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「誰についていきますか」

2008年8月31日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 10章1節~6節

 今日の福音書朗読の最後にはこう書かれていました。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」(6節)。ということで、イエス様はさらに言葉を加えられます。それが7節以下です。そこで直に聞いていた人々が理解できなかったのですから、ましてや時代も習慣も違う私たちが、このたとえの部分だけを聞いて、理解できようはずがありません。そこで私たちは、イエス様がさらに説明を加えた7節以下をも聞きながら、私たちへの主の語りかけに耳を傾けたいと思います。そこで特に重要なのは、イエス様が御自分についてなされた二つの宣言です。一つは7節にある「わたしは羊の門である」という言葉。もう一つは、11節にある「わたしは良い羊飼いである」という言葉です。キリストは、このたとえにおいて、門であると同時に羊飼でもあるのです。

門を通って来られる羊飼い

 ではこれらの宣言を念頭に置いて、もう一度、たとえ話を聞いてみましょう。イエス様は言われました。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」(1‐5節)。

 ここに羊の囲いの話が出て来ます。朝になると羊は羊飼いによって囲いから導き出されます。そして、夜になるとこの囲いへと導き入れられ、安全に守られます。羊たちの一日は羊飼いと共にあります。羊飼いなくして、羊は一日たりと生きていくことができません。このたとえを聞いた人たちはよく知っています。羊が羊飼いの声についていくことが、いかに大切なことであるか。羊飼いこそが羊を命へと導くのです。イエス様は、御自分がそのような羊飼いであると言われたのです。わたしは良い羊飼いであると。

 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書かれていました。これが当時の習慣です。彼らは羊の一匹一匹に名前を付けて、羊と共に生活をしているのです。私たちから見たら、羊は皆同じに見えますが、羊飼いにとってはそうではありません。羊飼いにとって、そこにいるのは単なる「群れ」ではないのです。名前が付いている個々の羊なのです。14節にはこう書かれています。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。それが羊飼いです。羊飼いが羊を「知っている」とは、羊とはどういうものかを知っている、という意味ではなく、名前をもって呼んでいる個々の羊を知っているということです。イエス様はそういう御方です。人間がどういうものであるかを知っているだけでなく、それぞれ名前を持っている私を知っておられ、あなたを知っておられる。

 しかし、今日のたとえで重要なのは、その羊飼いは「門を通って入ってくる」ということです。「門から入る者が羊飼いである」と書かれているとおりです。さて、ここでややこしいことが起こります。イエス様は、「わたしは羊の門である」とも言われるのですから。

 そのように一見、確かにややこしい話に思われます。しかし、実はここにいる私たちにとってはとても単純な話なのです。これを聞いていたユダヤ人たちが知らないことを、私たちは既に知っているからです。それは何でしょうか。イエス・キリストは、私たちの罪の贖いのために十字架におかかりくださったということです。世の罪を取り除く、神の小羊として屠られたということです。イエス様はそのことを前提として、このことを語っておられるのです。ですからその後で「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言っているのです。

 そのように、キリストについて語られる時、それは必ず「十字架につけられたキリスト」なのです。今日の第二朗読で読まれたペトロの手紙にも、キリストについて次のように書かれていました。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペトロ2:24)。そのようにキリストは自らその身にわたしたちの罪を担ってくださったキリストです。

 そのキリストが言われるのです。「わたしは門である」と。ならばその門とはキリストの十字架に他なりません。羊飼いは門を通って羊のところに来るのです。羊は羊飼いを、門を通ってこられた羊飼いとして見るのです。私たちは、イエス・キリストという御方を、十字架を通って来られた御方として見るのです。

 先ほど、「羊飼いは羊を知っている」という話をしました。キリストは私たちを知ってる。名前を持った人間として、ここまで固有の人生を生きてきた人間として知っているのです。ということは、私たちの罪をも知っているということです。そのように私たちは知られているのです。しかし、私たちはそれでも安心して羊飼いについて行ける。なぜなら、イエス様は十字架を通って来られた御方だから。私たちの罪の贖ってくださった御方だからです。

 そのように「門」は、羊飼いが通って来られた十字架の門ですから、それはまた羊たちにとっては救いの門でもあります。羊である私たちは、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いの門を通って救われるのです。9節にこう書かれているとおりです。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」と。

 「出入りする」というのは、ユダヤ的な表現で、生活することを意味します。羊の門は、羊の生活と共にあるのです。その門あってこそ、豊かな牧草にありつき、命に溢れて健やかに生きるのです。キリストの十字架を通って救われた者たちは、十字架と共に生活をするのです。十字架あってこそ、十字架による神の御赦しがあってこそ、私たちは真に羊飼いと共に生き、命へと導かれながら生きることができるのです。

他のところから入ってくる強盗

 しかし、近づいて来るのは、必ずしも良き羊飼いだけではありません。強盗もまた近づいて来るのです。このたとえはファリサイ派の人々に対して語られたのですから、この「盗人」や「強盗」は、明らかにファリサイ派の人々に関係しています。8節では「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われています。そのように、既に存在するファリサイ派の教え、既に存在する戒律宗教、既に存在するエルサレムを中心とした宗教的権威、それらを指して主は「盗人」「強盗」であると言っているのです。

 しかし、強盗や盗人については特に「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」と言われています。ですので、それは確かに直接的にはファリサイ派の人々や当時の宗教的権威を指していたわけですが、より広くは、要するに、罪の贖いを必要としない、十字架を必要としない救いの教えを指していると言うことができます。言い換えるならば、罪の赦しを必要としない救いの教えです。

 十字架を必要としない、罪の赦しを必要としない、とはどういうことでしょう。罪の赦しを必要としないためには、二つの選択肢しかありません。一つは、本当に赦される必要のない罪のない人間になることです。正しい人になることです。そのような正しい人であれば、罪の赦しは必要ではありません。もう一つは、自分の罪を見ないようにすることです。実際に正しい人ではないとしても、臭いものには蓋をするように、自分の罪に目を向けさえしなければ、罪の赦しが必要であるとは《感じなく》なるでしょう。

 さて、その二つの選択肢の第一のものは、真に神を信じて生きようとするときに、閉ざされていくことになります。人間の正しさが、人の前では通用しても、神の前では通用しないことが明らかになっていくからです。人に対しては「わたしは赦される必要などない」と言い得ても、神に対しては言えないことが分かってくるからです。神は光です。神様を信じるということは、強烈な光のもとに身をさらすようなものです。光にさらされるならば、汚いものは明らかになるのです。生活の中の様々な罪の問題も、はっきりと見えるようになってくるのです。

 そのように、第一の選択肢がつぶれるならば、第二の選択肢しか残らないではありませんか。実際には正しくない、罪のある者でありながら、なおも自分の罪には目を向けないで生きるというあり方です。それは光のもとにいては為しえないことです。生ける神に向いながら、罪には目を向けないで生きるということはできない。ならばどうしますか。神を遠ざけるのです。光を遠ざけるのです。光を遠ざけるならば、暗くなりますから、もはや罪の問題を見る必要はなくなります。そのように光を遠ざけて、代わりのものを持ってくるのです。

 その時になお宗教的であることを止めたくない人は何を持ってくるか。偶像を持ってきます。人を裁くことのない神様を持ってくるのです。向き合ってもこちら側が問われることのない神を持ってくる。そのような偶像をも持ってきたくない人は何を持ってくるか。「律法」を持ってくるのです。生ける神様と真実に向き合い、神の御前に生きる代わりに、「律法」を持ってくるのです。何かを守ること。何かを行うこと。神の名によって形だけ何かを一生懸命に守ったり行ったりしていながら、本当の意味で神様に向き合わない、神の光のもとに身をさらしたりしない、神との生きた交わりもそこにはない。そういうことが起こります。

 そもそも光を遠ざけてしまっているのですから、そこには救いがない。本当の命もない。そのようなあり方は人を生かさない。むしろ殺してしまう。だから強盗だと主は言われるのです。まさにイエス様の時代においては、ファリサイ派の人たちが、祭司長たちがそうだった。しかし、そのようなことは教会においても繰り返し起こってきたのです。盗人や強盗は様々な形を取って羊に近づいてくるのです。

 「わたしは良い羊飼いである」とイエス様は言われます。羊飼いは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために来てくださいました。羊飼いなるイエス様は、私たちを本当の意味で生かすことがおできになります。なぜなら、繰り返しますが、羊飼いなるイエス様は、門を通って来られた御方だからです。十字架を通って来られた御方だからです。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と言われたイエス様は、本当に命を捨ててくださいました。私たちの罪の贖いのために。私たちに罪の赦しを得させるために。ですから、私たちはこの御方に知られていても、安心してこの御方について行くことができる。そして、この御方に導かれる時、もはや私たちは暗闇の中に逃げ込む必要はないのです。光を遠ざける必要はないのです。他の何かを生ける神の代わりにする必要もないのです。イエス様と共に光の中を歩むことができるのです。決して暗闇の中に逃げ込んではなりません。

 
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