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「和解が実現するために」

2009年6月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章21節~26節

腹を立てる者は裁きを受ける

 今日はびっくりするような言葉が読まれました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(21‐22節)。

 「人を殺した者は裁きを受ける」という部分は分かります。そうでなかったら困ります。しかし、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」となったらどうでしょう。この場合、「裁きを受ける」というのは、地方裁判所での審判の話です。さらに「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡される」と語られています。「最高法院」とはエルサレムにある最高裁判所です。「ばか」と言った人が、実際に最高法院において裁かれるということは、どうも起こりそうにない話です。イエス様の言葉は極めて非現実的とも言えます。

 しかし、ここではユダヤ人にとって裁判が何であるかを考えねばなりません。最高法院の議長は大祭司です。つまり裁判というのは極めて宗教的な行為なのです。単に人間と人間の間の事柄ではありません。それは神の御前において行われるのであり、いわば神の裁きが行われる場なのです。ならばイエス様の言わんとしていることも明らかです。腹を立てたからと言って、実際に法廷で裁かれるわけじゃない。しかし、《神は》裁かれるのです。腹を立てていること自体を裁かれる。人に対して「ばか」と言って罵ったり侮辱したりしても、実際に最高法院に引き渡されるわけじゃない。しかし、《神は》そのことを確かに裁かれるのです。

 もともとこれは「殺すな」という十戒における第六戒の話です。ならば神は人を殺したのと同じように裁かれるという話でしょう。それゆえに、次には「『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」という言葉が続くのです。「愚か者」という言葉は「神を侮る愚か者」という意味合いの言葉です。いわば「お前は神に裁かれて火の地獄に投げ込まれるに相応しい愚か者だ」と言っているに等しい。しかし、イエス様は言われるのです。人を断罪しているあなたの方が神に裁かれるのですよ。「火の地獄に投げ込まれるよ」と。

 厳しい。実に厳しいイエス様の言葉です。また、こういう言葉を聞きますと、どうも反論したくなります。確かに短気は良くない。しかし、怒ることすべてが否定されるのもどうかと思う。正しい怒りもあるはずだ。そもそもイエス様だって、けっこう腹を立てているではないか。神殿において、怒りを露わにして、動物を売る人や両替人を追い出したではないか。また旧約聖書を読むならば、いくらでも怒っている神の姿に出会うではないか。そう言いたくなります。

 しかし、そう言いながらも、やはりどこかすっきりしません。私たちは分かっているのです。自分の怒りはイエス様の怒り、神の怒りと同じではない、と。もし本当に正しいことを求めている正しい人の怒りであるならば、私たちの怒りが本当にそのような怒りであるならば、イエス様の言葉を意に介する必要はないでしょう。神の前で堂々と怒ったらよい。神が裁かれるのですから、本当に正しい怒りなら、また本当に正当な怒りなら、神が正しいと見なしてくれるでしょう。しかし、実際にはそうなってはいないのです。怒っている時には、自分が正しいと思っているものです。自分が間違っていると思いながら怒る人はいません。しかし、神の御前に持ち出されるならば、神が裁かれるとするならば、私たちの怒りはその裁きに耐え得ない。そういうものでしょう。そこには裁かれるべき罪があるのではありませんか。

和解しなさい

 「だから…」と主は話を続けられます。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(23‐24節)。

 ちなみに「だから…」の後の続け方が変だと思いませんか。「腹を立てる者は裁きを受ける」という話をしていたのですから、「だから」となれば、「だから、怒りを捨てなさい」と続くと思うでしょう。しかし、イエス様はそう言われない。「怒りを捨てなさい」じゃなくて「仲直りをしなさい」なのです。「和解しなさい」ということ。イエス様は分かっておられるのです。片方だけが単純に怒っているということは希であるということを。通常は両方が怒っているものです。たとえ片方が非常に悪い場合でも、相手が怒ればもう片方にも怒りが生じる。「そんなに酷い言い方しなくたっていいのに。こちらにも事情があるのに」などなど。そうやって両者に怒りが生じ、関係そのものが壊れるのです。そして、壊れたまま放置され、壊れた関係が常のものとなる。そうではありませんか。

 イエス様が描写しているのは、そのような姿です。「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら」と言うのですから。「あいつが反感を持っていることなんか、気にしてられるか!あいつとわたしはもう関係ない!」そうやって放置してきたということでしょう。そうやって壊れた関係を忘れて生活してきたのです。しかし、それをふと思い出させられる。どこにおいて?「祭壇に供え物を献げよう」とする時です。神を礼拝する時にです。

 今日の第一朗読では申命記26章をお読みしました。祭壇に供え物を献げる時の話です。地の実りの初物を献げるのです。そこで主の救いを思い起こすのです。今あるを得ているのは、ただ神の恵みによるのだということを思い起こすのです。そして、神を誉めたたえるのです。そのように神の恵みを思い起こして礼拝する時に、また神が思い起こさせてくださるのです。そのように神の大きな恵みにあずかっていながら、互いに赦し合うことなく敵対している関係。互いに反感を抱きながらそのままにしていること。

 特に「兄弟」と繰り返し語られています。肉親の話ではありません。同じ信仰を持つ兄弟です。同じ恵みにあずかっている兄弟です。同じ救いにあずかっている兄弟です。にもかかわらず、互いに反感を抱き続けるということが起こり得る。そのような状態が当たり前になってしまい、それが問題であるということが意識にも上らなくなるということが起こるのです。しかし、祭壇の前で思い起こさせていただくのです。それは本来の姿ではない、と。

 思い起こさせていただいたなら、どうするのでしょう。和解は自然には起こりません。自然に起こるのは忘却だけです。和解には何らかのアクションが必要です。行動しなければ事態は動かない。それは分かっています。そして、たいていは相手が先に行動すべきだと思っているものです。「相手が謝ってきたら」とか「相手が自分の間違いを認めたら」というように。しかし、イエス様は言われるのです。「まず行って兄弟と仲直りをし」と。そうです。「あなたが行くのだ」とイエス様は言われるのです。

 そして、さらに言われます。「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」(25‐26節)。

 「最後の一クァドランスを返すまで」が何を意味するのかは必ずしも明確ではありません。これはこの世の裁判の話というよりも、最終的な神の審判の話であるとも言われます。それはそれで重大な話なのですが、ここにおいてはむしろ前半部分、裁判官に引き渡される前が重要なのでしょう。これは和解の話の続きなのですから、明らかにイエス様が仰りたいのは、「早く和解しなさい」ということです。しかも、あえて「途中で」と言われるのです。訴える人と一緒に道を行くのです。その「途中で」ということです。道は永遠に続くわけではありません。一緒に道を行くのはある限られた期間です。確かに、和解できる機会は永遠に続くわけではないというのは事実です。だから「早く和解しなさい。和解が為しえる時にしなさい」と言われるのでしょう。

十字架にかかられた御方の言葉として

 さて、「殺すな」という十戒の第六戒の話から始まりまして、怒りの話へと進み、さらには和解しなさいという話に至りました。ここで私たちは特に二つのことを心に留めたいと思います。第一に、神様は私たちが「殺すな」という戒めのレベルに留まることを望んではおられないということ。「人を殺した者は裁きにかけられる。だから殺しません。」そんなところに私たちが留まることを主は望んではおられない。さらに広く言うならば、「戒めは守ります。悪いことはしません。それでいいんでしょ」というところに、留まることを主は望んでおられない。特に「兄弟」同志が、信仰の共同体が、教会がそのようなものとなることを主は望んでおられないということです。そうではなくて、破れた関係が積極的に繕われていくこと、そこで和解が起こり、関係の回復が起こっていくこと、愛と信頼が回復していくこと、そのように私たちが自ら行動するようになることを主は望んでおられるのです。「殺すな」ではなく、「和解しなさい」なのです。

 そして第二に、この言葉を語られたのが、他ならぬイエス様であるということ。私たちの怒りが神の裁きのもとにあることを主は語られました。言い換えるならば、怒りという形で現れる、私たちの主張する自分の正しさが、神の御前では全く通用しないことを主は語られたのです。私たちの正しさが、真に正しい神の裁きに耐え得ないということを主は語られたのです。しかし、そのように語られる御方はまた、正しい神の裁きから私たちを救うことのできる御方でもあるのです。

 私たちの正しさの主張、私たちの怒りの中にさえ存在する私たちの罪を、イエス様は十字架の上で贖ってくださいました。全く正しくもない私たちがお互いに自分の正しさを主張し合うただ中で、主は私たちの罪を背負われて、いわば「悪いのはわたしです」と言って神の裁きを引き受けてくださったのです。罪を代わりに背負われたとはそういうことでしょう。そのイエス様が、十字架のみもとに集まった私たち、祭壇の御前において主の恵みを思い起こし、主の恵みを誉めたたえるために集まった私たちに言われるのです。怒りをもって振り上げた正義の拳を降ろして、和解しなさい。和解は他のだれかから起こるのではない。あなたから起こるのだ。あなたが行きなさい。そう主は語りかけてくださっているのです。

 
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