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「エリヤとエリシャ」

2008年5月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 列王記下 2章1節~15節

エリヤとエリシャの別れの日

 今日の第一朗読にはエリヤという人が登場しました。彼はモーセと並んで旧約聖書を代表する人物の一人です。彼は紀元前9世紀にイスラエルにおいて活動した預言者でした。預言者というのは、神の言葉を告げ知らせる人です。預言者は誰に対しても神に遣わされた者として神の言葉を語ります。神が遣わされるならば、王に対してもはばかることなく神の言葉を語ります。それが王に対する叱責の言葉であっても、国家に対する裁きの言葉であっても、はばかることなく語ります。ですから預言者はしばしば政治的な権力と衝突することになります。相手が神に従おうとしない王であるならば迫害を受けることになります。

 エリヤが預言者として活動を開始したのは、イスラエル分裂後7代目の王、アハブの時代でした。この王の時代は主の預言者たちにとって、まさに受難の時代でした。と言いましても、主の預言者たちを憎み、迫害を指示したのは王自身ではなく、その后イゼベルであったようです。実際に彼女が主の預言者たちを切り殺したことを聖書は伝えています(列王記上18:4)その時には、宮廷長のオバドヤという人が主の預言者たちをかくまい、かろうじて100人が生き残ったのでした。そのような時代に、他の預言者たちを指導し、自ら神の言葉を語り続け、神の御心に背いた王国に立ち向かったのが、このエリヤでした。エリヤの物語は列王記上17章から書かれていますので、どうぞお読みになってください。

 本日、エリヤと並んで登場しますもう一人の人物はエリシャです。エリヤとエリシャの出会いは、列王記上19章19節以下に記されています。「エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った」(列王上19:19)。エリシャはもともと農夫でありまして、その時は畑を耕していたのです。エリヤは、彼のそばを通り過ぎる時、黙って自分の外套を彼に投げかけました。言葉は交わされずとも、エリシャはすぐに悟りました。自分が預言者として召されていることを。エリシャは牛を捨て、エリヤの後を追います。「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」とエリシャは言いました。エリヤは言います。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。わたしが招いたのではなく、神があなたを召し出したと本当に信じるなら、着いて来なさい。要するに、そういうことでしょう。それは覚悟して従いなさい、ということでもあろうかと思います。もちろんエリシャはそのつもりでした。神が呼んでおられる。それゆえに、預言者としての訓練を受けるため、彼はエリヤに従い、エリヤに仕えたのです。これがエリヤとエリシャの出会いでした。

 しかし、出会いがあれば別れがあります。この世における交わりは永遠ではありません。今日朗読されましたのは、エリヤの人生最後の日を伝える聖書箇所です。エリヤとエリシャの別れの時は近づいておりました。それは通常の言葉で言うならば「死別」ということになるのでしょう。しかし、今日の箇所に見るように、エリヤは死を見ることなく天に移された者として伝えられています。いずれにせよ、エリシャはエリヤが取り去られる時が近いことを予感していました。ですからこの日も、ギルガルに残るようにと言われても、エリシャはエリヤを離れようとはしませんでした。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません。」そう言ってエリシャはひたすらエリヤについていくのです。

 エリヤが向かった先は、ベテルとエリコでした。そこには預言者の仲間たちがいたのです。迫害を生き延びた人々です。またそこにはいわば「預言者学校」と呼べるようなものがあったのだろうとも言われます。今日で言うならば神学校でしょう。いずれにせよ、そこには主への熱心に燃えた人々が集まっていたのです。彼らは、エリヤが世を去った後、なおも苦難の時代を預言者として生き抜かなくてはなりません。既にアハブは世を去りました。しかし、イゼベルは依然として王の母として君臨しています。彼らは主の言葉を語り続けなくてはならない。そのような人々を心にかけ、彼らを力づけるために、エリヤは足を運んだのでした。世を去ろうとしている者が、世に残る者に、最後の言葉を与えるために。

 このエリヤの姿は最後の晩餐の席のイエス様の姿と重なってまいります。ヨハネによる福音書はこう伝えています。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)。そして、主はその席において語られた一連の話を次のように締めくくられたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(同16:33)。

 エリヤはベテルとエリコの預言者たちに、あからさまに別れを告げたわけではないでしょう。しかし、共に主に仕える彼ら、心が主によってエリヤと結ばれている彼らは、はっきりとその時が来ていることを悟ったに違いありません。主はエリヤをこの世から取り去ろうとしている。もう二度とお会いすることはないだろう、と。ですから彼らはエリヤに最も身近に仕えていたエリシャに語りかけます。「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」。エリシャは答えます。「わたしも知っています。黙っていてください」と。

 いつかはこの日が来る。分かっていたのです。自分が召されたのは、エリヤが世を去った後にもなおも主の言葉が語り続けられるためであると、エリシャはよく知っているのですから。しかし、この世における別れはなんと悲しく辛いことか。「わたしも知っています。黙っていてください」。わが師と別れねばならないエリシャの苦しみが伝わってまいります。

エリヤの神、主はどこにおられますか

 エリヤとエリシャは、そのようにベテルとエリコを訪問した後、ヨルダンのほとりにたどり着きました。そして、「エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った」(8節)と書かれています。かつてイスラエルはこのヨルダンを渡って約束の地に入り、そこに王国を築き上げたのでした。しかし、今エリヤは、そのヨルダンを逆に渡っていきました。それはエリヤが、いわばイスラエルの歴史の外へと歩み出ることを象徴するような行為でした。エリヤは神から与えられたイスラエルに対する責任を解かれたのです。エリヤの時代は終わりました。

 そのことをはっきりと示した上でエリヤはエリシャに尋ねました。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい」。エリシャは答えます。「あなたの霊の二つ分をわたしに受け継がせてください」(9節)と。律法によれば親の財産を分与される時、長子は二倍の分け前を得ます(申命記21:17)。エリシャが「霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った時、彼は長子としてエリヤを受け継ぐこと、霊的な後継者とされることを求めたのです。

 もともとエリシャがエリヤの後継者であることは、誰の目にも明らかでした。しかし、エリシャはそれで満足しなかった。真にエリヤの働きを継続するために、自らが霊的に備えられることを求めたのです。エリシャには分かっているのです。エリヤがしてきた戦いは、ただ上よりの力による戦いであったということ、神の霊による戦いであったことを。そのようにエリヤの内に働いていた霊を、「わたしにも受け継がせてください」とエリシャは願ったのです。

 エリヤは答えました。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない」(10節)。真にエリヤの後継者となるためには、見るべきものがある、と言うのです。見るということは悟るということでもあります。何を悟らなくてはならないのでしょう。何を見なくてはならないのでしょう。エリヤが「取り去られる」ということです。「取り去られる」とは、その後に見るように、「天に上げられる」ということです。これは単なる悲しい別れなのではなくて、エリヤは神によって取り去られるのだ。天に上げられるのだ。天に上げられたエリヤの業が継続されなくてはならないのだ。そのことをエリシャは見て悟らなくてはならないのです。それを悟ってこそ、本当の意味でエリヤの後継者となることができるのです。

 そして、その意味において確かにエリシャは「見る」ことになりました。「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」(11節)。エリシャは叫びます。「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」。そう叫んで彼は衣を引き裂きます。それは悲痛な叫びでした。彼は嘆き叫びました。しかし、エリシャだけに見えたこの出来事を通して、彼は、エリヤが確かに神の御心によって取り去られたこと、そして天に上げられたことを悟ったのです。見たのです。

 ですから、エリシャは別れの嘆きの中に留まってはいませんでした。彼の上にエリヤの外套が落ちてきたのです。あの時、エリヤが投げかけてくれたあの外套です。彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ちました。エリヤの外套を取って水を打って、彼は叫びました。もう彼は「エリヤはどこに行ったのですか」とは言いません。エリヤは天に上げられたことが分かっているからです。エリヤの外套で水を打ったエリシャは叫んだのです。「エリヤの神、主はどこにおられますか」。すると、あの時と同じように、水が左右に分かれた。それが答えでした。エリヤの神、主は共におられる。エリヤの霊はエリシャの上にとどまっているのであり、エリヤを通して働かれた主は、エリシャを通しても働いておられる。そのことが示されたのです。彼は分かれた水の間を通って、再びヨルダンの西側に渡ります。彼は勇気をもってイスラエルの歴史の中に入っていくのです。神の言葉を伝えるために。

キリストの昇天を覚えて

 さて、このエリヤとエリシャの物語がこの日曜日に読まれたのには理由があります。実は、教会の暦によりますと、ペンテコステの一週間前の今日は「キリストの昇天」を覚えて礼拝を捧げる主日だからです。弟子たちは、キリストが十字架にかかられたこと、そして三日目に復活したことだけでなく、復活したキリストが天に上げられたことを語り伝えました。ちょうどエリヤが天に上げられるのをエリシャが見たように、キリストが天に上げられるのを弟子たちは見た。そのことを語り伝えたのです。それはエリシャに起こったことが、キリストの弟子たちにも、つまり教会にも起こっているのだということを伝えるためです。

 エリヤは目に見える姿では共にいなくなりました。しかし、エリシャはエリヤの霊を受け継いで、エリヤの働きを続けたのです。エリヤを通して働かれた主は、エリシャを通しても働かれたのです。同じように、キリストは目に見える姿でこの地上を歩まれることはありません。しかし、弟子たちは悲しみませんでしたし、私たちも悲しんではいません。キリストは天に上げられたことを知っているからです。そして、キリストの霊が私たちに宿ってくださり、神の愛を現し人間を救うキリストのお働きは地上において続けられているからです。

 来週は聖霊降臨祭です。キリストの霊である聖霊の満たしを求めましょう。それは私たち自身のためではありません。私たちはエリシャの位置にいるのです。天に上げられたキリストが地上において働きを続ける体であるために、私たちを通してキリストの御業が現れるために、聖霊の満たしを求めましょう。

 
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