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「キリストのもてなし」

2008年4月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 21章1節~14節

 今日お読みしました21章の場面はガリラヤのティベリアス湖畔です。ペトロをはじめ、他の弟子たちは、もともと彼らがいた生活の場に戻っています。今日お読みした箇所において弟子たちがしていることは、およそ三年半ほど前まで、つまりイエス様に従い始める前まで、日々繰り返していたことと基本的には同じです。ペトロが言いました。「わたしは漁に行く」。他の弟子たちも言いました。「わたしたちも一緒に行こう」。そのようにして共に漁に出ます。あいにく、その夜は何も取れませんでした。大漁の日もあれば不漁の日もある。それが漁師の日常です。魚がとれないときの惨めさや虚しさ、疲れ果てて迎える朝。それもまた彼らがこれまで幾度となく味わってきたことなのでしょう。そうです。三年半前と何も変わっていないように見えるのです。しかし、それにもかかわらず、決定的に異なることがある。キリストがよみがえられたこと。そして、彼らはそのキリストの弟子であることです。

弟子たちに現れたキリスト

 今日の聖書箇所が伝えている情景を思い描いてみましょう。朝が白々と明けてきました。イエス様が岸に立っておられます。しかし、弟子たちにはそれが主であることが分かりません。主は彼らに呼び掛けました。「子たちよ、何か食べ物があるか」。これは要するに「おーい、魚はとれてるかーい」と言っているのです。彼らは答えます。「ありませーん。まったくとれませーん。」すると、主は彼らにこう言われます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)。彼らがその声に従って網を打ってみますと、なんと夥しい魚が網にかかりました。もはや網を引き上げることができないほどです。その時、「主の愛しておられたあの弟子」が叫びます。「主だ!」

 どうして彼は「主だ!」と叫んだのでしょうか。思い出したからです。「あれ?これと同じこと、前にもあったぞ…。」そうです、彼らが生前のイエス様に出会い、召され、弟子として従い始めたあの日のことを彼は思い出したのです(ルカ5:1以下)。その日も、彼らは夜通し働いて何もとれませんでした。しかし、疲労困憊した彼らにイエス様は言われたのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)。シモン・ペトロは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って、その言葉に従いました。すると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(同5:6)のです。皆、この事実に驚き、恐れます。すると主はペトロにこう言われたのでした。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。

 「主だ!」と叫んだあの弟子が思い出したのは、その時のイエス様の姿だったのです。いわばイエス様があの時の情景を再現して、彼らに思い出させてくださったのです。そのようにして、かつて彼らを弟子として招いたキリストが、復活して今も共にいることを示してくださったのです。「主だ!」というその言葉を聞くと、ペトロは上着をまとって湖に飛び込みました。裸で主にお会いするわけにはいかないとでも思ったのでしょう。彼は二百ペキス(約90メートル)を泳いで主のもとへと急ぎました。他の者は舟で陸まで戻りました。

 そこで非常に印象的な描写が続きます。陸に上がってみると、炭火が起こしてありました。イエス様が自ら食事を準備していてくださったのです。そこには魚がのせてあり、パンもありました。そして、主は、「パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(13節)と書かれています。それはイエス様御自身によって備えられた主の食卓でありました。

 さて、イエス様がパンを裂いて弟子たちに与えられ、魚も同じように弟子たちに分けられた時、彼らはもう一つの場面を思い起こしていたに違いありません。そう言えば、こんなふうにイエス様がパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、私たちに分けてくださったことがあった。魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えてくださったことがあった。同じガリラヤ湖、ティベリアス湖の畔でのことだった。――そうです、キリストが五つのパンと二匹の魚を分けて群衆に食べさせられた時のことです。この福音書の6章に書かれています。あの時、人々にパンと魚を分け与えられたイエス様が、復活して弟子たちに現れ、同じようにパンと魚を分けてくださったのです。

 考えて見ればほんの少し前まで泥のように疲れていた彼らだったわけでしょう。夜通し働いて何もとれず、ただただ疲れ果てて朝を迎えた彼らでした。しかし、その彼らがイエス様と共にあって、まさに生き返っている姿を私たちはここに見ることができるのです。夜が明けた頃に、最後の最後で大漁を得たからでしょうか。いいえ、そうではありません。大漁もうれしかったに違いないでしょうが、それ以上にうれしかったのは、復活のキリストが共ににいることに気付かせていただいたことではありませんか。あの弟子の「主だ!」という叫びが彼の興奮を物語っています。そこでペトロもまた気付いたわけです。その時にはもう大漁の喜びなんて吹っ飛んでしまっていて、ペトロはとれた魚などそっちのけで、すぐに湖に飛び込み、主のもとにはせ参じたのです。

 そして、キリストは彼らと共にいることに気付かせてくださっただけではありません。主は彼らのために食卓を備えていてくださっていた。それはかつてのパンの奇跡を思い起こさせる食事でありました。あの時、人々にパンと魚を分けられた主は、次のように語られました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。そのように、主がなされた奇跡は、ただ群衆の飢えを満たすためのものではなく、この御方こそ「命のパン」であり、人を真に生かすことのできる御方だという真理を指し示すしるしでありました。その「命のパン」そのものである御方が備えてくださった食卓に、弟子たちは今招かれているのです。そして「命のパン」である主御自身による養いを受け、命の満たしを受けているのです。

私たちに現れてくださるキリスト

 こうして見てきますと、ここに描き出されているのはただその時の弟子たちの姿だけでなく、後のキリスト者の姿もまたそこに重ね合わされていることに気付かされるのです。ここに描かれているのは、キリストを信じる時に、今でも私たちが経験することでもあるのです。

 20章にはキリストが復活した「週の初めの日」のことと、それから八日の後のことが書かれていました。週の初めの日とは日曜日のことです。「八日の後」とは私たちの言う「一週間後」ということですから、やはり日曜日のことです。そのように、20章には日曜日にキリスト者が集まる時に、いったいそこで何が起こるのかということが書かれていたのです。復活のキリストが「平和があるように」という言葉と共に罪の赦しを与えてくださり、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言って世へと遣わしてくださるのです。

 私たちが世に遣わされると言います時、具体的にはどこに遣わされることを意味するのでしょう。キリストによって派遣されたあの弟子たちは、後にエルサレムを本拠地とすることを私たちは知っています。初代の教会はエルサレムから始まるのです。にもかかわらず、今日お読みした21章では、弟子たちはガリラヤにいるのです。わざわざペトロたちがガリラヤに帰って、以前と同じように日常の生活に戻って漁をしている姿を伝えているのです。これは私たちに大切なことを教えていませんか。キリストによって遣わされる場所は、必ずしも何か特別な場所ではないのです。何か特別なことを行うように遣わされるのではないのです。遣わされる場所、それはいつもの何の変哲もない日常の生活なのです。キリスト者となる以前と同じように学校に行き、あるいは職場に行き、キリスト者となる以前と同じように家庭生活を営むのです。

 20章が日曜日のことを語っているとするならば、21章は残りの六日間を語っていると言ってもよいでしょう。教会に集まる日曜日以外は以前と同じことを同じように行っている、以前と全く変わらない日々のように見えるのです。しかし、「同じではない!」と今日の聖書箇所は私たちに語っています。決定的に違うのだと。日曜日を主の日として過ごし、そこでキリストの平和をいただき、キリストによって遣わされて世に出て行くならば、残りの六日間は決して同じではないのです。

 キリストによって私たちはここから送り出されます。ここから始まる毎日の生活は、常に大漁とは限らない。いや、一晩中働いてまったく何もとれなかったあの弟子たちのように、まる一日かけてやったことが全部無駄に思える日もあるかもしれません。まさに砂を咬むような虚しさと惨めさを味わい、くたくたに疲れ果てて一日を終えるようなこともあるのでしょう。しかし、そのような日常の中にある私たちに、キリストは呼びかけるのです。「おーい、魚はとれてるかーい」と。私たちの生活を心にかけ、私たちの状態に目を向けていてくださる方がおられるのです。

 そして、主は言われるのです。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と。そのように主が私たちにも語りかけ、導いてくださるのです。主が語りかけ、導いてくださるのは、何も日曜日だけではありません。毎日の生活の中で、私たちは主に耳を傾け、主に導かれて生きるのです。そして、私たちは様々な場面で気付かされるのです。「主だ!」と。これは主の御業だ。主が共にいて、主がしてくださったことだ!と。その時、「主だ」と叫んだあの弟子のように、また湖に飛び込んだあのペトロのように、私たちの心は喜びに満ちあふれ、私たちは主を慕い求めるのです。

 そして、主を慕い求める私たちを、命のパンである主御自身が豊かにもてなしてくださる。イエス様は今日も私たちをこうして聖餐卓の周りに集めてくださいました。命のパンなるキリストは、ここにおいて私たちを豊かな命の糧にあずからせてくださいます。私たちはキリストによって命の満たしを受けるのです。しかし、そのように主の日の恵みを味わい知るにつれて、もう一つのことが明らかになってまいります。このように主の日に私たちを豊かな命の糧でもてなしてくださる御方は、また私たちの日常生活の中においても、豊かな命にあずからせてくださる御方である、ということです。キリストが命の糧を与えてくださるのは、ただ主の日だけではないのです。聖餐の時だけではないのです。キリストはティベリアス湖(ガリラヤ湖)の畔で、漁師の日常生活のただ中で、炭火をおこし、魚を焼いて待っていてくださったではありませんか。

 遣わされている者として生きる毎日の生活の中で、あの朝の弟子たちのように疲れ果ててしまっている時があります。労苦が報われなかったり、善意が受け入れられなかったり、愛が実を結ばなかったり、この世の罪や自分自身の罪との戦いにおいて、サタンとの戦いにおいてほとほと疲れ果ててしまう時があります。しかし、そのような日常の生活のただ中において、イエス様はいわば炭火をおこして魚を焼いて待っていてくださるのです。そして私たちに言ってくださる。「さあ、来て、食事をしなさい」と。

 
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