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「罪の海洋投入処分」

2008年6月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ミカ書 7章18節~20節

 廃棄物などを海に沈めて処分することを「海洋投入処分」と言いますが、聖書は「罪の海洋投入処分」について語っています。今日の第一朗読において読み上げられた言葉です。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(19節)。私たちが信じている神様は、私たちのすべての罪を海洋投入処分してくださる神様です。どんな大きな罪であっても海の深みに投げ込んでくださる神様です。「すべての罪を」と書かれていますから。私たちが自分で投げ捨てるのではありません。私たちが「もう忘れてしまおう」と言って私たちが捨てるのではない。神様御自身が「あなたの罪は海の底へ!」と言って投げ捨ててくださるのですから、その処分は完全です。海の深みに沈められるので、永遠に戻って来ないのです。神様が罪の赦しを宣言してくださるとはそういうことです。これが教会の伝えてきた「罪の赦し」です。

主は我らの中におられる?

 そのような罪を海洋投入処分してくださる神様について語っている言葉が、ミカ書の最後の部分に置かれています。これがミカ書の中で語られているということが、実はとても重要なことです。神様による罪の海洋投棄がいったい何を意味するのかを知るためには、一度預言者ミカの時代まで遡ってみる必要があるのです。

 預言者ミカは、紀元前8世紀にユダ王国で活動した預言者でした。同時代人で有名なのは預言者イザヤです。1章1節には「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」と書かれています。それはどのような時代であったかと言いますと、ひとことで言えば、繁栄と平和の後に訪れた混乱と危機の時代であったと表現することができます。

 ミカは南のユダ王国の預言者ですが、北のイスラエル王国ではヤロブアム王の死後、王の暗殺とクーデターが相次ぎました(列王記下15:8以下)。そのように王国の末期的症状を呈しながら、最後はアッシリアに滅ぼされてしまいます。サマリアが陥落したのは紀元前722年のことでした。

 一方、南のユダ王国は度重なる国難を経験することになります。アハズの時代にはアラムとイスラエルの連合軍が攻めてきました。この時、親アッシリア政策を取ることによってかろうじてユダは生き延びます。(この政策に関して激しく反対したのはイザヤでした。)その後、反アッシリア政策をとったヒゼキヤの時代、その治世の14年目(紀元前701年)に、アッシリアの王センナケリブはユダに攻め上り、ユダの町々をことごとく占領していきました。まさにエルサレムだけが残された、危機的状況に陥るのです

 さて、そのような北イスラエルの滅亡、南ユダの危機を背景に預言者ミカは神の言葉を語ったのです。ミカ書の前半部分は主にイスラエルとユダに対する裁きの預言が語られています。例えば、主はサマリアに対してこう言われました。「わたしはサマリアを野原の瓦礫の山とし、ぶどうを植える所とする。その石垣を谷へ投げ落とし、その土台をむき出しにする。 サマリアの彫像はすべて砕かれ、淫行の報酬はすべて火で焼かれる。わたしはその偶像をすべて粉砕する。それは遊女の報酬から集めたものだから、遊女の報酬に戻される」(1:6‐7)。実際にどうなったでしょう。先ほど触れましたように、現実にサマリアは陥落し、北王国は滅びていきました。

 北王国が滅びていった。それは南のユダ王国にとって、神の警告ではなかったでしょうか。ミカの語りかけは北王国に向けられたのではなく、南のユダをも含む全イスラエルに向けられたものだったのです。ユダの人々は、特に民の指導者たちは、こぞってミカの言葉に耳を傾けるべきではなかったでしょうか。裁きを語る言葉というのは、悔い改めへの呼びかけでもあるのです。神が罪を明らかにする時には、立ち帰ることを求めてそうされるのです。

 実際、ミカの言葉に耳を傾けた人たちはいました。ヒゼキヤという王もその一人でした。 しかし、なお多くの人はミカの言葉に耳を傾けませんでした。彼らは「たわごとを言うな」と言ったのです。2章6節以下に人々の言葉が記されています。「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」(2:6‐7)。要するに彼らは、「わたしたちはヤコブの子孫だぞ、神に選ばれた民族だぞ。呪われた他の民族と一緒にするな。『主は憐れみ深く、怒ること遅く、忍耐強い』ということを聞いたことはないのか。主は気短な方じゃない。昔から『主の御業』と言ったら救いの業のことなんだ。災いを降したりすることが主の御業であるはずがない。馬鹿げたこと言うな」と言って、耳を貸さなかったのです。

 国家が危機的状況にあるならば、「この国は滅びることになる」と語るミカと、「たわごとを言うな」と言う人たちと、どちらが信仰的に見えたかと言えば、それは明らかに後者であったであろうと思います。そのコントラストがよく現れているのは3章9節以下です。「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち、イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ流血をもってシオンを、不正をもってエルサレムを建てる者たちよ。頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない』と。それゆえ、お前たちのゆえに、シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」(3:9‐12)。

 人々の支持を集めたのは、「金を取って託宣を告げる」預言者たちの方であったに違いないのです。「主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない」。こちらの方がよほど信仰的に聞こえるでしょう。そして、実際にどうなったでしょうか。エルサレムは生き延びたのです。アッシリアが攻めてきた時、奇跡的に助かったのです。「シオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」とミカは言いました。しかし、そのようなことは、ミカが生きている間には、ついぞ起こらなかったのです。

 「ミカの嘘つきめ!偽物の預言者め!」そう言われても仕方ないでしょう。にもかかわらず、そのミカの預言の言葉がこうして残っているのです。不思議だと思いませんか。なぜ、ミカの預言の言葉が残っているのでしょう。――少数かもしれないけれど、ミカの言葉を本気で受け止めて、心に留めて、それを伝えてきた人たちがいたということです。「ミカを通して語られた神の言葉は真実だ。悔い改めなければイスラエルは滅びる。エルサレムは本当に瓦礫の山となる。」そう思って、百年以上の長きに渡って伝えてきた人たちがいたのです。

あなたのような神が他にあろうか

 そして、ミカの時代から百年以上経った紀元前6世紀、バビロニアによってエルサレムは陥落せられ、城壁は破壊され、神殿は焼き払われ、まさにミカが語ったことが実現したのでした。神様の裁きの預言が語られ、それでも民は悔い改めず、その結果災いが降ったとなれば、それは何を意味しますか。それは普通に考えるならば、「もう終わり」でしょう。「ついに神に見捨てられた」ということになるではないですか。

 もしそのように絶望する人たちしか残っていなかったら、このミカの預言の言葉も残らなかったことでしょう。「神に見捨てられた」が結論なら、預言の言葉を持っていても意味がないのですから。しかし、実際にはそうならなかったのです。そこには目が開かれた人たちがいたのです。それまで伝統的な言葉として伝えられてきた言葉、何度も聞かされてきた信仰の言葉、例えば「罪を赦される神」とか「神は慈しみを喜ばれる」という言葉に目が開かれた人たちがいたのです。それがどれほど重い意味を持つかということを悟ったのです。国家の滅亡という大きな苦しみを通して、自分たちの罪の大きさを知り、本来ならばとうの昔に神から見捨てられていても仕方のない自分たちであることを知った時に、神の赦しの大きさに目を開かれることになったのです。

 それゆえに彼らは「あなたのような神がほかにあろうか」と驚きをもって語っているのです。実は、この問いかけは、イスラエルに古くから伝えられてきた一つの歌の中に見い出されるものです。「海の歌」と呼ばれるもので、出エジプト記15章に記されています。イスラエルのエジプト脱出における、あの葦の海での出来事をうたった歌です。その物語についてはご存じでしょう。エジプトから脱出したイスラエルの民をエジプト軍が追ってきた。前には葦の海、後ろはエジプト軍。万事休すという時に、葦の海が二つに分かれたという話です。イスラエルの人たちは、海の中に出来た道を通って行きました。その後に追ってエジプト軍が海に入ると、彼らの上に水が流れ返り、エジプト軍は海に沈んでしまいました。その時のことを、「海の歌」ではこう歌っています。「主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み、えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。深淵が彼らを覆い、彼らは深い底に石のように沈んだ」(出エジプト15:4‐5)。

 エジプトにおいて奴隷であった時、イスラエルの民は確かに悲惨であったと言えます。不幸であったと言えます。しかし、それ以上に、罪の奴隷であること、神に背き続けているということは、もっと悲惨で不幸なことなのです。主はエジプトの支配からイスラエルの民を解放した時、エジプトの勢力を海の深みに投げ込みました。しかし、主が本当に海の深みに投げ込みたかったのは、罪の支配なのです。主はファラオの軍隊を征服し、海に投げ込む以上に、彼らの咎を征服し、罪を海の深みに投げ込んでしまいたいと願っておられたのです。ミカ書を今の形にまとめた人たちは、主がそのような神であることを知るに至ったのです。ですからその結論部分にこう書き記したのです。「あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」。

 「我らの咎を抑え」というのは「我らの咎を征服し」という意味です。「我らの咎を踏みつけ」という訳もあります。私たちはしばしば神が《私たちを》踏みつけ、神が《私たちを》海の深みに投げ込んだかのように感じることがあるのでしょう。実際、エルサレムが破壊された時、イスラエルの民はそう感じたのだろうと思うのです。しかし、事実はそうではないのです。神は私たちの咎、私たちの不義を踏みつけ、私たちを真の悔い改めへと導き、私たちの罪を海の深みに投げ込まれるのです。

 主がそのような神であることを、主は後の日にこれ以上はあり得ない完全な仕方で現してくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。それは独り子をこの世にお送りになり、十字架にかけられるという仕方においてでありました。私たちは今、十字架にかかられた主のもとに集められています。それゆえに、私たちはより大きな確信をもって語ることができるのです。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え(踏みつけ)、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」と。

 
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