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「人間をとる漁師にしてあげよう」

2009年1月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 4章18節~25節

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:10)。かつてガリラヤ湖畔において主がペトロとアンデレに語られた言葉です。そして、この物語が教会において朗読するたびに、代々の教会が自分たちへの語りかけとして聞いてきた言葉です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。主は今日ここに集まっている私たちにも、そう呼びかけておられます。

わたしについて来なさい

 「わたしについて来なさい」。主はペトロとアンデレに言いました。その時、ペトロとアンデレは湖で網を打っていました。彼らは漁師でした。その彼らに「わたしについて来なさい」と主は言われた。彼らは「すぐに網を捨てて従った」。そう書かれています。主はそこから進んで、別の二人の兄弟、ヤコブとヨハネを御覧になりました。彼らは父と一緒に、舟の中で網の手入れをしていました。イエス様は彼らをお呼びになりました。彼らにも「わたしについて来なさい」と言われたのでしょう。「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。そう書かれています。そのように、「わたしについて来なさい」という言葉と共に、今日の箇所において語られているのは「イエスに従った」人々の姿です。彼らはついて行ったのです。

 今日の福音書朗読はさらに25節までをお読みしました。イエス様が「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(23節)という話です。そこでガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆がイエス様のもとに集まって来たのです。それはそうでしょう。奇跡を聞きつけて人々が集まって来るのは自然なことですから。しかしこの部分にしても、ただ群衆がイエスのもとに来たとだけ書かれているのではありません。「大勢の群衆が来てイエスに《従った》」と書かれているのです。先ほどのペトロやアンデレたちについて書かれていたのと同じ言葉です。

 このように、今日の箇所には人々がイエスに《従った》ことが語られているのです。ペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネはここで初めて登場するのですが、必ずしもこの時がイエス様との初対面であったと考える必要はありません。ルカによる福音書では、イエス様の招きの前に、イエス様がシモン・ペトロの舟に乗ったという話が出て来ます。イエス様が「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。その通りにしたら大漁となった。そんな話です。また、ヨハネによる福音書はそれとは別な経緯でペトロとイエス様が出会った次第を伝えています。そのように、この場面の前に既にペトロもアンデレもイエスのことを知ってはいたのです。イエス様の教えも聞いたことがあったでしょう。しかし、今日の聖書箇所は一つのことを強調していると言えます。彼らはキリストを知っていただけではない。聞いたことがあっただけではない。ある日、彼らは決断して「イエスに従った」ということです。イエスのあとについて歩き始めたのです。

 その後の群衆の話も同じです。彼らは癒されました。解放されました。奇跡を経験しました。それだけならば、「ああ良かった」というだけの話でしょう。しかし、彼らはイエス様が御国の福音を宣べ伝えるのを聞いているのです。「悔い改めなさい」という言葉を聞いているのです。悔い改めるというのは、後悔して改めるということではありません。方向を転換することです。彼らは今まで生きてきたあり方から、方向転換して、イエスに従い始めたのです。

 イエス様を知り、イエス様の御教えを聞き、イエス様の恵みに触れる人がいる。奇跡を経験する人もいることでしょう。しかし、イエス様が求めているのは、従っていく人です。「わたしについて来なさい」と主は言われるのです。イエス様に癒された人たちは少なくなかったはずです。悪霊から解放された人たちも少なくなかったことでしょう。しかし、その延長に今日の教会があるのではありません。そうではなくて、イエスに従った人たちがいた。ある人は網を捨てて。ある人は舟を残して。そうやってイエスに従った人たちがいた。癒されたことを喜んでいるだけでなくて、イエスに従った人たちがいた。その先に、今日の教会があるのです。

 「わたしについて来なさい」。主は今日の教会にも語っておられます。「わたしにはやりたいことが山ほどあるのです。イエス様、必ずわたしのあとについて来て、必要な時には必ず助けてくださいね。」――このようなあり方を「イエスに従う」とは言わないのです。「今の時代はこのような教会を求めているのです。わたしたちはこのような教会を目指しているのです。イエス様、そのような私たちと一緒にいて必ず助けてくださいね」。――このようなあり方を「イエスに従う」とは言わないのです。大事なことは、イエス様がどこに向かおうとしているかなのでしょう。イエス様がどこに私たちを連れて行き、どのように私たちを用いようとしておられるのかでしょう。イエス様を信じるということは、イエス様に従うことです。どこまでもついて行くことです。「わたしについて来なさい」。そう主は言われます。

人間を捕る

 そして、主はさらにペトロとアンデレに言われました。「人間をとる漁師にしよう」。イエス様の目はどこに向かっていますか。「人間」に向かっているのです。イエス様は「人間」に関心を持っておられます。ペトロという一人の人間。アンデレという一人の人間。そして、ここにいる私たち。それぞれ名前を持ち、固有の人格を持ち、それぞれ異なる人生を歩み、それゆえに個々に異なる痛みや悲しみを持つ、そんな「人間」に関心を持っておられます。

 その頃、ユダヤ人たちの中には体制の変革を求めている人々が少なからずおりました。彼らは異邦人であるローマ人の支配が打ち倒され、イスラエルの国家が建て直されることを求めていたのです。そのことを実現してくれるまことの王を求めていました。そのような王の到来を期待してメシアを待ち望んでいました。そのような変革を、武器をもって実現しようとする人たちもいました。熱心党と呼ばれていたのはそのような集団でした。イエス様が歩いておられたガリラヤは、そのような熱心党の運動の拠点でした。

 イエス様に従った人々の中には、そのような熱心党出身者もいました。しかし、イエス様御自身はそのような運動に全く関心を示しませんでした。イエス様が数々の奇跡を行った時、人々はやがてこの人がその驚くべき力をもってローマ帝国を揺り動かすだろうと期待しました。イエス様を王にしようとする動きさえありました。しかし、イエス様は政治的な圧力をかけるために御自分の力を用いようとはなさいませんでした。

 またイエス様に近づいて来る人たちの中には、ユダヤ人の最高法院であるサンヘドリンの議員たちもいました。イエス様に好意的な人々もいたようです。最高法院が動けば、離散のユダヤ人たちをも含め、全ユダヤ人社会が動きます。しかし、イエス様はエルサレムに活動の拠点を置いてサンヘドリンを動かし、ユダヤ人社会の体制や制度を変革しようとはなさいませんでした。そこにイエス様の関心はありませんでした。

 イエス様がいつでも目を向けていたのは人間でした。それは時として誰も目に留めないような一人の貧しいやもめであったり、社会の構成員とは見なされなかった重い皮膚病の人であったり、軽蔑の対象でしかなかった徴税人であったり、そして、ごく当たり前の日常を来る日も来る日も変わることなく送っている漁師たちでありました。イエス様が関心を向けておられたのは、そのような一人一人の人間でした。その人間が神に立ち帰ること、まことの父である神に立ち帰ること、そして一人一人の人間が神の救いに入れられることを求められたのです。

 そして、御自分に従ってくるペトロやアンデレたちを、神のもとに《人間を》すなどってくる漁師にすると言われたのです。彼らは世界を覆す必要はなかったのです。彼らは世界を救う英雄になる必要はなかったのです。彼らはただ目の前の一人一人の人間を追い求めていればよかったのです。それが彼らに託されたことでした。そして、それがキリストに従う私たちにも託されていることです。

 教会はただ漠然とこの世に向き合うのではありません。教会はあくまでも人間と向き合い、個々の人間と関わり続けます。十把一絡げの伝道はしません。ホースで水を撒くような仕方で洗礼を授けることはしません。それぞれ固有の名前を持ち、固有の人生を歩んできた固有の人格と関わり、一人が神に立ち帰ることを求めます。そして、神の救いにあずかる一人のゆえに喜ぶ。それが教会です。個々の人間が視野から消え、人間を追い求めなくなった時、私たちは人間をとる漁師ではなくなります。教会は教会でなくなります。

漁師にしてあげよう

 しかし、主はただ単にそのような「人間をとる漁師になりなさい」、と言っておられるのではありません。イエス様は「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのです。イエス様がしてくださるのです。私たちが人間をとる漁師になることを、誰よりもイエス様御自身が望んでおられる。そして、私たちをそのような者としようとしておられるのです。

 それにしても「人間をとる漁師にしよう」とは、なんと自信に満ちた言葉でしょうか。イエス様はペトロについて自信があるのです。アンデレについて自信があるのです。ペトロがその時どれほどの能力を持っていたか、どれほどの可能性を持っていたか、そんなことはどうでもよいのです。イエス様はペトロという一人の人間を求められたのだし、そのペトロが従ったという事実だけが重要でした。それで十分だったのです。実際、そのペトロはイエス様に従う中で様々な失敗をします。弱さを露呈することになります。しかし、それでもペトロは従っていけばそれで良かったのです。それでイエス様には十分でした。イエス様はその言葉のとおり、ペトロを人間をとる漁師にすることができました。また、イエス様が十字架につけられた後、ユダヤ人を恐れて家の中に隠れていたあの小さな群れを、イエス様は人間をとる漁師とすることができました。そして、後の教会もまた同じです。確かに教会の歴史を見る限り、そこには人間的な弱さや過ちが絶えることがありませんでした。しかし、それでもなおイエス様は「わたしについて来なさい」と語り続け、その呼び声に従った人々によって、教会は人間をとる漁師であり続けたのです。だから今日の私たちがここにいるのでしょう。

 主は私たちにも言われます。「わたしについて来なさい」と。私たちはついて行けばよいのです。私たちが有能であるか無能であるか、若いか年老いているか、元気か病気か、そんなことは関係ありません。教会が大きいか小さいか、若くて元気があるか、高齢化しているか、そんなことは関係ありません。イエス様に従い行くことを放棄することさえしなければよいのです。私たちがついて行くならば、そんな私たちに対して主は自信をもって宣言されます。「人間をとる漁師にしてあげよう」と。

 
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