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「主が共におられる」

2008年11月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 39章19節~23節

主はヨセフと共に

 今日は創世記39章の最後の部分をお読みしました。この章は「ヨセフはエジプトの連れて来られた」(1節)というところから始まります。そして、ファラオの宮廷の役人で侍従長のポティファルという人に買い取られ、彼の家の奴隷となりました。

 ヨセフはもともと遠く離れたヘブロンにある父の家に住んでいたのです。彼には十人の兄たちがいました。しかし、年寄り子であったヨセフは、兄弟の誰よりも可愛がられ、父親の寵愛を一身に受けて育ったのです。父は彼だけに「裾の長い晴れ着を作ってやった」と書かれています。そんなことをしていれば家庭は確実に歪みます。兄たちはヨセフを妬み、そして憎みました。破局が訪れるのは時間の問題でした。そして、ついに悲劇が起こります。羊を飼の世話をしている兄たちの様子を見るために父から遣わされたヨセフを、兄たちは殺そうと図るのです。結局、ヨセフは殺しはしなかったものの、着ていた例の「裾の長い晴れ着をはぎ取られ、穴に投げ込まれてしまいました。そして、たまたま通りかかったイシュマエル人の隊商に売り飛ばされ、エジプトにまで連れられてきたのです。こうしてヨセフはエジプトの役人の奴隷になったのでした。

 ほんの少し前までは父親のもとで裾の長い衣をまとって何不自由ない生活をしていた人が、今や言葉も通じない異国において、しかもお金で買われた奴隷となっているのです。そして、挙げ句の果てには、今日お読みした箇所においては、無実の罪を着せられて投獄されるところにまで転落しているのです。なんという落差。なんという激変でしょう。

 しかし、改めて考えてみますと、このような生活の激変を経験した人は聖書の中において決して珍しくはないのです。そもそも、聖書における最初の登場人物とも言えるアダムとエバからしてそうなのです。エデンの園における生活から、一転して園から追い出された者の生活へと移されてしまった。この最初の事例こそ、生活における最大の激変とも言えるでしょう。

 そして、もう一つ明らかなことは、確かにこのヨセフのケースは極端であるとは言えますが、このような生活の激変は誰の人生においても起こり得ることだ、ということです。いや、むしろ生活における激変を経験しないで一生を送る人の方が希であるとも言えるでしょう。ある場合には天変地異によって。ある場合は家族が病気になったり亡くなったりすることによって。ある場合には人から騙されたり、事件に巻き込まれることによって。ある場合には国家の体制が崩壊することによって。実際に、ここにおられる方々の多くは戦中・戦後という激変を経験してこられた方でしょう。その意味では、聖書は極めて現実的な書物だと言えます。この世に生きているならば、ある日突然生活が変わってしまうということは、いつでも起こり得る。転落することもあり得る。その現実を聖書は憚ることなく私たちに突きつけます。

 そのようにヨセフもまた、この世に生きる人として、大きな転落を味わうことになりました。さて、そのような出来事に遭遇する時、人は何を思うのでしょうか。「わたしは神に見捨てられた」と思う人がいるかもしれません。「神さまなんているものか!」と毒づく人がいるかもしれません。実際、ヨセフが経験したのは、まさに「神も仏もあるものか」と言えるような出来事ではありませんか。しかし、39章を読みますと、繰り返し繰り返し次のような言葉に出会うのです。「主がヨセフと共におられ…」。このように聖書ははっきり語っているのです。神さまなんているものか、と思えるような現実のただ中において、確かに《主は共におられた》と。そして、主が共におられるゆえに、ヨセフはポティファルの家に祝福をもたらす者となっていたのです。そうです。主が共におられるならば、人はどのような状況に置かれようと、そこにおいて祝福をもたらす者となることができるのです。

ヨセフは主と共に

 そのように、「《主は》ヨセフと共におられた」。そして、それはまた、「《ヨセフは》主と共にいた」ということでもあるのです。そのことを大変よく示しているのがこの章に書かれている出来事です。

 「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた」(6節)。そう書かれています。しかも、若くして家の管理やすべての財産を任されていた。それはすべて神さまの計らいによるのですが、この世的に見るならば、実に頼りになる有能な人物であったということでしょう。そのような若いヨセフに目をつけたのが、主人であるポティファルの妻でした。彼女はあからさまにこう言ったのです。「わたしの床に入りなさい」と。

 このような直接的な表現が当たり前のことのように用いられており、しかもそれが繰り返されているところから見て、高位の役人の妻が好みの奴隷をわがものとすることは、当時のエジプトにおいて決して珍しいことではなかったのでしょう。奴隷としましても、主人の妻に気に入られることは立場的にも極めて有利に働くことになるのです。かえって夫人の求めを拒否して機嫌を損ねるようなことにでもなれば、それこそどんな仕打ちが待っているかもしれません。ということで、ポティファルの妻もヨセフが自分の要求に従うことが当然であるかのように考えていたのでしょう。

 しかし、ヨセフは彼女の求めを拒否したのです。ヨセフは言いました。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(8‐9節)。この最後の言葉が重要です。ポティファルの妻の言葉に従うこと。それは「神に罪を犯すこと」だと言っているのです。

 エジプトでの奴隷生活は、いわば突然の転落によって強いられた生活でありました。しかし、そのような強いられた生活を、ヨセフは明らかに、神の御前にあるものとして意識して生きていたのです。人生が思わぬ方向に進んで行った時、神を恨んで、神を呪って、神に背を向けて、神を意識の外に追い出して生活するという選択肢も当然あるわけでしょう。しかし、ヨセフはそうしなかった。あくまでも彼は主の御前にあることを意識して生活し、神を見上げて生きることを選んだのです。

 そのことが良く分かる、もう一つの出来事が続いて書かれています。 彼女は毎日ヨセフに言い寄りました。しかし、「ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった」(10節)と書かれています。特に「共にいることもしなかった」というのは、ヨセフができる最大限のことだったのでしょう。誘惑に陥るのは、往々にして弱い人ではありません。むしろ強い人です。正確に言えば、強いと思っている人、弱さを自覚しない人です。ヨセフは自分の弱さを十分に自覚していた。だから誘惑そのものから一生懸命に遠ざかったのです。「一緒にいるぐらいならいいだろう」とは思わなかったのです。

 しかし、それでもなお一つの事件が起こりました。「こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『わたしの床に入りなさい。』ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。『見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました』」(11‐15節)。

 そして、彼女は主人が帰ると事の顛末を報告し訴えたのです。この言葉を聞いて主人は怒ったことが書かれています。当然でしょう。しかし、ヨセフにはいくらでも弁明をする余地はあっただろうと思うのです。ヨセフはこれまで主人の絶対的な信頼を得ていたのですから。しかし、驚くべきことに39章においてヨセフは一言も弁明してはいない。自分が主の御前にあることを意識して生きていたからでしょう。主が共におられる。ならば誰も見ていなかったとしても、主が見ておられる。主は分かっておられる。ヨセフにはそれで十分だったのです。

 こうしてヨセフは奴隷としての生活からさらに低い牢獄での生活へと降ります。自分が悪かったからではありません。他人の悪のゆえに。また人々の誤解のゆえに。しかし、聖書はここにおいても繰り返します。「主がヨセフと共におられ」と。牢獄の中にも主は共におられた。そのように聖書は繰り返し語っているのです。主が共におられるならば、牢獄の中にも主の計らいがあるのです。

 ならば大切なことは、なぜ獄中にいるのかその意味を問うことではなくて、獄中において為し得ることを精一杯行うことなのでしょう。実際、既にエジプト人に買われて奴隷となった時から、ヨセフは自分が置かれたその場において、主の計らいを信じて、主の御前にあることを意識しながら、精一杯生きてきたのです。そのように、重要なことは、主が共にいてくださることを信じて、わたしたちも主と共にあることなのでしょう。今私たちがどのようなところに置かれていようとも、そこで主がさせてくださることが必ずある。もし何も為しえないように見えるならば、パウロとシラスがしていたように、神さまを讃美したらよいのです。そのようにして、主を崇め、私たちが主の御前において精一杯生きているならば、どんなところにおいても主が共にいてくださることを、主御自身が明らかにしてくださるのです。ヨセフにおいてそうであったように。また、パウロやシラスにおいてそうであったように。

 
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