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「信じる者になりなさい」

2008年3月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 20章19節~29節

あなたがたに平和があるように

 今日お読みした箇所には、たいへん不思議なことが書かれていました。戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に、突然イエス様が現れたこと。もちろん、それも不思議なことです。しかし、実はもっと不思議なことが書かれています。「弟子たちは、主を見て喜んだ」(20節)ということです。

 行方不明だった人が見つかったのとは分けが違います。彼らはイエス様が死んで葬られるのを確認しているのです。そのイエス様が現れたのです。想像してみてください。あなたの家のおじいちゃんが亡くなってお葬式をしました。その三日目あたりの夕方、鍵をかけてある家の中に、そのおじいちゃんが突然現れた。皆さんなら喜びますか。それは怖いことでしょう。

 もちろん愛する家族や親しい友人が亡くなった場合には、「たとえ幽霊でもいい。現れて欲しい」と思う人だっているかもしれません。ならば亡くなった人が現れて喜ぶということもあり得るでしょう。しかし、こんな場合を考えてみてください。あなたがある人を裏切ってしまった。そして、その人は裏切られたまま、死んでしまった。あなたが謝ろうと思った時には、もうその人は生きていません。あなたの心は思い出す度に疼きます。さて、その人が亡くなって三日目の夕刻、突然姿を現したらどうでしょうか。あなたは喜びますか。喜ばないだろうと思うのです。これは怖いことでしょう。きっと、そこに跪いて、「赦してくれ、俺が悪かった!」と言って泣き叫ぶに違いありません。イエス様が弟子たちのただ中に現れたというのは、喩えて言うならばそのような状況なのです。

 私たちは、そこにいた弟子たちが数日前にイエスを見捨てて逃げ出した弟子たちであることを忘れてはならないのです。彼らはイエス様一人を見殺しにして、自分たちは追及の手を逃れて家の中に隠れていたのです。そのような弟子たちに主が現れた。しかも、手とわき腹をお見せになったというのです。そこには大きな釘の跡と、槍で刺された後が生々しく残っているのです。それを見せられたら、たまらないでしょう。自分の罪を突きつけられるようなものですから。

 そのように、明らかに弟子たちが主を見て喜んだのは、ただ死んだはずのイエス様が現れたからではないのです。イエス様が現れること自体は怖いことなのです。ならば、なぜ弟子たちは喜んだのか。現れたイエス様が「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったからです。自分のしでかしたことに押しつぶされている人にとって、自分の罪深さに打ちのめされている人にとって、それは何にもまさる恵みの言葉です。「あなたがたに平和があるように」。それはまさにキリストによる赦しの宣言に他ならないのです。

 弟子たちが見た「主」とは、そのように自分を見捨てて逃げ去った弟子たちに対してさえ、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださる主だったのです。既に赦していてくださるイエス様。そして、どこまでもどこまでも愛して受け入れてくださるイエス様。彼らが逃げだそうが何をしようが、決して見捨てないイエス様。彼らが見た「主」とは、そのような主だったのです。そのような主にもう一度お会いすることができた。だから「弟子たちは、主を見て喜んだ」のです。

 そして、彼らは主を見て喜んだだけではありません。主によって世に遣わされるのです。イエス様は重ねて彼らに「あなたがたに平和があるように」と言われ、さらにこう宣言されました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。イエス様は弟子たちに罪の赦しを与えただけではありません。平和と喜びを与えてくださっただけではありません。イエス様は彼らの将来を見ておられます。キリストの平和にあずかった弟子たちを、神の救いの御業のために用いようとしておられたのです。キリストは弟子たちを世に遣わされるのです。

 このことが、殊更に「週の初めの日」に起こったと書かれていることは意味のないことではありません。週の初めの日とは日曜日です。教会が礼拝のために集まる日です。そうです、私たちが日曜日に集まる時、彼らに起こったことが私たちにも起こるのです。主は私たちにも「あなたがたに平和があるように。平安あれ!安かれ!」と言ってくださる。あの弟子たちのように、私たちもまたここでキリストの平和を受け取るのです。私たちを赦し、私たちを見捨てないで、どこまでもどこまでも愛してくださる御方から、完全な平和をいただくのです。この御方によって赦されているなら、イエス様によって愛されているなら、もう大丈夫。恐れることなくこの世に遣わされていくことができる。イエス様が「聖霊を受けよ」と言って、息を吹きかけてくださいます。そのようにして、私たちはキリストの平和を携えて、この世に遣わされていくのです。

信じる者になりなさい

 そして、主の日に何が起こるのかということについて、さらに聖書は一人の人物にスポットを当てて語っています。その人物とは、ディディモと呼ばれるトマスです。彼は、あの「週の初めの日」にその場にいませんでした。しかし、その彼にも再び日曜日が巡ってまいります。26節の「八日の後」とは、私たちの言葉で言えば「一週間後」ということです。次の日曜日です。そこで彼に何が起こったのかを見てまいりましょう。

 トマスには既に主の復活が伝えられていました。復活の主にお会いし、キリストの平和が与えられた弟子たちは、復活したイエス様が現れてくださったことをトマスに伝えたのです。「わたしたちは主を見た」と。するとトマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)。この言葉のゆえに、彼は今日に至るまで「疑い深いトマス」などと呼ばれることになりました。

 しかし、私たちはただ彼を「疑い深いトマス」と呼ぶのではなく、なぜ彼がそんなことを言ったのか考えてみたいと思うのです。そもそも、彼が本当に疑い深くて、自分の目で確かめることを求めただけならば、こんなことは言わないでしょう。他の弟子たちは「主を見た」と言っているのですから。普通は、「わたしも主を見るまでは信じない」と言うのではありませんか。あるいはせいぜい「その顔を見るまで信じない」と言うのではないでしょうか。普通は「指を釘跡に入れてみる」などというグロテスクなことは考えないし、言わないだろうと思うのです。

 彼が言っていることは、どう考えても単なる疑い深い人の言葉などではありません。彼は明らかに釘跡とわき腹の傷にこだわっているのです。他の弟子たちが「主を見た」と言うのを聞いた時、トマスの目に浮かんだのは、釘の跡でありわき腹を槍で刺された跡のことだった、ということです。要するに、彼はイエス様を思いだそうとする時、それ以外を思い出せなかったのです。三年半も一緒に旅をしてきたのですから、その間、幾度となくイエス様はトマスに優しい笑顔を向けてくださったに違いない。しかし、そんなイエス様の優しい笑顔など、今は思い出せないのです。イエス様と共に旅をし、苦労をしながらも喜びをもって過ごしたあの日々を、今は思い出せないのです。今思い出せるのは、太い釘で貫かれた手と足。その傷から流れ出る真っ赤な血。十字架に釘づけられたイエス様の苦しみに歪んだ御顔。十字架の上での叫び声。既に息絶えたイエス様の体を貫くローマ兵の長く太い槍。その傷口から滝のように流れ出る真っ赤な血しぶき。それしか思い出せないのです。

 しかも、その姿を思い出している自分は、今なお生き延びているのです。なぜ?逃げたから。本当は、イエス様の身に危険が及んだならば、一緒に死ぬつもりでいたのです。かつてイエス様が危険なユダヤに向かおうとした時、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)と言ったのはこのトマスなのです。しかし、自分は逃げた。そして、イエス様は死にました。手には大きな穴が開き、わき腹には大きな傷を持つ死体となってしまったのです。

 本当ならイエス様の手の釘跡など、忘れてしまいたいはずでしょう。わき腹の傷のことは、忘れてしまいたいはずでしょう。口に出すことなど、本当はできないはずでしょう。しかし、彼はあえて口にしたのです。彼はイエス様の釘跡を忘れようとはしなかった。わき腹の傷を忘れようとはしなかった。なぜ、その体に傷跡があるのか、忘れようとはしなかった。自分をごまかさないで、自分がしでかしたことと向き合った人。それがトマスです。

 この世の中には、忘れてしまえば自分の過去の罪も消え去ってしまうかのように思っている人はたくさんいます。自分が忘れてしまえば過去はなかったことになると思っている人はたくさんいます。トマスという人は、そんな人より、よほどまともな真実な人間だと言えます。彼はどんなに重かろうと、自分の罪責を一生負い続けて生きようと思っていたのでしょう。そんなトマスにとって、同じように主を見捨てた他の弟子たちが喜んでいる姿がどのように映ったか、考えてみてください。「主を見た」などと言って、喜んでいるのです。それは赦しがたい姿であったに違いありません。だから、「わたしは決して信じない」と言ったのです。そんなこと信じないで、苦しみながら生きていく方が、真実で正しいことのように思えたのでしょう。

 しかしイエス様は、そのようなトマスにも現れてくださったのです。確かにトマスの生き方は真実かもしれません。けれどイエス様は、トマスが一生罪の重荷を背負い続けて、苦しみながら生きることを望まれなかったのです。トマスが考えていたように、確かにその手には釘の跡がありました。決して過去が水に流れて消えてしまうわけではありません。罪の事実は消えません。しかし、イエス様はトマスにも言ってくださったのです。「平和があるように」と。そして、主は言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。これはトマスの不信仰を責める言葉などではありません。いわばイエス様の精一杯の呼びかけです。――「私は決して信じない」なんて言って頑張っていなくていいんだよ。信じてもいいんだよ。私が復活して、『平和があるように』と言ってここに共にいることを、信じてもいいんだよ。あなたは赦された。信じてもいいんだよ。信じる者になりなさい。――そうイエス様は言っておられるのです。その呼びかけに、トマスは応えます。「わたしの主、わたしの神よ」と。復活したイエス様を「主」とし「神」として御前にひれ伏しただけではありません。ここで感動的であるのは、あのトマスがもう一度イエス様を「《わたしの》主」と呼んでいるということです。トマスはまっすぐに顔を主に向けることができたのです。赦された人として。愛されている人として。キリストの平和を与えられた人として。そして、彼もまたキリストによって世に遣わされて行ったのです。後に彼はインドにまで福音を携えて行ったと言い伝えられています。

 これが再び巡ってきた週の初めの日に起こった出来事でした。今日はそれから幾度目の日曜日に当たるのでしょう。あれから二千年近くの月日が経ちました。しかし、イエス・キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることはありません。イエス様は今日も私たちに変わることなく「平和があるように」とお語りくださいます。イエス様は、私たちを赦し、私たちを決して見捨てることなく、どこまでも愛してくださる。あの日、復活のキリストを目で見たトマスだけが殊更に幸いなのではありません。イエス様は言われました。「見ないのに信じる人は、幸いである」と。私たちは、あのトマスや他の弟子たちにまさる幸いを与えられているのです。私たちもまた、キリストの平和を与えられた幸いな人として、ここから遣わされてまいりましょう。

 
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