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「天にまします我らの父よ」

2008年9月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 6章9節~13節

 今日の福音書朗読は、私たちにとって馴染み深い「主の祈り」が書かれている箇所でした。私たちは、毎週の礼拝において必ずこの「主の祈り」を共に祈ります。しかし、毎週のことですので、ついつい機械的に唱えているだけになっているかも知れません。マルティン・ルターは、この「主の祈り」こそ「最大の殉教者」であると言いました。確かにそうかもしれません。意味を考えることなく、ただ口先だけで唱えることによって、イエス様が与えてくださったこの尊い祈りの言葉を殺してしまっている、とも言えるでしょう。「主の祈り」を口にする時、私たちはいったい何をしているのか。何を祈っているのか。そのことを今日は共に確認したいと思うのです。

父から愛されている子どもとして祈る

 さて、「主の祈り」の一番最初には何か来ますか。まずそこには呼びかけの言葉があります。「天におられるわたしたちの父よ」。――私たちは呼びかけているのです。祈りは呼びかけから始まります。祈るということは、ただ神様のことを考えることではありません。ただ静まって何かを思い巡らすことではありません。私たちが発する言葉を、その背後にある諸々の思いをも含めて、確かに聞いてくださる御方に私たちは向かっているのです。その御方に向かって呼びかけ、語りかけるのです。それが祈りです。

 私たちが語りかけている神様はどのような御方でしょう。私たちが信じている神様は、天地の造り主です。万物を統べ治めておられる全地の王です。そのような御方に呼びかけるのですけれど、その時に「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけなさいと、イエス様は教えてくださいました。私たちは「主の祈り」を祈る時、天地の造り主に対して、「父よ」と呼びかけているのです。

 「父よ」とありますが、イエス様が使っておられたアラム語では「アッバ」という言葉です。アラム語の「アッバ」という言葉のままで、聖書には三回ほど出てきます。イエス様御自身が祈りの時に使っていた言葉です。これは幼い子どもが家庭において父親に呼びかける言葉です。圧倒的に大きな父親の権威に対して恐れおののきながら使う言葉ではありません。むしろ親しみと愛情を込めた呼びかけです。そのように「父よ―アッバ」と呼びかけなさいとイエス様は言われたのです。

 しかし、私たちが、天地の造り主であり全地の王である方を「アッバ、父よ」と呼ぶことができる。それは決して自明のことではありません。どう考えても、本来、あり得ないことです。計り知れない全宇宙の大きさを考える時、その創造主に語りかけられるなどということは、本来、あり得ない。確かにそうです。しかしそれ以上に、その御方の前で私たちがどう生きてきたのかを考える時に、なおさら親しげに「父よ」と語るということは、あり得ないことでしょう。私たち人間はどれほど神様を侮ってきたことか。神に逆らって歩んできたことか。私たちがまことの神の御前に出るならば、裁きを恐れておののかざるを得ないはずです。神の御前に罪を犯してきた私たちが、最終的にこの世界を正しく裁く権威をお持ちである御方に対して、イエス様がしていたのと同じように、「アッバ、父よ」と親しみを込めて呼びかけることなど、できようはずがありません。

 しかし、そのあり得ないことが許されているのです。私たちが「主の祈り」を祈るとはそういうことなのです。イエス様が「こう祈りなさい」と言ってくださった。「父よ」と祈りなさい、と。いや、イエス様だから言うことができたのです。なぜならこのイエス様こそ、神の赦しを携えて来てくださった御方だからです。

 罪ある人間がなお神の御前に出て「父よ」と呼ぶことができるために、何が為されなくてはならないかを、イエス様はよくご存じでありました。それは父の御心に従って、イエス様御自身が罪の贖いの犠牲となることでした。十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださることでした。それはすべては神の愛から出たことです。神が一方的な恵みによって、私たちに「父よ」という呼びかけを与えてくださいました。私たちが「アッバ、父よ」と祈れること自体が、実は既に神の愛の現れなのです。私たちは愛されている子どもとして、祈ることが許されているのです。

父を愛する子どもとして祈る

 そのように神に愛され、神に赦され、「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子どもとされた者として、父を愛して生きていく。それが私たちの信仰生活です。私たちは神の愛を獲得するために信仰に励むのではありません。神の御厚意を得るために敬虔な生活をするのではありません。自分が差し出す何かと引き替えに神の愛を得ようとするのは、子どもらしい姿ではありません。子どもは既に神に愛されているのです。私たちは愛されているのです。だから愛されている者として、神を愛して生きていく。一方的に恵みを与えられた者として、その恵みに応えて生きていく。それが私たちの信仰生活です。

 子どもが父を愛する時、子どもは父の関心事を共有するようになります。父の関心事が子どもの関心事ともなります。父の望んでいることを子どもも望むようになります。父がどのようなことを考えているのか、父を愛している子どもなら、もっともっと知りたいと願うようになるでしょう。そして、父が願っていることが実現することを、子どもも願うようになるでしょう。

 そこで、父から愛され父を愛する子どもとして祈る、三つの祈りをイエス様は教えてくださいました。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(9‐10節)。主の祈りの前半部分です。

 しかし、このように改めてイエス様の教えてくださった祈りの言葉を前にしますと、私たちはハタと考え込まざるを得なくなります。日曜日に私たちはこうして集まります。そこで必ず「主の祈り」を祈ります。この集まりは、「天におられるわたしたちの父よ」と言って、ふだん散らされている私たちが集まって、一緒に「主の祈り」を祈る。そのような集まりです。しかし、私たちが集まる時、私たちはこの三つのことを本当に求めて集まっているのでしょうか。ここに来るときに私たちは本当に御名があがめられることを求めて集まっているのでしょうか。御国が来ることを求めて集まっているのでしょうか。御心が地の上に行われることを求めて集まっているのでしょうか。

 むしろ私たちが求めているのは、御名とか御国とか御心についてではなくて、私たち自身のことばかりではないでしょうか。少しでも平安が得られるように。気持ちよく一週間がスタートできるように。何か役に立つことが聞けるように。元気になれるように。お友達と楽しく過ごせるように。――もちろん、それらは悪い求めではありません。それはそれで良いと思うのです。しかし、もしそれだけであるならば、「主の祈り」において口にしていることは、いったい何なのでしょう。はたして神の御名が崇められるためならば、自分の平安を犠牲にしてもよい。御国が来るためならば、苦しみを引き受けてもよい。愛する父の御心が地上において実現するためならば、困難の中に身を置くことになってもかまわない。そのような思いが少しでも私たちにあるのでしょうか。

 「御名が崇められますように。」そのような祈りがなされるのは、もう一方において神の御名が汚されているという現実があるからでしょう。神が神とされていない。主の御名は侮られ、軽んじられ、他のものの方がずっと大事であるかのように扱われてきたのです。

 「御国が来ますように。」そのような祈りがなされるのは、もう一方において今、現に目にしているのは御国ではない、という現実があるからでしょう。神ならぬものの支配。私たちがこの世に目にしているのは罪と死の支配であり、悪魔の支配です。ですから、「御国が来ますように」と祈ることはまた、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ることでもあるのです。私たちが目にしているのは、御心が成っていない世界です。神の御心に反することが行われている世界です。

 父の御名が汚され、父の御心に反することが行われているこの世界を見て、そして神の民の現実を見て、父を愛する御子であるイエス様は心を痛めておられたのでしょう。父の御名が崇められ、御心が地上で行われることを誰よりも願っていたのはイエス様でしょう。その御子なるイエス様の心を共にして祈るようにと、イエス様は主の祈りの言葉を私たちに与えてくださったのです。

 「このように祈りなさい」とイエス様は言われました。「祈りなさい」ということは、それを実現するのは神様御自身だということです。そうです。神様の御名が崇められるようになること、神の御国が来ること、神の救いの御心がこの地上において実現すること。すべて神の御業なのであり、神様御自身の戦いなのです。しかし、父なる神はあえてそれを子どもたちと共に進めようとされるのです。父の心を共有し、「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈る子どもたちを求められるのです。そのような子どもたちを用いて事を進められるのです。

 「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」それが私たちの祈りとなっていくならば、それが私たちの心からの願いとなっていくならば、もはや苦難も困難も信仰のつまずきとはならなくなるはずです。信仰のゆえに、教会生活を続けるゆえに生じた困難さえも、信仰のつまずきとはならなくなるはずです。愛する父の御名が崇められれば、御国が来れば、御心が行われれば、それで良いのですから。そのように、問題は苦難があるかないか、教会生活に困難があるかないか、ではないのです。そうではなくて、いったい何を求めて生きているのか、ということなのです。「主の祈り」が自分の祈りになっているか否かなのです。

 では、「主の祈り」を自分の祈りとするためにはどうしたらよいのでしょうか。最初に見ましたように、この祈りは「父よ」という呼びかけから始まります。父を愛する子どもとしての祈りなのです。父を愛するということがなければ、「御名が崇められますように」という祈りは出て来ません。そのように父を愛するようになるのは、父から愛されていることを知るからです。

 まず、そこから始める必要があるのでしょう。自分が罪を赦されて、全地の王なる御方を「アッバ、父よ」と呼べるということ。罪ある私が滅ぼされるのではなくて、神の子どもとされていること。それがどれほど大きな恵みであるか。そこにどれほど大きな赦しと憐れみがあるか。私たちはさらに知っていく必要があろうかと思うのです。私たちに「天におられるわたしたちの父よ」と祈りなさいと言ってくださった御方、そして私たちのために十字架におかかりくださった御方によって教えていただく必要があろうかと思います。そのようにして、「主の祈り」を自らの祈りとなることを、求めていきましょう。

 
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