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「嵐に耐え得る信仰生活」

2009年7月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章24節~29節

 今日お読みしたイエス様の例え話は、小さい時に教会学校で聞いた話の中でもお気に入りの一つでした。岩の上に家を建てた賢い人。砂の上に家を建てた愚かな人。この二人のお話を、教会学校の先生が面白おかしく話してくれたものです。一人の人は、岩の上に家を建てた。もう一人の人は、砂の上に家を建てた。外から見ると、どちらもそう変わらないように見えることでしょう。しかし、やがて嵐がやってきます。雨が降り、風も激しく吹き付けます。ついに川が溢れてしまいました。でも、岩の上の家は大丈夫。びくともしません。しかし、砂の上の家は倒れてしまいました。

 「さあ、賢かったのはどっちの人ですか?岩の上に家を建てた人ですか?それとも砂の上に家を建てた人ですか?」子どもたちは一斉に答えます。「岩の上に建てたひと~!」先生は言います。「みんなも、そういう賢い人になりましょうね~!」――というような話として聞いていたように思います。「そうか。賢い人にならなくちゃいけないんだな」と。多分、先生はもう少し何かを話していたのでしょう。しかし、ちゃんと聞いていなかった私は、残念ながら覚えているのはそこまで。実際にイエス様が言っておられたのは、それとは全く違うことだと気付いたのは、ずっと後になってからのことでした。

不可能への挑戦

 イエス様は今日の箇所で、単に「後々のことまで考えられる賢い人になりましょうね」という教訓話をしているわけではありません。そうではなくて、イエス様の言葉を聞いて行う者であるか、それとも聞くだけで行わない者であるか、という話をしているのです。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と。しかも、「これらの言葉」と言われているのは、直接的にはマタイによる福音書5章から7章までの部分、いわゆる「山上の説教」と呼ばれる部分を指していると考えられます。そうしますと、面白おかしい話としてはとても聞けない話だということが明らかになってくるのです。

 例えば、「山上の説教」と言えばすぐに思い出すのは、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5:39)という言葉でしょう。あるいは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:44)という言葉でしょう。簡単なことですか。「山上の説教」について触れている書物は少なくありませんが、そこでは必ずと言ってよいほど、「実行可能であるか否か」ということが話題となっています。普通に読むならば、どう見ても「不可能だ」と思わざるを得ないからでしょう。かつてわたしが学生だったころ、友人がわたしに「お前はクリスチャンだと言うけれど、右の頬をなぐったら、左の頬を出すのか」と挑んできたことがありました。その時わたしは言いました。「試してみる?だけど、イエス様の言うとおりできなくて、2、3発殴り返したらゴメンな」。――実際その時、私はこのイエス様の言葉が実行可能だなどと微塵も思ってはいなかったのです。

 そのような言葉について、今日の箇所においてイエス様は、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と言っておられるのです。イエス様ははじめから、これが実行可能か不可能かなどということは全く問題にしません。当然、聞くだけに終わらないことを前提として語っておられるのです。

 今日の箇所を読みますと、改めて思います。私たちから見ると不可能としか思えないことが、イエス様の目にはまったく不可能と映っていない。それが良く分かります。つまりイエス様の目には、私たちが見るのとは全く違ったものが見えているのです。イエス様は言われました。「天の国は近づいた」(4:17)。天の国ははるか彼方の遠くにあるのではない。神の支配する世界がもう到来している。神様が来られて全く新しいことを始めておられる。それがイエス様には見えているのです。イエス様の言葉を聞いている人たちは、既に神様の大きな御業の中にあるのです。それがイエス様にはもう見えている。だから人から見て不可能であっても、イエス様の目には不可能ではないのです。

 また、イエス様は言われました。「こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも』」(6:9‐10)。イエス様には、目の前にいる弟子たちがもう神の子どもたちに見えているのです。イエス様の言葉を聞いている人たちは、全能なる神の子どもたちの群れなのです。天に行われていることを地上にも求めることができる神の子どもたちの群れなのです。さらに言うならば、イエス様は御自分がどこに向かい、何を成し遂げようとしているかを知っているのです。イエス様には、御自分が十字架にかかられ、罪の贖いが成し遂げられるその時が来ることが分かっている。いわば、イエス様は、既にそこに罪が贖われた神の子どもたち、もはや天の父との間を隔てるものが何もない、そのような神の子どもたちの姿を見ているとさえ言えるでしょう。ですから、人から見てどんなに不可能であっても、イエス様から見たら不可能ではないのです。

 神の子どもたちは神の子どもたちとして生きることができる。この世にありながら天の民として生きることができる。やられたらやり返すのが当たり前のこの世界にあって、敵を愛するということも起こり得る。世界中が思い悩んでいる時であっても、思い悩みから解放されて生きるということが起こり得る。そうです、イエス様から見るならば、それは全て可能なこと、天の父が望んでいることであるならば、すべては可能なことだったのです。だからイエス様は御自分の言葉によって、神の権威をもった言葉によって、そのような新しい生活へと弟子たちを送り出されるのです。そうです、イエス様はそのような新しい生活へと私たちをも送り出してくださった。それが私たちの信仰生活です。

 それゆえに信仰生活には、常に「不可能への挑戦」という側面があります。いや、そんなまどろっこしい言い方をせずに、「信仰生活とは不可能への挑戦である」と表現して良いかもしれません。私たちから見て不可能であっても、イエス様は可能だと言われるのですから。イエス様が見ておられるように神の国の到来を見、イエス様が見ておられるように自分自身を神の子として見、イエス様が見ておられるように教会を神の子どもたちからなる神の家族として見るならば、そのようにイエス様という存在とその御言葉を信じるならば、私たちはその信仰に基づいて行動すべきなのでしょう。信仰と行為は切り離し得ないものなのです。ヤコブは「行いの伴わない信仰は死んだもの」(ヤコブ2:26)と表現しました。そのように、イエス様が可能であると見ておられるならば、信仰に基づいて私たちもまた不可能に挑戦するのです。例えば、信仰に基づいて、愛し得ない敵を愛することに挑戦するのです。そこに向かって一歩を踏み出すのです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」とはそういうことでしょう。

洪水と風によっても倒れない信仰生活

 そして、私たちは聖書から教えられています。信仰に基づいて行動する時、そこに神の御業は現れる、と。キリストに従って一歩を踏み出す時に、私たちは神の支配をもたらす聖霊の御業を見ることになるのです。先週の聖書箇所を思い起こしてください。先週はヨシュア記6章をお読みしました。イスラエルの民は、主が言われたように、堅固な城壁に囲まれたエリコの周りを回りました。一日一回、六日間回りました。七日目には七周回りました。なぜですか。神がエリコを既にイスラエルの手に渡しておられると信じたからです。どんなに人間の目に不可能に見えても、神が城壁を打ち崩してくださると信じたからです。だから彼らは信仰に基づいて回りました。わたしは先週一週間、エリコの周りを回るイスラエルのことが頭から離れませんでした。彼らの姿を毎日思い起こしていました。七日目に神の御業によって城壁が崩れたとき、「民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した」(ヨシュア6:21)と書かれています。彼らはちゃんと準備をして回っていたのです。重い剣をさげて、重い武具を身につけて回っていたのです。城壁が崩れる時を思い描いて、ちゃんと準備して回っていたのです。彼らは城壁が崩れることを本気で信じて、いわばエリコ攻略という不可能に挑戦したのです。

 イエス様が言っている「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」とは、いわばエリコの周りを回ったあの人々のような人のことなのでしょう。これは決して律法主義的に聞くべき言葉ではないのです。「神の国に入るためには、聞いて行わなくてはならない。行う人にならなくてはならない」ということではない。これは「既に神の国は始まっているのだから、聞いたことは行うことができると信じます」という信仰の行為なのです。そして、私たちもまた確かにエリコの城壁が崩れるようなことを見ることになるのです。

 そして、そのような信仰生活こそ、嵐に耐え得るものとなるのでしょう。そうでなければ嵐に耐え得ない。「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」という言葉は様々な意味に取れます。それはこの世における様々な試練であるとも言えるし、最終的に誰もが直面しなくてはならない自分自身の「死」の問題であるとも言えるし、終わりの日の裁きであるとも言えるでしょう。洪水や風に象徴されるのは、いずれにせよ人間の力が及ばない現実です。人間の力が及ばない現実は襲って来る。そして私たちの存在が根底から揺さぶられるようなその時は来るのです。もし私たちの信仰生活が「イエス様の言葉は聞いて知っています」というだけのものならば、そこで嵐に耐えることはできないでしょう。「イエス様の言葉は言葉として良いけれど、現実には不可能だ。聖書の教えは知っているけれど、現実にはそのとおりには行かないよ。」そのように現実には不可能だと言って、その不可能に挑戦しようともしない。エリコの城の周りを回るような小さなことすら実行しようとはしない。そのような「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」とイエス様が表現される信仰生活であるならば、洪水と風によって倒れてしまうことでしょう。

 洪水と風によって倒れてしまわないのは、イエス様が見ているように現実を見、イエス様が見ているように自分自身を見て生きる信仰生活です。神の国が始まっていること、神の驚くべき大いなる御業の中にあること、私たちはそのような中に生きている神の子どもたちであること。そこに目を向けて、「わたしはイエス様の言葉に従います。神に寄り頼む私たちに不可能はありません」と言いながら生きていく信仰生活です。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった」とイエス様は言われる。そうです。イエス様はそのような信仰生活を与えようとしておられるのです。

 
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