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「バベルの塔」

2008年5月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記 11章1節~9節、使徒言行録2章1節~13節

 本日の第一朗読では「バベルの塔の物語」が読まれました。物語に登場するのはシンアルの平野、すなわちバビロニアに移住した人々です。彼らは言いました。「れんがを作り、それをよく焼こう」。彼らは石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いるようになりました。新しく手に入れた技術をもって、彼らは一つのことを企てます。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(4節)と。

神の望まれない一致

 まず、この「天まで届く塔のある町の建設計画」について考えてみましょう。それはいったい何を意味するのでしょう。彼らが造ろうとしていたのは高い塔です。それは天にまで達するほどに高い塔です。「天」とは神の領域です。彼らは神の領域に達するほど高いものを造ろうとした。何のためですか。その目的は「有名になるため」であったと書かれています。「有名になる」と言いましても、ここで彼らが求めているのは、単に多くの人々に知られることではありません。「有名」とは「名が有る」と書きますが、ここで用いられているのは「名を作る」という表現です。特別な名前を持つようになること、他の人々にまさる名を持つようになるためです。

 それは要するに、他の人よりも高くなりたい、上になりたい、他の人から見上げられる存在になりたい、ということです。天にまで達し、神の領域にまで達するならば、それ以上高いものはないのですから、他の人々をすべて見下ろせるようになります。いや、見下ろすだけではありません。他の人々よりも上に立とうとするのは、他の人々を支配するためでもあります。周りの人々に動かされるのではなくて、周りの人々を支配して動かせるようになりたい。そのためには高い塔を建てて、力を示し、他の人にまさる名を持つものとならねばなりません。それが「天まで届く塔のある町の建設計画」の目的です。

 そして、そこにはさらに深い意図がありました。彼らは言うのです。「そして、全地に散らされることのないようにしよう。」周囲の人々にまさる名を持ち、周囲の人々よりも上に立ち、支配される側ではなくて支配する側の人間になるのは、「散らされることのないように」するためだと言うのです。人が他の人よりも上に身を置こうとする行動、上であることを誇示しようとする行動は、往々にして恐怖や不安、劣等感の裏返しです。彼らは恐れているのです。他の強い人々によって我々は散らされることになるかもしれない、と。自分たちのアイデンティティは永遠に失われてしまうかもしれない、と。

 彼らの思いは分からないでもありません。力がものを言う社会においては、弱い集団は常に強い集団によって脅かされています。相手に太刀打ちできなければ逃げるしかありません。その結果住んでいた場所を追われ散らされるということも起こってまいります。そのように自分の生活の場を奪われ、追い散らされてさまようことになる。それは古代社会だけでなく現代にも起こっていることです。

 実際、彼らは「東の方から移動してきた人々」であったと書かれています。東方の土地を追われてきたのかもしれません。ならば、もう二度と追い出されないためには、そして散らされないためには、支配する側にならなくてはなりません。周りの人々よりも上にならなくてはなりません。上であることを実力をもって示さなくてはなりません。

 また、他の人よりも上になり、他の人から見上げられる存在となり、他の人を見下ろせる者となり、さらには他の人々を支配する側に立つようになるという目標は、いつでも魅力的なものです。人々の心を引きつけます。人々の心を一つにします。その背後に不安や恐れがあるならなおさらです。これを実現しなかったら散らされてしまう。自分たちのアイデンティティを失ってしまう。そのような恐れは人々を一致団結させます。さらにそこに怒りや憎しみが加わればなおさらです。憎しみは人々を一致団結させるのです。

 周囲の人々が見上げるような、天まで届く塔のある町を建てよう。さらには周囲の人々が脅威を覚えるような、天まで届く塔のある町を建てよう。その目的のために、彼らが一丸となって働いたであろうことは想像できます。そうです。もはや何ものもこの計画をストップさせ得ないほどに、彼らは一致団結して、目標に向かってまっしぐらに進んでいたのです。

 ところが、結局はその「高い塔のある町の建設計画」は失敗に終わったと聖書は伝えているのです。周囲の人々の圧力によって計画が挫折したのではありません。彼らが弱いために周りの民によって追い散らされた、というわけでもありません。なんとその原因は彼らの言葉が混乱し、互いに言葉が通じなくなったためだと言うのです。この計画は、外からの力によって妨げられたのではなくて、内部から崩壊したのです。そして、そもそも散らされないための計画であったはずなのに、結局彼らは自ら散っていくことになるのです。

 さて、興味深いことは、この混乱が神によってもたらされたと語られている点です。5節以下を御覧ください。「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」(5‐8節)。

 神様が自らこの計画を妨げられました。これは何を意味するのでしょう。神はこのような一致の仕方を喜ばれない、ということです。他の人々から見上げられる存在となるために、力を誇示するために一致団結すること、他の人々を支配するために一致団結することを、神様は喜ばれない。その背後にある劣等感に動かされて一致団結すること、恐怖や不安に動かされて一致団結すること、怒りや憎しみに動かされて一致団結することを、神様は喜ばれない。なぜですか。そのような一致団結が、しばしば周りの人々を不幸にするからです。苦しめることになるからです。呪いの源になるからです。

 そのような実例は枚挙にいとまがありません。国家レベルの事柄から私的な小さな集団に至るまで、人はいつでも何らかの形において「高い塔のある町」を求めてきたのです。そして、教会もまた例外ではありませんでした。自分たちのために、「天まで届く塔のある町」のような教会を望む時、教会は救いをもたらすものではなく、周りを不幸にし破壊する存在となるのです。

 神様はそのような一致団結を喜ばれません。ですから、神様は自ら妨害をなさいます。私たちは、人間から出た一致団結が、外からの圧力によってではなく、しばしば内部から崩壊することを知っています。その崩壊は言葉の混乱によって起こります。互いに言葉が通じなくなるのです。今日お読みした物語では、彼らが互いに聞き分けられない《異なる言語》を話すようになった、という話になっています。しかし、言葉が通じなくなるのは、必ずしも異なる言語を話す場合だけではありません。同じ言語を話しながらでも意思の疎通が不可能になることはいくらでもあります。混乱が生じます。誤解が生じます。そして、互いに袂を分かち、散っていくことになります。これを聖書は、「主は彼らをそこから全地に散らされた」と表現するのです。主がなされたのだ、と。それはあくまでも人間のためなのです。

神の望まれる一致

 しかし、話はそこで終わりません。神様が本当に望んでいることは、混乱させることでも、散らすことでもないのです。そうではなく、本当に人間が一つとなることを望んでおられるのです。神が望んでおられる一致とは、他の人々よりも上に立つために一つとなるのではなく、自らの力を誇示するために一つとなるのでもなく、他の人々を支配するために一つとなるのでもなく、恐怖や不安にかられて一つになるのでもなく、怒りや憎しみによって一つになるのでもありません。そうではない仕方で一つになることを神は望んでおられるのです。

 そのことを示しているのが、今日お読みしましたもう一つの聖書箇所です。今から約二千年前のある五旬祭における出来事を伝えている聖書箇所です。こう書かれています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2・1‐4)。

 あのバベルの塔の物語のように、彼らは突然、「ほかの国々の言葉」で話しだしたのです。互いに異なる言葉で話しだした。しかし、そこにあったのはバベルの混乱ではなく、一致だったのです。そこに人々が集まってきました。彼らの姿を見た人々は、こう言って驚嘆したのです。7節以下を御覧ください。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(7‐11節)。

 そこに見られたのは人間が自分たちの偉大さを誇示するための一致ではありません。そうではなくて、「神の偉大な業」を誉めたたえるところで一つになっていたのです。さらに言いますならば、「神の偉大な業」とは、イエス・キリストの十字架と復活を通してなされた神の救いの御業のことです。彼らはイエス・キリストによる救いを語ることにおいて一つとなっていたのです。人間の手による高い塔の周りにおいて一つになるのではなく、低くなられて十字架にまでおかかりになったイエス様の周りにおいて一つになっていたのです。周りを支配するために一つになろうとしていたのではなく、この世に仕えるために一つになっていたのです。人間の誇りや恐れや怒りによって一つになっていたのではなく、祈り求めて与えられた神の霊によって一つになっていたのです。

 このようにして教会の歴史、宣教の歴史は始まったのです。その歴史の流れの中に、頌栄教会もあるのです。ならば、私たちは「天まで届く塔のある町」のような教会を求めるのではなく、神の霊によって一つとされた、神の偉大なる御業をほめたたえることにおいて一つとされた、あのペンテコステの日の弟子たちのような教会の姿を求めていこうではありませんか。

 
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