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「生き生きとした希望」

2008年11月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙 Ⅰ 1章1節~9節

生き生きとした希望

 「生き生きとした希望」。そんな言葉を使徒ペトロが使っていました。「生き生きとした希望」がこのペトロの手紙で語られているのは、もう一方においてこの世に生きる限り人間の生活には苦しみがあるからです。この手紙を受け取った人たちもまた多くの苦しみを背負っていた人たちでした。特にこの場合、教会に対する迫害が激しくなり始めていた時代ですから、キリスト者であること自体が既に様々な困難の中に身を置くことを意味したのです。先ほどお読みした6節にも「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と書かれているとおりです。そのように、彼らは確かに「いろいろな試練」に悩まなくてはならなかった。だからこそ、ペトロがこの手紙に書いています、この「生き生きとした希望」が決定的に重要になってくるのです。

 「希望を持っている」とはどういうことでしょう。それは、待ち望む何かを持っていることです。未来に期待すべき何かを持っていることです。希望を持っているとはそういうことです。一方、苦しみというものは、人間からこの「待ち望む心」を奪っていきます。苦しみは「未来に期待する心」を削り取っていきます。そうではありませんか。皆さんも、そのような経験がおありであろうと思うのです。昨日は苦しかった。今日も相変わらず苦しかった。すると明日も苦しい一日であるに違いない。どうしても、そう思ってしまう。そして、実際に今日がやはり苦しい一日だったとしたらどうですか。明日は、昨日から今日への延長線上にあると思ってしまうではありませんか。明日もまた同じであるに違いない。そのようにして、いつの間にかこの苦しみが永遠に続くかのように思い込んでしまうのです。真っ暗闇のトンネルの中を歩いていて、百歩進んでもなお先に光が見えなければ、二百歩進んでも、千歩進んでも暗闇で、永遠に暗黒が続くと思ってしまう。そのようにして、人は期待を失っていきます。もはやこの先に何も良きものは待っていない。もはや何も期待すべきものはない。そうやって人は待ち望むことを止めてしまいます。だからこそ、苦しみの中でこそ、「生き生きとした希望」が改めて語られなくてはならないのです。

 今がたとえ真っ暗闇であっても、心を躍らせながら、未来に良きものを待っている。ワクワクしながらまだ見ぬ未来を待ち望んでいる。今の状態がどうであれ、この暗い今が輝かしい未来へと向かう途上にあると信じて、喜びながら次の一歩を踏み出していく。そのように人生を歩いている時、その人は確かに「生きている」と言えるでしょう。 逆のことも言えます。期待することをやめた時、人は既に死んでいるのです。待ち望むことをやめてしまったとき、人は既に死んでいるのです。まだ人生に多くの時を残されているはずの若者であっても、未来に期待すべき何をも持たなくなった時、その人は既に死んでいるのです。希望さえあれば、人はどんな状態にあっても生きていくことができる。生き生きとした希望さえあれば、どんな困難の中にあっても、真っ暗闇のトンネルが続く中であっても、生き生きと人は生きていくことができる。唯一必要なのは、「生き生きとした希望」なのです。

イエス・キリストの復活によって  この「生き生きとした希望」を持って生きるためには、どうしたらよいのでしょう。聖書は何と言っていますか。この「生き生きとした希望」は神が与えてくださった、と言っているのです。「生き生きとした希望」は神から来るのです。上から来るのです。

 ならばそれは何を意味しますか。上を見なくてはならない、ということです。私たちは苦しみだけを見つめていてはならない。苦しんでいる自分、あるいは苦しみのもとになっている誰か他の人間、周りの環境、自分の生い立ち、過去の出来事、そのようなものにだけ目を向けていてはならないということです。神様に思いを向けなくてはならない。神様を抜きにして、単に過去と現在の延長に未来を見ていてはならないのです。

 皆さん、未来は過去から現在の延長になどありません。未来はいつもあらゆる可能性に開かれているのです。未来には神様が入って来られる入り口がたくさんあるからです。実際、聖書はそのように教えていますでしょう。ある日突然、神様が人生に入ってこられた。ある日突然、神様が事を起こされた。聖書に書かれているのは、そのような話ばかりではありませんか。未来には神様が入って来られる入り口がたくさんあるのです。

 今日お読みしました旧約聖書にもこう書かれていました。

  「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
   わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
   天が地を高く超えているように
   わたしの道は、あなたたちの道を
   わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8‐9)。

これが神様です。私たちの思いを超えた神様が、この世界にも私たちの人生にも関わっておられる。だから未来は過去から現在の延長上などにありません。「茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える」(同55:13)ということも書かれていました。これが神様のなさることです。私たちは茨が生えているところはずっと茨が生えているように思ってしまうのでしょう。しかし、実はそうではないのです。神によって、そこに糸杉が生えるのです。そのようなことが起こるのです。そのように、未来はあらゆる可能性に開かれているのです。

 そのような、人間の思いを遙かに超えた神の御業の代表はなんですか。聖書が神の決定的な介入として語っているのはイエス・キリストの復活です。ですから特に「(神は)死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」てくださったと語られているのです。死者の中からのイエス・キリストの復活――神様によるならば、死さえももはや絶望ではない、ということです。ペトロははっきりとそのことを知ったのです。いわば死の先にも未来が開かれている。そのことを知ったのです。

 そのように死の先にも開かれている未来、私たちが期待して待ち望むことができる未来を聖書は次のように表現しています。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(4節)。これこそ、まさに私たちの思いを超えた未来ではありませんか。私たちの想像できる範疇を超えた未来。だからこそ「財産」というある意味では陳腐な言葉をもってしか表現できないのでしょう。そのように、私たちには思い描くことさえできないわけですが、財産を受け継ぐというのですから、喜ばしい未来であることに間違いはありません。

 そのように、人は死においてもなお、その先に喜ばしき未来を待ち望むことができるのです。死の床においてもなお、期待をもって最後まで生きることができるのです。実際、皆さんは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができるのではありませんか。そうです、人は人生最後の一秒に至るまで、最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。最後まで生き生きと生きることができる。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったからです。

豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ

 しかし、そのように生き生きとした希望に生きるために、なお大事なもう一つのことがあります。ペトロは「生き生きとした希望」について語る前に、こう言っているのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」と。

 今、神が「生き生きとした希望」を与えてくださった、と申しました。そのように「生き生きとした希望」は神から来る。としますならば、そこで明らかなことは、その神様との関係がどうなっているか、ということが決定的に重要になってくるということです。もし神様との関係が悪かったら、どうでしょう。過去から現在の延長に未来はなくて、神様が突然介入されるかもしれないということは、単純に喜ばしき期待となりますか。ならないでしょう。先ほど「未来には神様が入って来られる入り口がたくさんある」と申しました。しかし、もし神様との関係が悪かったら、入り口を全部閉ざしたくなるのではありませんか。神様、入って来ないでください。わたしの人生に関わらないでください。どうしても、そうなるではありませんか。もし人が神様に背を向け続けて、神様との関係が悪いままであるならば、人生最後の時に、死の向こう側になお喜ばしき未来を期待できるでしょうか。できないだろうと思うのです。

 そうです。大事なのは神様との関係なのです。神様との関係が悪ければ、神様がおられることは希望につながらないのです。そのままでは「生き生きとした希望」に生きることができないのです。

 だからこそ、神はこの世にキリストを遣わされたのです。私たちと神様との関係を良くするためです。どのようにして、関係を良くするのでしょう。独り子なるイエス・キリストを十字架におかけになり、私たちの罪の贖いとすることによってです。神様の側から私たちに対して、罪の赦しを宣言することによってです。そのようにして、神様に愛されている子どもとして私たちが新しく生きることができるようにしてくださったのです。親子の関係という、この上ない良い関係に生きられるようにしてくださったのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」とはそういうことです。

 どんな人であっても、新しく生まれた神の子として生き始めることができる。それはまさに福音です。良き知らせです。神との関係がそのような親子関係であるならば、もう安心です。たとえ今がどんなに暗くとも、大丈夫です。良き親なる神様が関わってくださるならば、いつでも未来に期待を抱き続けることができるからです。私たちは、人生最後の時に至るまで、良き未来を待ち望み、生き生きとした希望に生きることができるのです。

 
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