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「ゴールを目指して走り抜け」

2008年10月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 3章12節~21節

 ある教会で結婚式がありました。結婚式が厳粛に執り行なわれ、花嫁と花婿はそこからハネムーンに出かけます。映画などで見るように、二人は教会から自動車に乗って出発するわけです。しかし、外に出てみると、なんとその車にはいたずらがしてありました。誰かがその自動車に大きなプラカードを括り付けておいたのです。そのプラカードには何が書いてあったか。そこにはガミガミと怒鳴っている男の絵と、同じく怒鳴り散らしている女の絵が描かれていました。そして、そこには次のような一文が記されていたそうです。「欲しいものを得てしまった時には、もう欲しくなくなるものだ…。」――昔読んだお話です。

 確かに一般的に言いまして、必死に努力して得たものが、実際に得てみるともはや全く興味を引かないものとなっているということは、よくある話です。ともすると先ほどの話のように、結婚という厳粛な出来事でさえそのようなものになりかねない。努力を重ねて入学できた大学なのに、五月ぐらいになると授業をサボる人が多くなる。心から憧れて就きたかった仕事であるのに、しばらく働いて困難にぶつかると、いったい何で自分はこんな仕事をしているのだろうとぼやいている。そのようなことも起こります。

 なぜこのようなことが起こってくるのでしょうか。それは最終的な目標がないからです。すべて中間目標というのは最終的な目標があってこそ意味があるのです。すべて達成されるべきことというものは最終的に達成されるべきことがあってこそ意味を持つのです。最終的な目標のない中間目標は、達成された途端に価値を失う。当たり前の話です。

 さて、私たちはいったい最終的に何を目指して生きているのでしょうか。何を追い求めて生きているのでしょう。人生における究極の目的は何でしょうか。この問いに私たちはいったいどのように答えるのでしょうか。

 実はこの問は三週間前にも出て来たのです。フィリピの信徒への手紙1章を読んだ時です。そして、その答えをしっかり握って生きていた人、パウロの話をしたのです。覚えていらっしゃいますか。私たちはもう一度フィリピの信徒への手紙に戻ってきました。そこで改めてパウロの姿に目を向け、その言葉を通して主が私たちに語りかけておられることに耳を傾けたいと思うのです。

神がお与えになる賞を得るために

 13節をご覧下さい。パウロはここでフィリピの信徒たちに「兄弟たち」と語りかけます。そこでパウロは自分自身についてこのように言い切っているのです。「なすべきことはただ一つ!」その「ただ一つ」とは何か。それは目標を目指してひたすら走ることだ、と言うのです。その目標には何が待っているのか。何のために目標を目指して走るのか。パウロは言います。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために…。」

 単に「賞を得るために」ではありません。「神が...お与えになる賞を得るために」と言っているのです。その意識の中心にあるのは明らかに「賞」そのものではありません。与えてくださる「神さま」です。先ほど「何が待っているのでしょうか」と言いましたが、その表現は本当は正確ではありません。「誰が待っているのでしょうか」と言うべでした。そこには神さまが待っておられるのです。パウロは明らかに神さまにお会いするその時に向かって、その時を思いつつ走っているのです。

 神にお会いしてお褒めをいただきたい。ただそのことを求めて、ひたすら走る。それがなすべきただ一つのこと。要するに、人生はそれだけだ、というのです。ただそれだけ。目指すべきゴールはそれだけ。皆さん、どう思いますか。なんとも単純素朴な子供じみた人生観だと思いますか。しかし、この手紙を読んで、改めて考えさせられます。私たちにとってしばしば欠けているのは、そして本当に必要なのは、この子供じみているとも言える単純素朴さではないでしょうか。

 私たちは実際、この単純素朴さを失って、あれもなさねばならない、これもなさねばならないと言って動き回っているものです。そうやって動き回っていながら、結局のところ、ではそれは究極的には何のためなのかと問われて答えることもできない。いったい人生そのものが何のためにあるのか、どこに向かって生きているのかも分からない。そのようなものになってしまっているものです。

 考えて見てください。パウロはこの時、牢獄にいるのです。明日をも分からない命なのです。ある意味では何をすることもできないような限界の中にいるのです。でも彼は走っている。ひたすら走っているし、走ることができる。なぜですか。ただ神さまに誉められたい。神さまから賞をいただきたい。ただそのことを考えているからです。だから牢獄の中であろうが、あらゆる限界の中であろうが百パーセント生きているのです。彼は確かに走っているのです。

 皆さん、この単純素朴さを回復しようではありませんか。ひたすら天の父なる神さまに喜ばれること、誉められること、神さまから評価されることを求めましょう。そのことを最終的な目標として走りましょう。その最終目標があってこそ、あらゆる中間目標も意味を持つのです。

後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ

 さて、その上で次に重要なのは走り方です。獄中においてなお走っているパウロから、私たちもまた走り方を学びたいと思うのです。もう一度13節の途中からお読みします。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13‐14節)。

 ここでイメージされているのが競技場で走る選手であることは言うまでもありません。競技場でレースをするとき選手はどのように走るのでしょうか。横を見ながら走っても、後ろを振り返りながら走っても、それで失格になるわけではありません。しかし、失格にならないからと言って、それが相応しい走り方であるとは言えないでしょう。横を見たり後ろを見たりすることは走ることに支障を来すのです。だから、選手はひたすら前を見て走らなくてはならないのです。

 神から賞を受けるために走るのも同じことです。後ろを見ながら走ることは出来ません。ですからパウロは「後ろのものを忘れ…」と言うのです。もちろん、パウロは過去の出来事をすべて忘れた、と言っているのではありません。パウロは過去に起こった多くの出来事を決して忘れませんでした。例えば、パウロは自分を救ってくださった神の恵みの出来事を決して忘れませんでした。ダマスコ途上においてキリストが出会ってくださったことを忘れることはありませんでした。

 しかし、その一方において前に向かって走るときに、振り返ってはならないこともあるのです。ちゃんと後ろに置いてこなくてはならないものがある。置いてこないと、それらが前進を妨げることになるのです。

 その第一は、過去の栄光です。特に、過去に持っていた誇るべきものが今は失われているという場合には、その過去の栄光が前進を妨げることになり易い。そう思いませんか。過去の栄光にばかりしがみついて、「あの頃は良かったのに」ということばかり言っていて、今本当に踏み出さなくてはならない一歩が踏み出せないということが起こるのです。後ろを向いていて前に進めるわけがありません。進むためには、過去のものは過去に残して行かなくてはならないのです。

 実際、パウロにも、かつて誇りに思っていたことの数々がありました。5節以下にはこう書かれています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(5‐6節)。彼はユダヤ人としてはエリートだったのです。偉大なるラビ・ガマリエルの門下生として律法学者としての将来を嘱望され、人々の期待を一身に集めていた、いわば栄光の日々があったのです。

 しかし、キリストに従ったとき、そのすべてを失いました。今や彼は獄中で最期を迎えるかもしれないところまで来ているのです。パウロは失ったものを惜しんでいますか。それらの方向を見ていますか。そうではありません。彼は何と言っていますか。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(8節)。そう言うのです。パウロは記憶していないわけではありません。しかし、もはやそれらはパウロを捕らえません。走ることを妨げません。後ろのものを後ろに置いて、彼はちゃんと前を向いているからです。私たちもそうあるべきなのでしょう。

 そして、もう一つ。失われた過去の栄光以上に、前進を妨げるものがあります。過去の罪責です。私たちの人生には、できるならばやり直したいと思う場面がいくつもあることでしょう。特に、キリストの恵みを知れば知るほど、かつての自分自身の罪もまた見えてくるものです。教会を迫害し、数多くのキリスト者を死に至らしめたことは、ファリサイ派パウロが正義感に燃えている時には、決して心の責めとはならなかったに違いありません。しかし、キリストの光に照らされた時、それが取り返しのつかない大きな罪であることを知ったのです。私たちにも、同じようなことが怒ります。

 私たちがもし罪の重荷として引きずっているならば、前に体を伸ばそうとすればするほど、強烈に後ろへ引き戻す力となって私たちに働くことでしょう。前のものに向かって体を伸ばして前進するためには、罪の重荷から解放されなくてはなりません。どうしたら良いのでしょう。そのために、人に謝罪し、償い、赦してもらうということは、確かに大事なことかもしれません。しかし、本当の意味で罪の重荷から解放されるのは、ただ神の赦しによるのです。

 主は旧約聖書において既に次のように語っておられます。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31・34)。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ7・19)。そして、これらの御言葉の真実が完全に現わされたのはキリストの十字架においてでした。神は私たちを赦し、救うためにキリストをお遣わしくださったのです。キリストは私たちの全ての罪咎を負って十字架にかかり、あがないの死を遂げてくださったのです。このキリストのゆえに、私たちは罪の赦しの宣言を受けるのです。

 それゆえに、神が赦しを宣言されるとき、私たちはいつまでも過去の罪責に捕われていてはならないのです。そのゆえに自らを責め苛んではならないのです。神が私たちの罪を海の深みに投げ込んでしまわれるならば、私たちはもはやそれを引きずり上げてはならないのです。神が求めておられるのは、むしろ私たちが前を向いて走ることだからです。神に喜ばれることをひたすら求めて前を向いて走ることだからです。人の親ならば、自分の子供が後悔と自責の念を持って一生を送ることを望みはしないでしょう。ましてや天の父は子供たちが後悔の一生を送ることを望まれない。

 悔い改めと後悔とは異なります。悔い改めは必要です。同じ過ちを犯さないことも大事です。しかし、悔い改めは単に悔いることではありません。方向を変えることです。大切なことは、前を向いて走り出すことです。罪に向いていた者が、神に向かって走り出すのです。神とお会いし、神にお褒めいただくことををひたすら願いつつ、ゴールに向かって走り抜く。それが私たちの人生です。

 
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