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「求めなさい」

2008年6月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 7章7節~12節

求めなさい

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)。これが今日、私たちに与えられているイエス様の御言葉です。

 イエス様は「求めなさい」と仰いました。これは「お願いしなさい」という意味の言葉です。「お願いしなさい」。誰にですか?もちろんイエス様はこの世の誰かのことを言っておられるのではありません。お願いするとしたら、それは天の父なる神様にです。ですから、これは「お祈りしなさい」ということです。「お祈り」とは、第一には「お願いすること」です。ちょうど子どもが親に願い求めるように、天の父に必要なものを願い求めることです。ここでイエス様は「求めなさい。お願いしなさい」と言うだけで、「何を求めるか」については語っておられません。ですから、ある意味で何を願ってもよいのです。「お祈り」が何であるかを知りたかったら、まずは小さな子どものようになることです。「最終的には自分だけが頼り」なんて寂しいことを言わないで、いつも天の父のことを思いながら生活し、事々に天の父にお願いすることです。今日の第二朗読で読まれたフィリピの信徒への手紙においても、パウロが次のように書いていました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)。

 その上で、私たちは第一に求めるべきこと、最も大事なことは何であるかを考えたいと思います。「願いなさい」と言われたら、願い求めるべきものは確かにいくらでもあるように思われる。しかし、やはり物事には順番があり、優先順位があるものです。まず何を求めるべきなのでしょう。実は既にイエス様が6章の終わりでこう言っておられるのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(6:33)と。

 まず求めるべきは神の国と神の義です。何を願い求めても良いのだけれど、私たちはこのことを忘れてはなりません。「神の国と神の義を求めなさい」。「神の国」とは「神の支配」と言い換えてよい。「神の義」は「神の救い」と言い換えてよいでしょう。恵み深い神様が来て支配してくださり救ってくださること。神の国と神の義をまず求めなさいとイエス様は言われたのです。

 実際、イエス様が教えてくださった祈りの中に、この祈りがありますでしょう。「御国を来たらせたまえ(御国が来ますように)」と祈るように、主は教えてくださいました。私たちは「御国に入れてもらえますように」と祈っているのではありません。「御国が来る」ことを祈り求めているのです。神の支配が来ることです。それは言い換えるならば、「御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」ということです。神が御支配くださり、神の御心が地上に成ることを祈り求めているのです。

 イエス様が言われるように、天には御心が成っています。しかし、地上には人間の罪のゆえに御心に反することが起こっています。私たちはその事実を確かに日々目にしています。人間が神に背を向けて、罪の力に縛り付けられて、罪の泥沼の中で悩み苦しんでいる姿、それは明らかに神の望んでおられることではありません。人間の罪のゆえに、夫と妻が憎み合い、親と子が殺し合い、家庭が次々と崩壊していく現実、それは明らかに神の望んでおられることではありません。イエス様は悪魔を「この世の支配者」と呼びましたが、実際にそうではありませんか。汚れた霊が、この世界のありとあらゆる領域を支配し、そのもとにあって人間の嘆きと叫びは絶えることがありません。それは明らかに神の望んでおられることではありません。確かに地上には御心に反したこと、それゆえにまた実に悲惨なことが起こっています。

 そのような悲惨な現実について、それはあなたがたの責任なのだから、あなたがたの手でなんとかしなさいとイエス様は言われません。「求めなさい」と主は言われるのです。「御国を来たらせたまえ」と祈り求めたらよいのだ、と。ならば、私たちは求めるべきなのでしょう。私たちの人生に「御国が来ますように」と祈り求めるべきです。神の国が来て、私たちを罪から解き放ち、私たちの生活を変えてくださるように、神の愛の光に満ち溢れた生活へと変えてくださるように、祈り求めるべきなのです。私たちの家庭に「御国が来ますように」と祈り求めるべきなのです。神の国が来て、共にあなたを礼拝し、あなたを愛し、また互いに愛し合う家庭となるように、祈り求めるべきなのです。家族が救われることを祈り求めるべきなのです。もちろん、教会にも「御国が来ますように」と願い求めるべきでしょう。教会こそ変わらなくてはなりません。神の支配が現れ、神の御心が実現していくところとならねばなりません。同じように、この地域社会に、この国に、この世界に、「御国が来ますように」と祈り求めるべきなのでしょう。そして、最終的にキリストの再臨と共に、この世界に神の支配が打ち立てられ、神の救いが完成することを祈り求めるべきなのです。

 そうです、私たちは神様にお願いすべきなのです。求めるべきなのです。「求めなさい。そうすれば与えられる」と主は言われるのですから。そもそも問題は求めないところにあるのです。この世の様々な問題についても、あれこれと論じているばかりで、あるいは他の人を責めるばかりで、私たち自身が一向に父なる神に真剣に求めようとはしないところにあるのです。本当の問題は私たちの無力さにあるのではありません。努力が足りないということでもありません。信じて祈ろうとはしない。求めない。そこにこそ私たちの本当の問題があるのです。

求め続けなさい

 そして、さらに言うならば、イエス様が言っておられる「求めなさい」という言葉は、「求め続けなさい」という意味合いの言葉です。諦めないで祈り続けることです。失望することなく、倦むことなく祈り続けることです。イエス様は失望しないで祈り続けることの大切さを弟子たちに繰り返し教えられました。なぜでしょう。時として神様の御業は全く進んでいないように見えるからです。また、しばしば逆行しているかのように見えるからです。そのことについて、イエス様は説明はなさらない。ただ父を信頼して祈り続けるようにと教えられたのです。

 主は言われました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(9‐11節)。諦めないで祈り続けるために必要なことは、神を「良い物をくださる」善き父として知ることです。

 実際、私たちが諦めないで祈り続ける時、その祈り続けるプロセスの中で、既に天の父からの「良い物」を受け取り始めている。そのことを私たちはしばしば経験するのです。その最も大きな一つは何でしょう。祈り続ける時に、神に向かい続ける時に、祈っている私たち自身が変えられていくということです。教会が熱心に祈り始める時、その教会自身が変えられていくのです。ある人は言いました。「祈りは神を変えるのではなく、祈る者を変えるのだ」と。まずこの良き物が与えられるのです。

 例えば、主は「探しなさい。そうすれば、見つかる」と言われましたが、そのように祈り続ける中で、私たちは「探す人」になっていきます。「探す」という言葉は、「尋ね求める」と言い換えることもできます。誰を尋ね求めるのでしょう。――神様御自身です。今日の第一朗読はエレミヤ書から読まれましたが、そこにおいて私たちは次のような言葉を聞きました。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ29:12‐14)。私たちは当初は「祈って何が起こるのか」ということにしか関心がないかもしれません。しかし、祈り続ける中で、私たちは心を尽くして神様御自身を求めるようになるのです。そして、神様と本当の意味で出会うのです。

 さらにイエス様は「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とも言われました。そのように祈り続ける中で、私たちは「門をたたく人」にもなっていきます。神様と出会い、神様をまことの父として知っていき、その父こそが現実の門を開いてくださる御方であることを知っていく時、人は自らの手で「門をたたく人」になっていくのです。すなわち、そこに行動が生まれるのです。その人は勇気をもって具体的な一歩を踏み出す人に変えられるのです。それは同じ行動を起こすのであっても、自分の力で門をこじあけようとする行動とは明らかに異なります。門をたたく人ならば、その行動に伴っているのは苛立ちと焦燥感ではなくて、期待と喜びです。門を開けるのは自分ではなく神様であることを知っている人が門をたたくのですから。

 そのように祈り続ける中で、私たちは変えられていきます。既に良き物を受け取り始めているのです。そして、やがて天において成っているすべての良きことが地上においても完全に実現することを期待して、喜び待ち望むのです。

 そして、私たちは最後に、とても大事な事実に目を向けなくてはなりません。すなわち、「求めなさい」と言われたイエス様は、自ら父に求めて、御心が天になるごとく地にもなることをひたすら求めて、そのために自らを献げて十字架へと向かわれたということです。「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とイエス様は言われました。これは本当は驚くべき言葉なのです。どうして神が私たちの「天の父」なのですか。どうして「天の父」と呼べるのですか。この地上において、神をないがしろにし、神の御心に逆らって生きてきた私たちが、どうして事も無げに神を「天の父」と呼べるのですか。本来ならば、「良い物をくださるにちがいない」ではなくて、「あなたたちは自らの罪に相応の報いを受けるに違いない」と言われても仕方がないのでしょう。そのような私たちが、安心して神を「天の父」と呼ぶことができるとするならば、それは一重にキリストが私たちの罪を贖ってくださったゆえなのです。

 いわばキリストは御自分の命を献げて、私たちが「天の父よ」と祈れるようにしてくださったのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」この言葉には、キリストの命の重さがかかっているのです。そのような言葉を、私たちは与えられました。どうしたらよいのでしょう。父に求めるべきなのでしょう。神の国と神の義を求めて生きるべきなのでしょう。御心が天に成るごとく地にも成ることをひたすら求めて生きるべきなのでしょう。キリストが十字架にまでかかってくださったのに、私たちは簡単に諦めてよいのでしょうか。祈ることに倦み疲れていてよいのでしょうか。良いはずがありません。求め続けましょう。探し続けましょう。門をたたき続けましょう。

 
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