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「五つのパンと二匹の魚」

2009年3月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 14章13節~21節

主は憐れまれた

 今日の聖書箇所の直前には、洗礼者ヨハネがヘロデによって無惨にも首をはねられて殺されたことが書かれております。そして、その知らせがイエス様のもとに届けられます。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」(13節)と書かれています。深い悲しみと痛みを覚えつつ、主はひとりになって祈るために人々のもとを離れたのでしょう。しかし、主が舟に乗って出て行かれたことを耳にすると群衆は湖畔を歩いてイエス様の後を追いかけ、先回りして待っていたのです。そこで、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」(14節)と書かれております。

 主の憐れみの眼差し――今日の聖書箇所全体を貫いているのはこの眼差しです。男だけを数えても五千人の数に上っていた大群衆。主は彼らを《見て》、深く憐れまれた、と書かれています。いったい主の目に映っていたのは何でしょうか。「その中の病人をいやされた」とありますように、そこには病人がいました。病人を連れてきた病人の家族がいました。彼らの苦しみは、ただ病気であること自体の苦しみではありませんでした。病気になると、特に「汚れている」と見なされる病気になると、それは罪を犯したからだ、と言われます。両親が罪を犯したか、本人が罪を犯したか。そうささやかれます。長く続く病気や不治の病であるならば、その家は呪われていると見なされたのです。彼らは神から嫌われている、見捨てられていると見なされていたし、自分たちもまたそう思っていたのです。

 その他にも、イエス様についてきた人たちの中には、宗教家たちから「罪人」と見なされている人たち、ユダヤ人の戒律社会からはじき出された人たちが大勢いたのです。彼らもまた、神から忌み嫌われていると見なされていたし、自分でもそう思って生きてきたのでしょう。神は律法を遵守している《優等生》には恵み深くあるかもしれないけれど、自分みたいな人間を顧みてくれるはずがない。救ってくれるはずがない。神の国は自分とは無関係。神と自分はもはや関係ないし、関係があったとしても、所詮厳しい裁きの対象でしかない。そう思っていたのです。

 かつてダビデはこう歌いました。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。…死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩編23:1、4)と。確かに、羊飼いに愛されていることを知っているならば、どんなにたとえ病気であっても、辛いことがあっても、生きていけるのでしょう。そのような羊飼いに導かれていることを知っているならば、どんなに今歩いているところが暗くても、光に向かっているという希望をもって生きることができるのでしょう。たとえ死の陰の谷を行く時も、災いを恐れずに生きていけるのでしょう。

 しかし、イエス様が見ていたのは、もはや「主はわたしの羊飼い」と言えなくなってしまった人たちでした。羊飼いから見捨てられていると思っていた羊たちでした。ですから、マルコによる福音書の方にはこう書かれているのです。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、《飼い主のいない羊のような有様を》深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6・34)。それゆえに彼らの中にいる病人をいやされたのです。もちろん、男だけでも五千人に膨れ上がった群衆の中のすべての病人をいやすことはできなかったでしょう。しかし、「その中の病人をいやされた」。なぜでしょうか。彼らを本当に生かすことのできる、まことの羊飼いなる神が、彼らに恵み深く臨んでくださっていることを現すためです。あなたたちは見捨てられてなんかいないよ。あなたたちは忌み嫌われてなんかいないよ。あなたたちは愛されているよ。神の国はあなたたちのものだ、と。彼らのただ中でなされた病気のいやしは、神が憐れみをもって関わり、彼らもまた神の国に招かれていることを示すしるしだったのです。

あなたがたが与えなさい

 イエス様が群衆と共に過ごしていますうちに、既に夕暮れになりました。弟子たちは、イエス様のもとに来てこう言いました。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」(15節)。弟子たちの提案は実に理にかなったものでした。しかし、主は彼らにこう言われたのです。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(16節)。

 さあ、大変です。これまで、群衆と向き合っていたのはイエス様でした。飼う者のない羊のような有り様に真に心を痛めて憐れみの眼差しを向けていたのはイエス様だけでした。彼らに神の国を語り、彼らの中の病人を癒し、彼らには羊飼いがいること、神が愛してくださっていることを示していたのはイエス様だけでした。しかし、今度は弟子たち自身が、人々と向き合うようにと押し出されたのです。「《あなたがたが》彼らに食べる物を与えなさい」と。

 そこで彼らは、初めて自分たちの貧しさに直面せざるを得なくなりました。それまで、彼らは意気揚々と、「わたしはイエスの弟子である」と胸を張って言っていられたのです。あの十二弟子などは、それこそ「我々は選び抜かれた十二人である。弟子たちの中でも、特に主のみそば近くに置かれている者である」などと考えていたことでしょう。しかし、群衆と向き合わされて、彼らは自分たちの持っているものでは、どうにもならない現実に直面することになりました。彼らはこう叫ばざるを得ませんでした。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」(17節)と。

 教会が教会内のことだけを考えている限り、自分たちがいかに貧しいかなどということは、ほとんど考えませんし、さして問題にもならないものです。しかし、私たちがまことの羊飼いを見失ったこの世界とその悲惨な現実のただ中に存在していることを自覚するや否や、たちまちその貧しさに直面せざるを得なくなります。私たちが自分の周りの人々に主によって遣わされていることを自覚し始めるや否や、たちまちその貧しさに直面せざるを得なくなります。他の人間のことなんてどうでもいいと思っているうちは、自分の貧しさは問題にならないのです。しかし、誰かにどうしても関わらざるを得なくされた時、イエス様によってそうされた時、私たちは気付かされるのです。手元にはパン五つと魚二匹しかない、と。

 しかし、今日お読みした聖書箇所は私たちに一つの大事なことを指し示しているのです。パン五つと魚二匹を手に途方に暮れている弟子たちと共にイエス様が立っておられる、ということです。もともとイエス様はご存じなのです。彼らがほとんど何も持ち合わせていないことをご存じなのです。そこで主は弟子たちにこう言われました。「それを《ここに》持って来なさい」(18節)と。「ここに」――どこに?もちろん、共におられるイエス様のもとにです。

 そして、主はその「五つのパンと二匹の魚」を取って、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて再び弟子たちにお渡しになったのです。弟子たちは、他ならぬ《そのパン》を主の手から受け取って、群衆に与えたのでした。そして、聖書の伝えるところによれば、「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった」とのことです。彼らは食べて満腹して喜んだのです。

 いったい、そんなことがあるものか。どうしてそんなことが起こり得るか。そう思う人がいても不思議ではありません。実際、どのように事が起こったのかは、良く分かりません。しかし、この物語において、一つだけはっきりしていることがあります。それは、群衆が満たされたとするならば、それは明らかに《弟子たちに由来するものによってではなかった》ということです。弟子たちがもともと持っていたものによるのではなく、キリストに由来するものによって、群衆は満たされて神の国の喜びを味わったのです。弟子たちはただ運んだだけです。

キリストを携えて

 さて、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」。そう書かれていました。実は、この福音書を読み進んでいきますと、もう一度、この言葉に出会うことになります。それは26章に見る最後の晩餐の場面です。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(マタイ26:26‐28)。そのように、ガリラヤの草の上でパンを裂いて渡されたイエス様は、再び弟子たちにパンを裂き、「これはわたしの体である」と言って渡すことになるのです。

 「これはわたしの体である」と言ってパンを裂かれたイエス様。その言葉のとおり、主はパンだけでなく、自分自身をも裂いて渡してしまうおつもりだったのです。そして、そのとおりになりました。その翌日、主は十字架にかけられて死なれました。その肉体は、打ち付けられた釘によって裂かれ、槍に刺された脇腹から尊い血が流されました。その流された血は、主が語られたように、罪が赦されるように、多くの人のために流された血でありました。イエス様は、私たちの罪を贖うために、十字架の上で死なれたのです。何のためでしょう。私たちが罪を赦された者として神の国への招きに応えられるようになるためです。私たちが「主はわたしの羊飼い」と再び語り得るようになるためです。そして、もう二度と「わたしは見捨てられている」などと言わないようになるためです。

 今日の聖書箇所が伝えるパンの奇蹟は、後にキリストの十字架において実現することを指し示すしるしに他なりませんでした。やがてキリストが自らを裂いて、血を流して、その命を人々に渡される。そのキリストを受け取って、神様との交わりの中に回復されて、はじめて人々は本当の意味で満たされることになる。残りを集めたら十二の籠が一杯になるほどに、人々は満たされることになる。――パンの奇跡は、そのことを示すしるしだったのです。ですから教会はこの物語を大切に伝えてきたのです。聖餐のパンとぶどう酒と共にこの物語を伝えてきたのです。

 先にも申しましたように、二匹の魚と五つのパンを携えて呆然としている弟子たちの姿は、教会の姿でもあります。自分自身の余りの貧しさに立ちつくしている弟子たちの姿は、今日のキリスト者の姿であるに違いありません。しかし、それで良いのです。自分の持っているもので人を救うことができる、自分の力で人を生かすことができるなどと思い上がっているよりは、よほどその方が良いのです。なぜなら、自らの貧しさと無力さに打ちのめされる時にこそ、本当に携えていくべきものが見えてくるからです。それは私たちがもともと手元に持っている貧弱な何かではないのです。私たちはキリストから受け取って、それを運ぶのです。それが教会の務めなのです。キリストが自らを裂いて手渡してくださったキリスト御自身、キリストが流してくださった贖いの血こそ、教会は運んで手渡さなくてはならないのです。まことの羊飼いなる神を失ったこの世界が本当に必要としているのは、キリストの流してくださった贖いの血潮だからです。キリストによる罪の贖いと新しい命だからです。

 
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