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「まだ終わってはいない」

2009年5月10日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記 2章11節~24節

 本日の第一朗読では出エジプト記が読まれました。ここにはエジプトの奴隷であったヘブライ人、すなわちイスラエルの民が神によって解放され、エジプトから脱出するという物語が書かれています。その立役者となるのはモーセという人物です。彼はヘブライ人でありながら、エジプトの王女の子として育てられた人です。どうしてそうなったのかは2章前半に書かれていますのでお読みください。後に偉大な指導者として全イスラエルを率いることになるモーセ。彼はエジプトにおいてどのような教育と訓練を受けたのでしょう。どのようにして人の上に立つために必要となる能力を身につけたのでしょう。不思議なことに聖書はこのことに関しては全く沈黙しています。モーセがエジプトから何を受け、何を身につけたかについて、全く関心がないかのようです。その代わりに、聖書は一つの事件を伝えます。モーセによる殺人死体遺棄事件です。その結果、彼はミディアンの地に逃亡することになるのです。今日お読みしたのは、そのような箇所です。

戦いの開始

 11節を御覧ください。「モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た」と書かれています。モーセが外を散歩をしていたら、偶然イスラエル人が重労働に服しているのを見た、ということではありません。たまたまヘブライ人が打たれているのを目撃してしまった、ということではありません。そのようなことは、エジプトにおいては日常茶飯事であったに違いないのですから。これまでに幾度も目にしているはずなのです。モーセがいくら宮廷の人間として育ったからと言って、成人するまでそのような社会の現実を知らなかったということはあり得ないでしょう。

 これはあくまでもモーセがある特別な意志をもって「同胞のところへ」出て行った時の話なのです。エジプト王女の子として育てられたモーセが、エジプト人ではなく、ヘブライ人として、彼らの同胞として、あえてヘブライ人のもとに行ったのです。エジプト人として王宮で暮らしていれば、一生彼らの苦しみに目を向けないで、彼らの苦しみとは無関係に生きることだってできたはずなのです。しかし、モーセはそうしなかった。ある日、モーセはあえてヘブライ人として、同胞として、その苦しみに目を向けるつもりで出て行ったのです。

 ですから、この事件もまたモーセの衝動的な殺人であると考えてはなりません。偶然に同胞が打たれているのを目撃して、ついカッとなってエジプト人を殺してしまった、ということではないのです。少なくとも聖書はそのように出来事を伝えてはおりません。彼は冷静にあたりを見回し、誰もいないことを確かめています。さらに言えば、彼は人を殺した後、短時間の内に死体を隠匿しています。それは穴を掘りやすい砂地でなくてはなりません。ですから「死体を砂に埋めた」と書かれています。そのように死体を埋めやすい場所かどうかも冷静に確認しているのです。

 このように、これらすべてはモーセの意志的な行為なのです。出て行ったことも、見たことも、そして打っていたエジプト人を殺したことも。ならばそのモーセの意図は何だったのでしょうか。

 今日の第二朗読では使徒言行録に記されているステファノの説教をお読みしました。このモーセの物語が教会においてどのように読まれていたのかが良く分かります。こう書かれていました。「四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです」(使徒7:23‐24)。

 「兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました」。要するに、彼はイスラエルの民の救済のために立ち上がったのです。長い苦悩の末の決断だったのでしょう。ついに彼はエジプト王女の子であることを捨てて、どこまでもイスラエルの民の同胞として苦しみを共にする決断をしたのです。抑圧されている者の救済と正義の実現のために、神の御前に自分の持てる全てを捨てる覚悟をもって、その第一歩を踏み出したのです。

ここからが本当の始まり

 さて、モーセの決断はどのような結果を生みだしたでしょうか。先に引用しましたステファノの説教は次のように続きます。「モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました」(使徒7:25‐29)。

 モーセは、彼の開始した闘争を理解し、戦いに加わってくれる同志を求めていたに違いありません。しかし、彼を理解してくれる人はいませんでした。無理もありません。同じヘブライ人でありながら、皆が苦しんでいた時にモーセだけは労役を課せられることもなく、むしろエジプト王家の人間として宮廷の豊かさの中に生きてきたのですから。ヘブライ人たちにとって、モーセは所詮エジプト人の一人でしかなかったのです。仲間争いをしていたヘブライ人たちの一人が語ったように、彼らはモーセがヘブライ人の指導者となるべき人間だとは認めていませんでした。

 しかも、重大なことが明らかになります。まだ戦いの同志を得ないうちに、彼の殺人が翌日には人の知れるところとなっていたのです。彼は反逆者としてファラオに追われる身となりました。ヘブライ人たちの救済どころではありません。自分の命を守るために、彼は逃亡生活を余儀なくされたのです。

 失敗でした。挫折です。彼の払った大きな犠牲も、人々のために身を捧げた行為も、すべて無駄になってしまいました。彼としては純粋にイスラエルの民の救いを願って起こした行動だったのです。もちろん、彼の犯した殺人そのものが肯定され得るわけではありません。しかし、決して私利私欲のために動いたのではありません。人々から感謝されることすら求めてはいなかったに違いありません。献身が不徹底であったわけでも、努力が欠けていたわけでもありません。なのに、誰からも支持されず、理解もされず、いわば大きな負債だけが残ってしまった。彼はそれを虚しく一人で背負って生きていかなくてはならないのです。

 モーセはミディアンの地に逃れました。そこで出会った娘たちを助けたことをきっかけに、祭司レウエルのもとに身を寄せることになりました。それにしても、助けられた娘たちの言葉が実に悲しく響きます。皮肉にも彼女たちはこう言ったのです。「一人のエジプト人が羊飼いの男たちからわたしたちを助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました」(19節)。そうなのです。そこに惨めな姿で逃れてきたのは、結局はヘブライ人になれなかったモーセ、同胞とは認めてもらえなかったモーセなのです。

 彼は一人のエジプト人としてミディアンで寄留の生活を始めます。そして、聖書はこう語ります。「それから長い年月がたち」(23節)。――どれくらいでしょうか。実に、次にモーセが登場するのは、モーセが八十歳の時なのです。表舞台に出ぬまま、長い長い年月が過ぎてしまいました。そして、失われた日々は決して戻っては来ないのです。モーセの若さも失われました。モーセの力も大方失われてしまっていたことでしょう。いや、長い年月が過ぎるまでもなく、モーセの中では、ミディアンに逃れてきたあの四十年前に、既にすべては終わっているのです。あの決定的な挫折において、もう終わっているのです。人の目にはそうとしか見えない。モーセにもそう見えている。

 しかし、神は言われるのです。「いや、まだ終わってはいないよ」と。人の目に終わりに見える時が、実は神にとっては始まりなのです。神は終わったように見えるモーセを、新たに召し出されるのです。神の壮大な計画を実現するために。それが続く3章に書かれていることです。すべては準備に他なりませんでした。大きな挫折も、無駄に潰えてしまったと思える多くの日々も、すべては準備に他なりませんでした。神はしばしば人間が頼りとするものを、人間が誇りとするものを、準備の中で打ち砕かれます。時として、若さも能力も情熱も、さらにはすべてを捧げる献身の思いさえも、打ち砕かれるのです。その人が自分の力や熱情によって神のために何かを成し遂げるのではなく、神の愛と憐れみと熱情がその人を用いて何かを成し遂げるために。

 本日の福音書朗読はヨハネによる福音書21章でした。ペトロが復活したキリストにより使命を与えられる場面です。主はペトロに言われます。「わたしの羊を飼いなさい」。彼は教会の牧者としての務めを託されるのです。そこには、かつてのペトロの姿はありません。かつてキリストが十字架にかけられる前、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)と宣言したペトロ。一番弟子を自認し、他の誰よりもイエスを愛していると自負していたペトロ。そのペトロにイエス様は言われたのです。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(同38節)。そして、その通りになりました。大きな挫折。ガラガラと崩れた自信。自分の愛や熱情さえももはや当てにならなくなってしまった。そんなペトロをイエス様は再びお召しになり務めを与えられたのです。砕かれることは必要な備えでした。ペトロが自分の力や熱情によってキリストのために何かを成し遂げるのではなく、キリストの愛と憐れみと熱情がペトロを用いて何かを成し遂げるために。

 主はそのようにして、私たちをも備え、整え、用いられます。人の目から見て終わりに見えても、望みを失ってはなりません。主は言われます。「まだ終わってはいないよ。いや、ここからが始まりだ」と。モーセがそうだったように。ペトロがそうだったように。

 
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