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「成長させてくださる神」

2008年8月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙I 3章1節~9節

 今日はコリントの教会に書き送ったパウロの手紙が読まれました。そこでパウ ロはこう言っていました。「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対す るように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子で ある人々に対するように語りました」(3:1)

 ここには「霊の人」と「肉の人」という言葉が出てきます。「霊の人」とは、 「信仰に成熟した人たち」(2・6)のことです。「肉の人」とは、1節に記さ れていますように、「キリストとの関係では乳飲み子」である人です。「キリス トにある乳飲み子」というのが直訳です。

 同じキリスト者でありましても、人は乳飲み子でもあり得ますし、成熟した大 人でもあり得ます。もちろん乳飲み子であっても、「キリストにある乳飲み子」 ですから、キリストに結ばれているのであり、キリストの救いにあずかって神の 子供とされていることには違いありません。しかし、乳飲み子がずっと乳飲み子 であり続けたら、それはやはり何かがおかしい。神が望んでおられることは当然、 乳飲み子が成長して、成熟した大人になることです。そこで今日は「乳飲み子」 の状態から成熟した大人になっていくといことについて考えて見ましょう。

乳飲み子から大人に

 コリントの信徒たちはパウロによって、「キリストにある乳飲み子」と呼ばれ、 「肉の人」と呼ばれていますが、「肉の人」あるいは「肉的な人」と聞きますと、 皆さんはどのような人を想像しますでしょうか。世俗的な人でしょうか。霊的な 事柄に無関心な人でしょうか。しかし、パウロはそのようなことを意味している のではなさそうです。というのも、コリントの信徒たちは、決してそのような意 味での肉的な人々ではなかったからです。

 この手紙の12章以降を読むと分かりますが、彼らは霊的な事柄に無関心など ころか、むしろ非常に関心があったのです。熱心に聖霊の賜物を求めていた人々 です。実際、彼らの間には聖霊の働きが豊かに現れておりました。彼らの多くは 異言を語ります。預言する者もおります。奇跡を行う者や病気を癒す力を持つ者 もいたようです。霊的な体験ということならば、彼らは豊かに与えられていたの です。また、彼らの捧げる礼拝は、霊に促されるままに讃美の歌を唱い、心を動 かされた者が教えを語り、あるいは誰かが異言を語り、そして他の者がそれを解 き明かすという仕方で行われていたのです。私たちのように定まった順序や秩序 に従って礼拝したり、定まった人が聖書を解き明かすよりも、彼らのように各々 の心のままに自発性に任せた集会の方が、ある意味では「霊的」に見えるかもし れません。

 そのように一見とても「霊的」な人々に見えたコリントの信徒たちなのですが、 パウロはそのような彼らを「霊の人」とは呼ばないのです。むしろ「肉の人」だ と言うのです。「キリストにある乳飲み子」だと言うのです。乳飲み子は固い食 物を食べることができません。乳飲み子を養うためには乳を飲ませるしかありま せん。ですので、「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えません でした」とパウロは言っているのです。

 さて、乳とは何でしょう。固い食物とは何でしょう。この表現はパウロだけが 使っていたものではなく、初期の教会において一般的に使われていたようです。 例えばヘブライ人の手紙にも次のように書かれています。「実際、あなたがたは 今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えて もらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い 食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のための ものです」(ヘブライ5:12-14)。

 乳とは「神の言葉の初歩」です。キリスト教信仰に関わる基本的な教えです。 それに対し、固い食物とは、「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、 一人前の大人のためのもの」だと言われています。ここに「一人前の大人」とは どういう人かが明らかにされています。それは善悪を見分ける感覚を経験によっ て訓練された人です。言い換えるなら、実際の信仰生活の中で善悪を見分けるこ とを学んできた人です。ここで善悪というのは、もちろん神様から見て善である か悪であるかということです。言い換えるならば神様の御心に適っているか、御 心に反しているのかということです。それを見分けることを実際の信仰生活にお いて学んできた人。すなわち、もっと分かりやすく言えば、神の御心に従って生 きようとしてきた人だということです。それはパウロの別の手紙の表現によれば、 「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことである かをわきまえるようになる」(ローマ12:2)ということでしょう。そのよう にして、信仰者は大人になっていくのです。

乳飲み子に留まっている人々

 ということは、逆のことも言えるということです。実際の生活において、神の 御心に従って生きようとするのでなければ、神の御心を行うことを学ぶことがな ければ、信仰者はいつまで経っても乳飲み子であり続けるということがあり得る ということです。信仰生活において、「わたしは何を望んでいるか」ということ にしか関心がなくて、「神様は何を望んでいるか」ということに無頓着であるな らば、いつまで経っても乳飲み子であり続ける。たとえ聖霊の賜物を熱心に願い 求め、実際に大きな力が与えられ、それこそ奇跡を行うほどの霊的な力が与えら れたとしても、自分が大きくなることにしか関心がなくて、主の御心に従うこと を学ぶことがなければ、その人はいつまでも乳飲み子であるということがあり得 るのです。

 実際、コリントの教会の問題は、人々がそのような乳飲み子状態に留まってい たというところにありました。パウロは次のように語っています。「お互いの間 にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩 んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』 と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがた は、ただの人にすぎないではありませんか。」(3:3-4)。

 先ほども触れましたように、彼らは決して霊的な事柄に無関心ではなかったの です。霊的な賜物を熱心に求め、神からの特別な能力をも求めていたのです。神 秘的な体験にも関心があったのです。しかし、それが本当に神に関心を向けてい ることになるかと言えば、必ずしもそうならないのです。いつでも関心事はこち ら側のことでしかない。主を信じて人間がどのような能力を得るのか。人間がど のように幸福感を経験するのか。パウロとアポロはどちらが霊的な能力において 優れている人なのだろうか。どちらと共にいる方が自分にとって益となるだろう か。どちらと共にいる方が、自分の願ったような信仰生活を送れるだろうか。--そ のようにいつも人間のこと、こちら側のことにしか関心がないということが起こ ります。そうです。そのように人間の側のことにしか関心がなければ、そして人 間同士の比較、自分と他者との比較の中に生きているならば、争いやねたみは起 こってきます。「パウロにつくかアポロにつくか」などという派閥争いのような ものも起こってくるのです。

 結局、私たちがここで考えなくてはならない問題は、次のように言い換えるこ ともできるでしょう。--私たちは神様を自分のものとすることを望んでいるのか。 それとも自分が神様のものとなることを望んでいるのか。「わたしのための神様」 ということしか考えられないか。それとも「神様のためのわたし」として生きて いこうとしているか。神のものとされて、神のものとして生きていく。実際の生 活の中で御心を尋ね求めながら、自らを献げて生きていく。そのような訓練を経 て、信仰者は大人になっていくのです。「わたしのための神様」ということしか 考えられなければ、「神様はわたしに何をしてくれるのか。あるいは何もしてく れないのか」ということしか考えられなければ、いつまでも乳飲み子に留まりま す。

 そこでは信仰の初歩が語られなくてはならないでしょう。既に神は御子をさえ 惜しまずに私たちに与えてくださったこと。御子の血によって私たちの罪は贖わ れたこと。私たちは代価を払って買い取られたのだ、ということ。そう、私たち はそのようにしてキリストのものとされたこと。神のものとされたのだというこ と。そこにこそ私たちの本当の救いがあることが、改めて語り直されなくてはな らないのでしょう。「ハイデルベルク信仰問答」の第一問答にこう書かれている とおりです。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただひとつの慰めは、何で すか。 (答) 私が、からだも魂も、生きている時も死ぬ時も、私のものではな く、 私の真実なる救い主イエス・キリストのものであることです。」

 パウロは言いました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二 人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕 えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださっ たのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長 させてくださる神です」(5-7節)。アポロやパウロではなく、彼らは本当の意 味で神に思いを向けなくてはならなかったのです。その神は成長させてくださっ た神であり、成長させてくださる神です。

 私たちはには確かに多くの求めがあります。神に対しても人に対しても、様々 な願いや求めがあります。しかし、私たちは何よりもまず、成長することを求め なくてはならないのでしょう。成長させてくださる神が、私たちを成長させてく ださることを願い求めましょう。乳飲み子状態にあるならば、肉の人の状態にあ るならば、本当の意味で成熟した大人になること、霊の人になることを求めましょ う。現実の教会生活の中で神様が御心を求めて生きることを訓練してくださるこ とを求めましょう。

 
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