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「新しい歌を主に向かって歌え」

2008年12月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編 96編1節~13節

新しい歌を主に向かって歌え

 「新しい歌を主に向かって歌え」。本日の第一朗読は、このような呼びかけの言葉から始まっていました。「新しい歌を主に向かって歌え」。もちろん「歌」にも様々な種類があります。その中には嘆きの歌もあります。詩編の中にもそのような歌が見いだされます。確かに嘆きや悲しみは歌を生み出します。新しい歌を生み出します。しかし、ここで語られている「新しい歌」は明らかに嘆きの歌や悲しみの歌ではありません。信仰と希望から生み出された新しい歌です。信頼と希望とをもって献げる新しい讃美の歌。そのような新しい歌を、主に向かって歌え、と呼びかけられているのです。

 しかし、聖書が私たちにそのように呼びかけているということは、もう一方で、私たちは常に喜びと希望をもって新しい歌を歌うことができるとは限らないということでもあるのでしょう。「こんな大変な時に歌なんか歌っていられないでしょう。」「こんなに悲しいのに、歌なんか歌えますか。」そう思える時、確かにあるではありませんか。先週、38歳で亡くなられた方の葬儀をしました。実は、その人のお姉さんがつい一ヶ月半前に亡くなられているのです。お母様はどんなに悲しく辛いことだろうと、胸がつぶれるような思いで司式しました。普通に考えたら、それこそ歌なんか歌っていられる状態ではないでしょう。

 聖書はそのような私たちの現実とは無縁の書物だから脳天気にも「新しい歌を歌え」などと言っているのでしょうか。いいえ、そうではありません。聖書は極めて現実的な書物です。聖書はこの世界が決してエデンの園ではないことをはっきりと語っています。私たち人間は、いわばエデンの園から追い出された者たちであって、呪われた地の上で苦しみながら生きざるを得ない者であるということを、聖書はその始めから語っているのです。この詩編を歌ってきたイスラエルの民も、国家の滅亡を経験した民です。「歌なんか歌っている場合じゃないでしょう」と思える時がある。そんなことは百も承知なのです。

 しかし、それでもなお、いや、そうだからこそ、聖書は私たちに呼びかけるのです。「新しい歌を主に向かって歌え」と。私たちは、どんな時にも主に向かって歌うことを止めてはならないのです。「こんな時に讃美や礼拝どころではないでしょう」と言って、主を礼拝することを止めてはならないのです。なぜなら主に向かうことを止めたなら、私たちは自分自身に向かうしかないからです。あるいは他の人間に向かうしかないのです。そこには人間が与え得る慰め、人間が与え得る希望しか残らない。主に向かうことを止めたなら、そこには人間のできることしか残らないのです。そして、人間のできることで手に負えなければ、それこそ絶望するしかありません。実際に、そうやって主に向かって歌うことを止めて、自分の小さな手を見つめながら、望みを失ったまま立ちつくしている人は少なくないのです。だからこそ、私たちは繰り返しこの呼びかけを聞かなくてはならないのです。「新しい歌を主に向かって歌え」と。

主は地を裁くために来られる

 そのように、信頼と希望とをもって新しい歌を歌い続けるためには、そこで「主に向かって」と書かれていますように、しっかりと主に向かわなくてはなりません。自分の悲しみ、自分の痛み、自分の苦しみ、自分の悩みばかりに向いていたその心を、主に向けなくてはなりません。またやっかいな周りの人々、山積されている未解決の問題、自分を支配し縛りつけている諸々の力にばかり向いていた目を、それらよりも大いなる主に向けなくてはなりません。

 実際に、この詩編が再建された神殿において歌われていた時、彼らの目には動かし難いペルシャ帝国の支配が映っていたことでしょう。ペルシャの繁栄の中にあって、彼らの建てた神殿やそこでの祭儀は、実にみすぼらしく見えたかもしれません。彼らは所詮は一つの被占領民族に過ぎなかったわけですから。しかし、彼らはそんな自分自身に捕らわれてはいません。周りの国々の大きさや繁栄に目を奪われてもいません。もっともっと大いなる御方がおられる。そのような主なる神に向かって歌っているのです。だからこそ希望をもって新しい歌を歌うことができるのです。

 そのような神に心を向けるということは、また終わりに目を向けることでもあります。最後を握っているのは主なる神だからです。「国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる」(10節)。また、「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる」(11節)と書かれています。主がまことの王なのです。主がこの世界を正しく裁かれます。この世界を最終的に正してくださるのは主なる神です。主が結論を出されます。

 このように最終的な結論を下される主に心を向ける時、「今」の見え方が違ってくるのです。神さまがお決めになる「最後」に至るまでは、すべて「途上」のことなのです。途中経過なのです。実際にそうでしょう。私たちが目にしていることは、常にその先に向かっているのです。しかし、それにもかかわらず、私たちは勝手に結論を出してしまうことが多いのでしょう。勝手に終わりを宣言してしまうのです。そして、災いであるとか幸いであるとか勝手に判決を下してしまう。損したとか徳したとか、正当であるとか不当であるとか、勝手に判決を下してしまうのです。しかし、そんなこと、まだ分からないではありませんか。人間がピリオドだと思っても、神さまの目から見るならば一つのカンマに過ぎません。まだ先が続いている。最終的に正しく裁くのは主なのですから。「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる」(13節)。

 そして、最終的に主が裁きをなさる時、それは大いなる喜びの時だと語られているのです。11節と12節に、「喜び」という言葉が繰り返されていることに注目してください。「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ、海とそこに満ちるものよ、とどろけ、野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め、森の木々よ、共に喜び歌え、主を迎えて」(11‐13節)。主が最終的に裁かれる時、それは「海とそこに満ちるもの」や「野とそこにあるすべてのもの」や「森の木々」にとっては、明らかに喜びの時として語られています。神が正しいことをなされる時、そして結論を下される時、それは彼らにとって大いなる喜びの時、救いの時なのです。

 では人間にとってはどうなのでしょう。この罪に満ちた人間の世界にとってはどうなのでしょう。そうです、それが人間にとっても喜びの時となるように、私たちの罪の贖いのためにキリストの十字架がこの地上に立てられたのです。それは「海とそこに満ちるもの」のための罪の贖いではありません。「森の木々」のための罪の贖いではありません。私たちのための罪の贖いです。私たちが終わりの日を、喜びの日、救いの日として見るようになるためです。しかも、私たちは知らされているのです。最終的にこの世界を裁かれる主とは、私たちの罪を贖ってくださったイエス・キリストに他ならない、と。私たちが信仰告白において、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と言い表しているとおりです。

 そのように、かつて旧約の時代にこの詩編96編が歌われていた時以上に、私たちは希望をもって「新しい歌」を主に向かって歌うことができるはずなのです。私たちが目にしていることは全て途上にあるのであり、それは大いなる喜び、救いの完成へと向かう途上にあることを知っているからです。ですから、私たちが何があったとしても、主に向かって歌うことを止めないのです。何があったとしても、こうして集まり、主を礼拝し、主に向かって歌うのです。新しい歌、希望の歌を歌い続けるのです。

 先ほど申し上げました、息子さんを亡くされたお母さん、普通に考えるならば、「こんな時に、歌なんか歌っていられない」と言っても不思議ではないそのお母さん、葬儀の時に、しっかりと歌っていましたよ。主に向かって歌っていました。信仰によって歌っていました。今のこの悲しみが最終的に残るものではないことを知っているからです。亡くなった息子も罪が贖われていることを知っている。自分も罪が贖われていることを知っている。だから、この悲しみは途上に過ぎない。最終的な大いなる喜び、救いの完成の喜び、神の御国の喜びへの途上に過ぎないことを知っている。だから主に向かって歌うことができたのです。そして、今日も私たちと同じこの時間に、主に向かって歌っていることでしょう。

御救いの良い知らせを告げよ

 そして、最後のもう一言。私たちが、「新しい歌を主に向かって歌え」と呼びかけられていること、そして、私たちが新しい歌を主に向かって歌うことを止めないことは、ただ単に私たち自身のためではないのです。それはこの世界のためでもあるのです。イスラエルが希望をもって歌い続けるのは、この世界に希望の光を輝かせるためだったのです。イスラエルは主に向かって歌い、御名をたたえ、御救いの良い知らせを告げるのです。まだ主を知らない諸国民に告げるのです。そのためにこそ、まずイスラエルのその口に、新しい歌が与えられたのです。「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ、諸国の民にその驚くべき御業を」(1‐3節)。そう語られているように、イスラエルは自分たちの救い、自分たちの希望のことだけを考えていてはならなかったのです。

 この世がどんなに希望を失って暗くなったとしても、キリスト者は一緒になって暗くなってはなりません。教会はこの世と一緒になって暗くなってはなりません。私たちは希望をもって歌い続けるのです。そして、神の救いの良い知らせを告げ続けるのです。私たちが信じてこそ、そして希望の生きてこそ、この暗い世界に希望を輝かせるものとなるのです。「新しい歌を主に向かって歌え」「日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ」。

 
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