話ではなくて、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」という話なのです。

 「わたしに対して罪を犯したなら」ということは、要するに、この「わたし」が苦痛を受けた場合ということです。しかも、不当な仕方で「わたし」が本来受ける謂われのない苦痛を受けた場合です。その時に、相手に同じ苦痛を与えて帳尻を合わせるのか。それとも苦痛を与えることを放棄するのか。そのことが話題になっているのです。簡単に言えば「報復するのか、それとも報復を放棄するのか」という話です。

 「報復」と言えば大げさになりますが、これは極めて身近な話でしょう。例えば、誰かに酷いことを言われて傷つけられた。「兄弟」というぐらいですから、身近な人を考えたらよいでしょう。マタイが考えているのは教会員同志です。とにかく誰かに傷つけられた。その時に相手に酷いことを言い返して、直接的に傷つけ返すことによって帳尻を合わせようとするのか。あるいは「あの人は酷い人だ」と触れ回ることによって、間接的に相手を傷つけて帳尻を合わせようとするのか。いずれも報復による帳尻合わせです。

 しかし、もう一つの選択肢があります。報復を放棄するということです。否、放棄するだけではありません。イエス様はさらにその上を行くことを求められました。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害するする者のために祈りなさい。」報復を放棄するだけでなく、むしろ愛を示すことです。そんな無茶な!とも思います。しかし、報復は相手の人間をも敵対している事態をも変え得ないことは事実です。人間を変え事態を変えるのは、報復ではなくて愛することです。報復は破壊し、愛は建て上げる。それは事実です。ペトロも先のイエス様の言葉は聞いていますし、そのとおりに生きたいと思ったのでしょう。

 だからこそ、こう尋ねたのです。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」ペトロは赦すつもりでいるのです。報復を放棄し、愛するつもりでいるのです。しかも一回や二回ではありません。七回もです!「七」はユダヤ人の世界では完全を表す数字です。ですから七回繰り返すことができたら、ペトロとしてはパーフェクトなのです。「よくぞ言った、ペトロ」とイエス様のお褒めにあずかると確信して疑わなかったに違いありません。ところがイエス様の口からは驚くべき言葉が返ってきたのでした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」七回の七十倍は四九〇回ですが、実際にはそんなに数えていられません。要するに「数えないで赦しなさい」ということでしょう。

 イエス様の言葉はあまりにも極端に思えます。しかし、そこで主は一つのたとえ話をされました。それが今日お読みしました「『仲間を赦さない家来』のたとえ」です。まずはそのイエス様のたとえに耳を傾けてみましょう。

一万タラントンの借金

 「ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った」(23‐26)。

 一万タラントン。これは一人の労働者に対する六千万日分の給料に相当します。どう考えても、そんな多額の借金ができるはずありません。いくらなんでも無茶苦茶です。主は往々にして、こういう無茶苦茶な話をなさいます。しかし、その極端さの中にこそ、イエス様の言葉ならではの強烈なメッセージが込められているのです。

 主は何を言おうとしておられるのでしょうか。それは第一に、《私たちの罪は、私たちの想像を絶するほどに大きい》ということです。これは天の国、神の国のたとえです。そのたとえにおいて、「王」とは明らかに神様のことです。借金している家来は私たち人間です。そもそも罪と赦しの話をしていたわけですから、借金に喩えられているのは私たちが神の御心に背いて犯してきた諸々の罪です。そして、その罪の借金は想像できないほど莫大な額に上るのだ、と語られているのです。

 確かに私たちは人生の途上において幾たびか真剣に自分の罪深さに悩むこともあ ります。また「わたしは悪い人間です」と口にすることもあるでしょう。しかし、 イエス様に言わせるならば、私たちは本当の意味で自分の罪深さなど、分かって はいないのです。一万タラントンという借金については想像も及ばないように、 私たちがどれほど神に背いてきたか、神の目から見て悪と見なされることを、神 に対しても人に対してもどれほど繰り返してきたか、まさに想像も及ばない。私 たちの罪の負債のトータルがいかに莫大な金額になっているか、想像も及ばない。 だから自分より少々悪そうな人間を平気で見下したりするのです。平気な顔をし て断罪していられるのです。

 そして、第二に、ここにおいて語られていますのは、《神は正しく裁かれる御方だ》ということです。主君は全額の返済を要求しました。この家来に対して、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」と命じました。殊更に残酷な要求をしているのでしょうか。いいえ、そうではありません。主君は過分な要求はしていません。当然のことを求めているのです。そもそも、自分も妻も子も持ち物も、全部を売り払ったとしても、一万タラントンには遠く及ばないのですから。神は正しく裁かれる御方です。神こそが、償いを正当に要求することのできる御方です。果たして神から全て返済することを要求されたら、私たちはいったいどうなるのでしょう。完全な償いを要求されたら、いったいどうなるのでしょうか。

 しかし、イエス様が本当にお語りになりたいのは、もう一つの別のことなのです。《神の憐れみは私たちの想像を絶するほどに大きい》ということです。イエス様のたとえ話は、驚くべき展開を見せることになるのです。「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)。一万タラントンの借金の帳消し!そんな馬鹿な!そんなことはあり得ない!イエス様の話を聞いていた誰もがそう思ったに違いありません。しかし、それが神の赦しだ、神の憐れみだ、とイエス様は言われるのです。私たちの罪は想像が及ばないほどに大きいとしても、神の憐れみはそれよりもはるかに大きいのです。このたとえ話に登場する家来は、突然、そのとてつもない王の憐れみの中に置かれることになったのです。何の謂われもなく、相応しいからでもなく、ただ一方的な恵みによって一万タラントンを与えられたに等しいのです。

神の期待

 彼はその驚くべき憐れみによって借金を帳消しにされて、呆然としながら立ち上がります。想像するに、彼はこれまで、いつ決済の時が来るかとビクビクしながら生きてきたことでしょう。負債の重圧の中に、そして悲しみと恐れの中に、自己憐憫と絶望の中に生きてきたのでしょう。しかし、もはやそうではない。彼は憐れみを受けた人として、主君の憐れみの中を生きていくことができるのです。処罰の恐れから解放されて、憐れみの中を生きていくことができるのです。単なる「一人の主君の家来」としてではなく、「この上なく憐れみ深い特別な主君の家来」として生きていくことになるのです。――それがあなたたちだ、とイエス様はペトロに言っておられるのです。そして、これを読んで礼拝している私たちにも言っておられるのです。「あなたたちは、この上なく憐れみ深い主君の家来だ。あなたたちは想像を絶する憐れみの中に生きているのだ」と。

 そして、この家来は外に出て行きます。王の御前から普段遣わされているその場所へと戻っていくのです。私たちも、この礼拝の場から出て行って、遣わされている生活の場へと送り出されていきます。主君は当然のことながら、この家来が、「憐れみ深い主君の家来」として生きることを期待しているわけでしょう。そして、「憐れみ深い主君の家来」として行動するチャンスはいくらでもあるではありませんか。王の憐れみ深さを自分の行動をもって指し示すチャンスはいくらでもあるではありませんか。特に、自分に罪を犯した人に出会う時、自分を傷つけた人に出会う時などは、まさにそのチャンスでしょう。

 この家来にも、その時がすぐに訪れました。「自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと」と書いてあります。チャンスです。憐れみによって与えられた機会です。そうでしょう。もし一万タラントンの負債を帳消しにされていなかったら、外でこの仲間に出会うこともなかったのですから。まさに憐れみを示すチャンスなのです。この家来はその仲間を抱きしめて、「いつ私に会うかビクビクしていたんだろう。いつ取り立てられるか恐れていたんだろう。返したくても返せないんだろう。どんなに苦しかったろうね。辛かったろうね」と言ってあげられる最高の機会ではありませんか。

 しかし、この家来はどうしたか。抱きしめる代わりに首を絞めたのです。「捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた」(28‐30節)。せっかくの機会を棒に振ってしまいました。そのことが主君の耳に入ります。そして、こう書かれています。「主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」(34節)。一万タラントンを返せなかった時でさえ、「主君は怒って」とは書かれていないのです。しかし、ここで主君は怒ったのです。

 この主君の怒りは、いわば主君の期待の裏返しなのです。どれだけ期待していたかということです。33節にこう書かれています。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。これこそが主君の望んでいた唯一のことだったのです。主君が望んでいたのは、一生かかってでも償いをするという類のことではなくて、憐れみを受けた者として憐れみをもって生きることだったのです。

 ペトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と言いました。三回にせよ七回にせよ、数を数えているうちは、まだ意識においては何かを積み上げているということでしょう。これだけあの人には貸しがあります。また一つ貸しが増えました。そのような意識であるならば、七回でも八回でも同じです。イエス様が言っておられるのは、まったく別のことです。私たちは憐れみ深い主君の家来として、すべての出会いを主君の憐れみ深さを表す機会として生かすのです。そのようなチャンスはいくらでもあります。そのように生きる人は、確かに赦した数を数えはしないものです。七の七十倍とは、そのような意味なのです。

 
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