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「子供には見えていた」

2009年2月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 21章12節~16節

 今日の福音書朗読の直前には、イエス様がエルサレムに入城された様子が記されています。大勢の群衆がエルサレムへと上るイエス様の旅に同伴していました。そして、ついにエルサレムの門が見えたとき、人々の期待は一気に高まり、その熱狂は頂点に達します。人々はイエス様に期待をかけていたのです。この御方こそエルサレムを異邦人の支配から解放してくれるに違いない。イスラエルをローマ人の手から救ってくださるに違いない。失われたダビデの王座を回復し、イスラエルを建て直してくださるに違いない。ついに時が来た!皆、そう思っていた。だからある者は自分の服を道に敷き、また、ほかの者は木の枝を切って道に敷き、前を行く者も後に従う者も口々にこう叫んでいたのです。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(9節)と。

 このようにして、ついにキリストはエルサレムに入られたのでした。しかし、マタイによる福音書は、その直後に今日朗読した出来事を記しているのです。エルサレムにおいて救いと解放を求める人々が最初に目にしたのは、救いを約束する感動的な言葉をもって人々の熱狂に応える政治的な解放者の姿ではありませんでした。そうではなくて、イエス様はまず神殿の境内において売り買いしていた人々を追い出し始めた。両替人の台をひっくり返して、こう叫んだのです。「こう書いてある『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(13節)。まず人々が目にしたのは、そのようなキリストの姿だったのです。

祈りの家を強盗の巣にしている

 神殿の境内において、人々が売り買いしていたのは犠牲として献げる動物でした。ここには「鳩」だけが出て来ますが、お金のある人は牛や羊を献げます。神様への献げ物ですから、傷のないものでなくてはなりません。それは律法に定められていることです。祭司の検査を受けて合格したものでなくてはなりません。ですから、既に検査を済ませてある動物が売られていたのです。それは巡礼者が律法に従って礼拝を行うためでした。両替人がいたのも同じ理由です。献金をするならば、それはユダヤの半シェケル銀貨をもって献げなくてはなりませんでした。これもまた律法の定めです。しかし、実際には半シェケル銀貨など一般には用いられていないのです。流通しているのはローマの貨幣なのですから。ですからユダヤの古い半シェケル銀貨に替えてあげる人が必要です。それが両替人です。彼らの商売もすべてモーセの律法のとおりに礼拝を行うためでした。

 「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と書いてある。そうイエス様は言われました。「祈りの家」。そうです、神殿は祈りの家であり礼拝の家です。そこで動物が売られ、両替がなされていたこと自体には何も問題ありません。彼らが、神を思い、礼拝者を思い、礼拝のために仕えている光栄と誇りを保持していたならば、神殿は彼らにとって祈りの家であり続けたことでしょう。しかし、そうなっていない。イエス様はその事実を見ていたのです。彼らはもう礼拝のことなど考えていなかった。神のことなど思っていなかった。商売にしか関心がなくなれば、儲けにしか関心がなくなれば、もはやそこは「祈りの家」ではありません。

 これは後に出て来る祭司長たちについても同じことが言えます。彼らは神殿側の人間です。神殿当局は商売人たちに境内を提供しています。売り上げの一部は神殿に入ってくるシステムになっていました。巡礼者が多い祭りの時などは、当然、神殿に入ってくる収入も多くなるでしょう。祭司長たちが、もはや神のことを思わず、神殿で行われる礼拝そのものに関心を寄せるのでもなく、巡礼者の数とそれによる収入のことにしか関心が向かなかったらどうでしょう。神殿側の人たちにとっても、そこはもはや「祈りの家」ではありません。

 「祈りの家」であるはずの場所が、もはや「祈りの家」となっていない。讃美されるべき御方が讃美される場所ではない。人間の欲求の充足のために神の名前が利用されているだけの場所でしかない。神様のことではなく、自分が何を得られるかということにしか関心がない。ですからイエス様はかつてエレミヤが用いた過激な言葉でその状態を表現したのです。「あなたたちは、それを強盗の巣にしている」と。

 この福音書の伝えるところによれば、これがエルサレムにおいて救いと解放を求める人々が最初に見たキリストの姿です。人々は、問題はローマ人の支配にあると見ていました。問題は彼らを取り巻く政治的な状況にあると見ていました。自分たちを抑圧し苦しめている悪は自分たちの外にあると思っていました。だからこそ解放を求めていたのです。しかし、イエス様の姿は別なことを物語っていました。本当の問題はローマ人の支配にあるのではない。彼らと父なる神との関係にあるのだ、ということです。本当に向かうべき御方に向かっていない。礼拝すべき御方を礼拝していない。信じるべき御方を信じていない。愛すべき御方を愛していない。最も大事な関係が壊れている。そこに問題があるのです。そうです。問題は周囲の世界にあるのではない。神との間にあるのです。

 しかし、イエス様は過激な行動をもって問題を明らかにしただけではありません。その後に短くこんなことが書かれています。「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」(14節)。これは実に象徴的な出来事でした。目の見えない人や足の不自由な人たち。彼らは境内までしか入ることが許されていませんでした。いわば彼らは神殿の礼拝から排除されてきた人々です。ですから、そのような人々の目や足がキリストによって癒されたことは、単に肉体的な苦しみが取り除かれたこと以上の意味を持っていたのです。すなわち、礼拝者として回復されたということです。イエス様の御業によって現されているのは神様の憐れみに満ちた招きの御手です。そうです、神様はなおも憐れみをもって招いておられる。礼拝へと祈りへと、神様との愛と真実に満ちた交わりへと招いておられるのです。

 そのような神の憐れみが現されたのは、なにもこの場面が最初ではありません。これまでイエス様が多くの人々を癒してこられたことも、またイエス様が徴税人や罪人たちと共に食事をされたのも、神の憐れみに満ちた招きのしるしでありました。そして、私たちが神に向き、神との交わりに生きられるように、最終的に主は十字架の上で罪の贖いの犠牲として死なれることとなるのです。こうして神の愛と招きが完全に現されることになるのです。

子供たちに見えて大人に見えなかったこと

 さて、このようなイエス様のお姿に対する反応は二通りに分かれました。一方にいるのは子供たちです。子供たちは境内で叫んでいました。「ダビデの子にホサナ」。メシアとして、救い主として、イエス様を誉めたたえ続けていたのです。しかし、もう一方には怒っている人たちがいました。祭司長や律法学者たちです。「他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、『ダビデの子にホサナ』と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。『子供たちが何と言っているか、聞こえるか。』イエスは言われた。『聞こえる。あなたたちこそ、「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」という言葉をまだ読んだことがないのか』」(15‐16節)。

 「不思議な業を見」と書いてありますが、これは「驚くべきこと」という意味であって、目の見えない人や足の不自由な人が癒されたことだけを指すのではありません。その前にイエス様がなさった、過激な行動――それこそ「驚くべきこと」――をも含んでいます。彼らはまずそれを見て腹を立てたのです。祭司長たちは不利益を被ることになりました。また、これまでの慣習があからさまに否定されたわけですから、それを認めてきた民の指導者たちも権威を否定されたと感じたことでしょう。しかもその腹立たしい男が目の見えない人の目を癒したり、足の不自由な人の足を癒したりしているのです。自分たちに出来ないことをしているのです。これは実に腹立たしいことです。さらに悪いことに、それを子供たちが見ていた。子供たちがそんなイエス様を見て喜んで讃美しているわけです。民の指導者たちのメンツは丸つぶれです。だから腹を立てたのです。そもそも、この男が人々の「ダビデの子にホサナ」という歓呼の声に包まれながらエルサレムに入城したこと自体、彼らにとっては面白くないことだったのですから。

 子供たちと祭司長や律法学者たち。同じものを見ているのに反応が全く違います。子供たちには見えているのです。イエス様のなさっていることの本質が。「あなたたちは祈りの家と呼ばれるべきところを強盗の巣にしている」と叫んでいるイエス様が、本当のことを言っているということが見えているのです。子供は子供なりに、それまで神殿で行われてきたこと、神様の名前で行われていることに、嘘っぽいものを感じていたのでしょう。細かい律法の規定は守っているけれど、本当に神様に向いてなんかいない、神様との交わりなんか持っていない。そんな大人たちの姿が見えていたのでしょう。その一方で、このイエスという御方を通して、父なる神の慈しみが生き生きと溢れ流れていくのが見えたのでしょう。今まで神殿にも入れなかった人たちが、律法の世界から排除されてきたから実際には守るべき律法をさえきちんと知らないような人たちが、今や本当に生き生きと神を誉めたたえている。その事実が見えたのでしょう。

 そうです。子供には見えるものです。毎月、私たちは子供たちとの合同礼拝を行っています。一緒に礼拝することこそ、子供たちへの伝道であると考えています。子供たちに、礼拝の中に身を置いて、キリストを信じて生きる私たちの間に身を置いて、本当に見るべきものを見て欲しいと思います。そのようにして、子供たちに手渡すべきものをしっかりと手渡したいと思う。しかし、もう一方で、私たちの中に表面だけ信仰的に繕った嘘っぽいものがあれば、子供たちは敏感に感じ取ることでしょう。本当に神様に向かっているのでなければ、礼拝しているのでなければ、子供たちはそれを感じ取ることでしょう。それでは信仰を伝えることはできません。子供たちと共に礼拝する場においては、子供たちのあり方が問われるのではなくて、私たちのあり方が問われるのです。

 あの神殿の境内にいた子供たちには、本当に見るべきものがしっかりと見えていた。だから彼らの間に讃美の声が湧き上がったのです。一方、子供たちに見えていたものが、祭司長や律法学者たちには見えませんでした。どうしてですか。自分が不利益を被ったとか、自分の立場が否定されたとか、メンツを潰されたとか、そんなつまらないことしか考えられずに腹を立てているからです。だからイエス様のなさっていることが分からない。そのような場面がここだけでなく、福音書に繰り返し出て来るでしょう。そこに神の憐れみが現れていても目に入らない。神の招きの御手が伸ばされていても分からない。目の前に神様が事を起こしているのでしょう。しかし、見えない。本当にもったいないことです。しかし、そういうことが大人にはしばしば起こります。そうではありませんか。

 私たちはそのようなところから、本来の私たちに立ち帰らなくてはなりません。私たちは祈りの家へと招かれました。今、私たちは聖餐卓を囲んでここにおります。ここには神様の憐れみに満ちた招きがあります。ここにはイエス様が十字架にかかって与えてくださった救いがあります。そこに目を向けなくてはなりません。問題は私たちの外にあるのではありません。いつでも問題は私たちと神様との関係にあるのです。あの境内にいた子供たちが見ていた方向に、私たちの思いを向けましょう。

 
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