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「神による内的な変化」

2008年4月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章13節~25節

律法によって

 今日の第二朗読で読まれたガラテヤの信徒への手紙には、「霊」と「肉」という言葉が繰り返されていました。ここで語られている「肉」とは「肉体」のことではありません。この「肉」とは、人間として共通に持っている罪深い性質のことです。

 野生の虎を思い描いてみてください。その虎を町中に野放しにしたら大変なことになります。その本能にまかせて何をしでかすか分かりません。それと同じように、私の内には、本当に何の制約もなく野放しにされたら何をしでかすかわからない「わたし」がいます。皆さんにおいても同じでしょう。それが「肉」と表現されているものです。実際、「肉」を野放しにしたら「肉」は何をしでかすのか、その肉に従って生活したら、どのような生活になってしまうのか、そのリストが19節に挙げられています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(19‐21節)。

 ここに書かれていることは、一つ一つ特に説明はいらないでしょう。たしかにこれが「肉の業」だと言えば、本当にそのとおりだと思います。そして、そのような「肉」が野放しにされて、自由にその「肉の業」を行うようであってはならないし、この「肉」に従って生活してはならないということは、誰にでも分かることです。そのように生きて絶対に幸せにはならない。いやそれどころか、それは滅びへと向かう生活となる。それも分かっています。

 ですから、虎を鎖でつなぎ止めたり、檻に入れたりするように、私たちも「肉」をつなぎ止めたり、押さえ込もうとするのです。ユダヤ人にとりましては、まさにその機能を果たしていたのが「律法」だったのです。彼らにとって律法を与えられているということは実に安全なことだったのです。それを遵守するということは身を守ることでもあったのです。 それはユダヤ人でない私たちであっても、容易に理解できることでしょう。例えば様々な規則や法律を考えてみてください。確かに、様々な規則や国家の法律は、虎が野放しになって肉の業を行わないための鎖となっています。もちろん、私たちはただ規則があるからというだけで、自らを規制するわけではありません。もう一方において、私たちはそれなりに正しくあろうとする意志を持っているわけです。私たちは自分の意志の力をもってある程度、肉を押さえ込んでいるわけです。

 そのようにユダヤ人たちは、与えられているモーセの律法によって、また律法を遵守して生きようとする意志によって、肉の活動をつなぎ止め、あるいは閉じ込めてきたのです。少なくとも自分たちはそう思っていたのです。ですから、当然のことながら、キリストを信じた後でも、やはり律法を遵守することは大事なことだと考えるユダヤ人クリスチャンはいたのです。いや、ユダヤ人クリスチャンである自分たちだけが律法を守るのではなく、教会の中にはユダヤ人以外の異邦人クリスチャンもいるのだから、彼らにも律法を守らせるべきだと考える人たちがいたのです。

 分かるような気がしませんか。ユダヤ人から見るならば、モーセの律法を持っていない異邦人の世界は、それこそ「肉」の世界なのです。虎が放し飼いにされているような世界に見えるわけです。そのようなところからキリストを信じた連中が、そのままであってよいはずがない。肉が野放しのままで良いはずがないと思うのは当然でしょう。もちろん、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされるのだ」とパウロは宣べ伝えていたのです。ガラテヤの信徒たちはそれを聞いているのです。しかし、もう一方において、パウロはそう言っているけれど、そんなことを言っていたら大変なことになると思っていたユダヤ人の教師たちがいた。そのようなユダヤ人クリスチャンがガラテヤの教会の中で異邦人たちに割礼を受けることと律法の遵守を求めていたのです。そして、そのような教師たちの影響を受けた人たちが少なからずいたのがガラテヤの教会だったのです。

 そのように律法が重んじられ、律法の遵守によって神の御前に義しい者となろうと思っている人が少なからずいた教会、そしてそのような律法を遵守して生きようとする意志の力によって「肉」は確実に押さえ込まれているはずの教会であるはずでした。しかし、今日お読みした15節に書かれているように、そこにパウロが見ていたのは、「互いにかみ合い、共食いしている」ような人々の姿だったのです。26節にもこう書かれています。「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」変な話だと思いませんか。敵意や争いやねたみなどは、それこそ「肉の業」であったはずです。律法によって、人間の意志の力によって、外側から肉を押さえ込もうとしていった時に、かえって「肉の業」が表に現れる結果となってしまったのです。

 いや、「変な話だと思いませんか」と言いましたが、実はこのようなことは、さほど珍しいことではないだろうと思います。いくらでも想像することができます。規則によって義務を課すことによって秩序を保とうとする人たち、人間の意志の力によって正しくあろうとする人たちが多くなればなるほど、そこには争いと対立が起こりやすくなる。そねみや怒りが支配するようになる。恐らくパウロにとってそんなことは分かり切ったことだったのだと思います。パウロ自身、かつてファリサイ派に属し、律法を落ち度無く守ってきた人でしたから。それは福音書を読んでも分かります。イエス様の周りに登場するファリサイ派の人たちの姿、どうですか。文句ばかり言っています。怒りと殺意に燃えてイエスを亡き者にしようと企みます。これが神様の望んでいる姿であるはずがない。

 確かに「肉」を野放しにしてはならないのです。しかし、律法によって、人間の意志の力によってこれをつなぎ止めておこうとすると、どうしてもそこは喜んで互いに愛し合って生きる世界にはならなくて、怒りをもって互いに裁き合う世界となってしまうのです。かえって「肉の業」が現れるようになってしまう。神様の望んでいる姿にはならないのです。ならばどうしたらよいのでしょう。

霊に従って歩む

 そこでパウロは言うのです。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(16節)と。律法によるのではない、しかも肉を野放しにするのでもない、もう一つのあり方がある。それは霊の導きに従って歩むことである。そうパウロは言っているのです。律法によらずとも、霊の導きに従って歩むなら、肉の欲望を満足させるような仕方で、肉に従って生きることにはならないのだ、と。

 ここで言われている「霊」とは、人間の霊のことではなく、神の霊、聖霊のことです。パウロが語っているのは、律法を遵守して自分の意志の力によって肉を克服しようとする生き方に対して、ひたすら聖霊の支配を求め、生ける主との交わりに生き、主の導きによって生きることです。この二つは決定的に異なる信仰生活のあり方なのです。

 さて、聖霊降臨祭が近づいてきました。それはご存じの通り、今からおよそ二千年前の一つの出来事に由来する祭りです。復活したキリストは弟子たちにこう言われました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒1:4‐5)。また、こうも言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(同8節)。弟子たちはどうしましたか。ひたすら祈り求めました。聖霊が降るのを待ち望みました。そして、ペンテコステというユダヤの祭りが行なわれていたその朝、彼らが集まって祈っているところに聖霊が降りました。その出来事を記念するのが「聖霊降臨祭(ペンテコステ)」です。今年は5月11日です。なぜ毎年、聖霊降臨祭を祝うのでしょう。教会の歴史は人間が人間の力によって始めたのではないことを思い起こすためでしょう。聖霊のお働きによってすべては始まったのであり、聖霊のお働きが私たちの信仰生活においても教会形成においても決定的に重要であることを思い起こすためでしょう。

 あの日、天から降った聖霊は、今もこの地上において生きて働いておられます。そして、キリストを信じる者の内に住んでくださいます。ですから、私たちは教会生活を、ただ良い教えを学んでそれを実践していくことであるかのように考えてはなりません。私たちはキリスト教的な規範によって生きるのではなく、聖霊によって生きるのです。私たちは生ける神の霊が私たちの内に宿り、私たちの心と体と生活を完全に支配し、私たちを導いてくださることを求めて生きるのです。

 私たちが聖霊の支配を求めて生き始めると、いった何が起こってくるのでしょう。17節以下にこう書かれているとおりです。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(17節)。いわば私たち自身が戦場となるのです。肉と霊との戦いの場となるのです。私たちの内には葛藤が生じます。それまで肉に従って喜んで行っていたことが苦しみとなります。悲しみとなってまいります。キリスト者となった後に、自分の罪深さに悩んだり、涙を流すようになることを驚いてはなりません。それは当然のことなのです。肉に対立する聖霊が来られたのですから。それは通らざるを得ないプロセスなのです。そこで聖霊による歩みを放棄してはならないのです。信仰生活を放棄してはならないのです。そのプロセスを経て、肉は支配力を失い、肉の望むところに反する聖霊が支配するようになるのです。

 それは律法のように外側から課せられた変化ではありません。神が聖霊によって内側から起こされる変化です。そのような神による内的変化を、パウロは「霊の結ぶ実」と表現しています。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(22‐23節)。特に、肉については「肉の業」と言われていたのに対し、霊については「霊の結ぶ実」と語られていることに注意してください。実は私たちが作るべきものではなくて、《実る》ものです。実というものは命から生ずるのです。

 「霊の結ぶ実は愛である」と書かれています。私たちは、何らかの規範や規則に従うことによって、愛の人になることはできません。さらに「喜び、平和」と続きます。人間の力によって喜びと平和に満ちた人になることはできません。寛容以下のすべての事柄についても、同じことが言えます。これらは獲得すべき徳目ではなくて、聖霊が支配するところに永遠の命の現れとして生じるものなのです。聖霊が私たちの内に結んでくださる実なのです。リンゴの実を得るために、一生懸命にリンゴの実を「作ろう」とするならば、それは愚かなことです。リンゴの実はリンゴの木に実るのです。ですから、大切なことは、リンゴの木を育てることです。同じように、私たちにとって大切なことは、私たちの力によって肉を克服して「愛、喜び、平和…」を私たちの人生に作り出そうとすることではないのです。そうではなくて、ひたすら聖霊の御支配を求め、聖霊の導きを求めて生活し、いわば信仰生活の木を丁寧に育てていくことなのです。「霊の導きに従って歩みなさい!」

 
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