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「誰のせいでもありません」

2008年8月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 9章1節~12節

神の業がこの人に現れるため

 「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』」(1‐2節)。

 私たちもこの弟子たちと同じ問いを心に抱くことがあります。ある時は自分自身の苦しみについてであるかもしれません。あるいは他の誰かの不幸についてであるかもしれません。その時、私たちは問わずにいられなくなります。だれが罪を犯したからですか。いったいだれが悪いのですか。だれのせいなのですか。

 「苦しみがあるならば、その理由は何らかの仕方で説明されねばならない。」私たちは常々そう思って生きています。私たちは、理由の分からない苦難、説明不可能な不幸には耐えられないのです。説明を求めます。これは普遍的な欲求です。ある人は、不幸の原因の説明を宗教に求めるのでしょう。そして、実際に数多くの説明を耳にします。前世の問題だと言う人がいます。供養されていない先祖の問題だと言う人がいます。罰が当たったと言う人がいます。言われて見ればなるほどと思う人もいるのでしょう。

 あるいはそのような宗教的な説明を迷信として退ける人もいるのでしょう。しかし、原因探しを止めるわけではありません。現在の不幸の合理的な原因説明を求めます。納得できる犯人捜しをします。「いったい誰が悪いのか。誰のせいなのか」と。他の人のことでなく、自分自身のことならなおさらです。「あの人さえいなければ、こんな事態にはならなかったのに」。「あんなことさえしなければ、この苦しみはないはずなのに」。宗教的な説明にせよ、因果関係による合理的な説明にせよ、いずれにしても私たちの目は過去へと向かいます。

 さて、先の話に戻りますが、あの「生まれながらに目の見えない人」にイエス様も目をとめました。見ないままに通り過ぎることはありませんでした。しかし、弟子たちとは見ている方向が明らかに違います。主はこう言われるのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。弟子たちは、この人やこの人の親の過去へと目を向けていた。しかし、イエス様はこの人の未来に目を向けていたのです。

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」。もちろん、イエス様はこの人がまったく罪のない清い人であると言っているのではありません。罪のない人などこの世にいないのです。しかし、イエス様は単純に現在の苦しみの原因を過去に求めることはなさいませんでした。主は言われた。「だれのせいでもありません」。イエス様はこの人の未来を思っていたのです。本当に大切なことは、何が原因かということではなくて、未来においてこの人がどうなっていくのか、ということだからです。

 弟子たちが問うていたのは原因でした。「なぜ」ということでした。しかし、本当に問うべきことは、「なぜ」ではありません。「何のために」です。どこに向かっているのか、ということです。イエス様は過去に縛り付けられている弟子たちの目を未来に転じさせます。そして言われるのです。「神の業がこの人に現れるためである」と。

 そこでさらにイエス様は弟子たちにこう言われました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(4‐5節)。

 「神の業がこの人に現れるためである。」しかし、ある人の上に神様の御業、神の愛の業が現れるためには、そのために働く人が必要であるようです。神と共に働く人が必要なのです。「誰が悪いのですか」などと問うている暇があったら、今、為すべきことがあるのです。「まだ日のあるうちに行わねばならない」とはそういうことです。

 「だれも働くことのできない夜が来る」が何を意味するのか、必ずしも明確ではありません。しかし、それが何であれ、私たちが御業のために働ける時は限られているということは事実だと思います。そうです。人は時の間を生きているのです。限られているのです。人間の悲しみや不幸について「なぜ?どうして?誰が悪いの」と考えている暇があったら、その人の上に神の業が現れるために、為すべきことを行うべきなのです。イエス様は「それを一緒にやろう」と言っておられるのです。「わたしたちは、…行わねばならない」と。

シロアムへ行って洗いなさい

 では、人の上に神の御業が現れるために、まず何を為すべきなのか。弟子たちは、これからどのようなことを行っていかなくてはならないのか。その後の教会は、ここにいる私たちはいったい何を為すべきなのか。最も必要とされていることは何なのか。イエス様はそこで具体的に何を為すべきかを、まず自分自身の行為として弟子たちの前で示されたのです。イエス様はこの人に何をなさったのか。続きを読んで見ましょう。

 「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム―「遣わされた者」という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」(6‐7節)。

 結果として、この人の目は癒されました。それが直接的にはこの人の上に現れた神の業です。イエス様はその神の業がこの人の上に現れるように働かれました。そして、確かに明らかに神の業であると思えるような奇跡が起こりました。しかし私たちは、この福音書に書かれているイエス様の奇跡がいつでも象徴的な意味を持っていたことを思い起こさねばなりません。例えばパンの奇跡が永遠の命のパンであるキリストを指し示すしるしであったように、ここにおいても、この肉体的な目の癒しは、象徴的な一つの出来事として記されているのです。この人の目の癒しは何を意味するのでしょう。

 ここに出てきた人は「生まれつき目の見えない人」でありました。生まれつき目が見えないということは、言い換えるならば光を経験したことがない、ということです。当時の人たちは目を「窓」のように考えていました。体の窓です。そこから光が入るのです。この窓が閉ざされてしまいますと、光が入ってきません。そうしますと闇になります。たとえ外に太陽の光が燦々と降り注いでいたとしましても、その目が閉ざされているならば、その人は光を経験することはできません。光のただ中にあってもその人は闇の内にあることになるのです。

 さて、同じことが神と人との間にも起こります。神様の愛の光がこの世界に降り注いでいたとしましても、私たちの目が神に対して閉じているなら、私たちは暗闇の中を生きることになるのです。人間にとって本当の不幸は、人生に数々の苦しみがあるということではありません。病気であることや、様々な問題を抱えていることではありません。そうではなくて、神の愛に対して目が閉じてしまって、暗闇の中に生きていることなのです。

 その閉じた目が再び開くために、神の愛の光が心の中に差し込んでくるためには、いったいどうしたらよいのか。そのことを示すために、イエス様は少々奇妙なことをなさいました。まずイエス様は唾で泥をつくって、それをその人の目に塗ったのです。なぜ、泥を塗ったのか。イエス様の作られた泥だから何か特別な力があるのか。そうではありません。イエス様が泥を塗られたのは、目を洗わせるためです。目の上に泥が乗っていて、それを彼が洗った。すると見えるようになった。そうです。「洗ったら、見えるようになった。光が入ってきた」。これがこの物語の重要なポイントなのです。

 イエス様は、人間には洗い落とさなくてはならないものがあることを示されたのです。それは神に背を向けている人間の生き方そのものです。それを、弟子たちが言っていたのとは違った意味で「罪」と呼ぶこともできるでしょう。私たちの人生には固くこびりついて神の愛の光を遮断している罪があるのです。それは自分ではどうにも拭い取ることのできないものなのです。それは洗い流してもらわねばならないのです。

 イエス様はこの泥を塗られた男の人に「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。この人は従順でした。言われた通りにシロアムの池に行ったのです。信じて従ったのです。そして洗いました。シロアムの池の水が泥を洗い流しますと、彼の目が開いて、闇の世界に生きていた彼の内に光が入ってきたのです。彼は光の内に生きるようになったのです。闇は過ぎ去ったのです。

 この池の名前は「シロアム」でした。それは「遣わされた者」という意味であるとわざわざ説明がついています。「遣わされた者」と言えばキリストのことです。つまり、キリストを象徴的に指し示す池で洗ったら、光が入ってきたという話なのです。

 光を遮り闇をもたらしている罪の問題を私たちは自分の力で拭い去ることはできません。どうすることもできないのです。どうしたらよいのでしょうか。洗い流してもらうしかないのです。イエス様によって洗っていただくしかないのです。そのようにして闇の中に生きていた人が神の光の内に生きるようになる。そのためにこそ、イエス様は十字架へと向かっておられたのです。

 「シロアム(遣わされた者)」はキリストを象徴的に表していると言いました。さらに言うならば、キリストの十字架を象徴的に表していると言えるでしょう。キリストは十字架にかかるためにこそ、遣わされたのですから。キリストの十字架は、私たちのためでした。私たちの罪が洗い流されるために、罪のない方が私たちの罪を引き受けて、罪を贖う犠牲として血を流してくださったのです。ただこの罪のない方の流された血潮によってのみ、私たちの罪は洗い清められるのです。そのようにして光の内を歩み出すことが出来るのです。どんな人でも、罪を赦された者として、洗われた者として、神と共に歩むことができるのです。必要なことは、ただ信じることです。あの目の見えない人が光の中を歩み出すのに必要なことは、信じてシロアムの池に行って洗うことだけでした。そうです。人間に求められているのは、イエス・キリストを信じて罪の赦しと清めを願い求め、洗い流していただくことだけなのです。

 彼がシロアムの池に赴くためには、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言う人が必要でした。イエス様はそのことを弟子たちの前で行われました。それは弟子たちもまた、そのように行うためでした。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」。神の御業が現れるためには、そのために働く人が必要です。まず何をすべきなのか。それは「シロアムの池に行って洗いなさい」と告げ知らせることに他なりません。「この方のもとに行って、この御方を信じて、罪を洗っていただきなさい」と。神の御業が現れることを期待しつつ、罪から救ってくださる御方を指し示すことこそ、私たちに託されている第一のことなのです。

 
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