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「もう一度やってみよう」

2008年3月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節

転がされた大きな石

 週の初めの日。日曜日の朝。マグダラのマリアともう一人のマリアは、キリストが葬られている墓に向かいました。キリストの遺体に香料を塗るためでした。しかし、彼らには一つの心配事がありました。そもそも墓の中に入れるかどうかが問題なのです。墓は岩に掘った洞穴であって、その入り口は大きな石でふさがれているからです。他の福音書には、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた、と書かれています(マルコ16:3)。ところが行って見ると、既に墓は開かれていました。墓の石は既に転がされていた。それが今日、聖書が私たちに語っている第一の事柄です。

 もっとも石が転がされていたこと自体は大したことではありません。大きな石でありましても、大人が何人か寄れば動かすことはできます。また、墓の石を動かしても、通常、事態は何も変わらないものです。墓が開かれても死体は依然として死体のままです。骨は骨のままです。教会でも納骨式をします時に、お墓である納骨堂を開きます。中にあるのは変わることのない骨です。納骨堂を閉じればもとに戻ります。何も変わりません。墓が開かれても、死の扉そのものは開かれない。私たちには分かっています。

 ですから、墓の石が転がされていただけならば、聖書が語るほどのことではないのです。四つの福音書が口を揃えてこのことを伝えているのは、《転がされた石》がもっと大きな出来事を象徴しているからなのです。それは、死そのものを閉ざしていた扉が開かれたということなのです。死が閉ざされたものでなくなった、という出来事なのです。

 墓に行った女たちは、そこで次のような言葉を耳にしました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。天使が「見なさい」と言ったのですから、彼らは当然そこを見たことでしょう。イエス様の遺体はそこにありませんでした。イエス様は死の中に閉じこめられてはいませんでした。そのように、彼らが目にしたのは単なる開かれた墓ではありませんでした。彼らが目にしたのは打ち開かれた死の扉だったのです。

 岩に掘られた洞穴。入り口が大きな石によって塞がれた墓。思い描いてみてください。それは私たちにとって身近な《死という現実》を象徴していると思いませんか。それは暗闇の世界。そこに死体が閉じこめられています。しかし、考えてみれば、死によって閉じこめられているのは、必ずしも死んだ人だけではありません。生きている人もある意味では同じです。「人間は死を背負って生きている」と言った人がいました。生と死はカードの裏表のようなものです。生きている私たちが描かれているカードの裏には厳然として死んだ私たちが描かれている。そしてある時、カードが裏返るのです。そのように、私たちの人生は生きている間から既に死によって限界づけられ、閉ざされているのです。いわば墓は私たちがやがて最終的に入るところではなく、私たちの人生そのものが既に墓の中にあるとも言えるのです。

 もちろん、そのようなことを常々意識しているわけではありません。しかし、意識してようがいまいが、死の内に閉ざされた人生の閉塞性は、生活の中に確実に現れているのでしょう。なぜ私たちは物事をゆったりと余裕をもって見ることができないのでしょう。物事を「長い目で見る」ことが大事であることは、誰だって分かっています。しかし、実際にはそうできない。人生が確実に終わりに向かっていることを感じ取っているからではありませんか。なぜ過去の失敗や過ちが人生に暗い影を落とすのでしょう。なぜ過去の重荷をいつまでも引き摺って生きるのでしょう。後戻りできないことを知っているからでしょう。やり直せないことがいくらでもあることを知っているからでしょう。タイムリミットを考えるなら、崩れてしまったら、もう積み上げることはできない。壊れてしまったら、もう二度と作れない。そのようなことがいくらでもあることを知っているからでしょう。余裕をもって見られるのはやり直しがきくうちだけです。やり直しがきかなくなれば、もはや長い目などで見られない。そうではありませんか。

 しかし、そのように人間を闇の内に閉じこめていた死に風穴があいたのだ、と聖書は語っているのです。しかも、大きな風穴が開いた。石は転がされました。誰が転がしたのでしょうか。天使が転がしたと書かれています。聖書に天使が登場しますとき、それは神様の介入を意味しているのです。つまり神様が死の扉を開いてくださったのだとこの物語は伝えているのです。

 人には出来ることと出来ないことがあります。確かに人間の努力は尊いものです。しかし、人間の努力ではどうすることも出来ないことがあるのです。死によって閉ざされた自らの人生を、本当の意味で死から解き放つことはできないのです。それができるのは神様だけです。救いは神様から来なくてはならない。そして、救いは来たのです。石は転がされました。開かれた墓をイメージしてみてください。それが神様のなさることです。神様が開かれるならば、もはや誰も閉じこめることはできないのです。四つの福音書はまずそのことを喜びをもって伝えているのです。

ガリラヤへ行け

 そして、物語は続きます。婦人たちはこの出来事に恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去って弟子たちのもとへと向かいました。するとその途上で、復活したイエス様に出会ったのです。もはや墓の中に閉ざされてはいないイエス様です。そのイエス様が彼女たちに言いました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。これが今日、聖書が私たちに語っている第二の事柄です。

 「行って、わたしの兄弟たちに言いなさい」。私たちはこのキリストの言葉に驚かされます。「兄弟たち」とは肉親のことではありません。弟子たちのことです。その弟子たちとは、イエス様が十字架にかけられた時、見捨てて逃げ去った弟子たちのことなのです。その中には、三度もイエスを知らないと言ったペトロも含まれています。そのような弟子たちの姿は、十字架のもとでイエス様を見守っていた婦人たちの姿と実に対照的に描かれています。しかし、その弟子たちをなおもイエス様は「わたしの兄弟たち」と呼ばれるのです。

 弟子たちの中には、もはや「わたしはイエスの兄弟である」と胸を張って言える者は一人もいなかったに違いありません。もし彼らがイエスの兄弟であり得るとするならば、それはイエス様が弟子たちをそう見ていてくださるから。それ以外の理由はありません。それは恵みなのであり、恵み以外の何ものでもありません。宗教改革者カルヴァンはこの言葉について、こう言っています。「しかし、主によって《兄弟たち》と見なされているのは使徒たちだけではありません。このメッセージは、後に私たちも耳にするようにと、キリストの命令によって伝えられたのです。」そうです、主の言葉がこうして私たちにも伝えられている。私たちもまた、私たちが相応しいからではなく、ただ主の恵みによって、イエス様の兄弟とされていることが教えられているのです。

 「わたしの兄弟たちに言いなさい」――イエス様の兄弟とされているとは、どういうことですか。イエス様が父と呼ぶ方を、私たちもまた父と呼ぶことができる、ということでしょう。弟子たちは、キリストを復活させた神を「わたしたちの父よ」と呼ぶことができるのです。私たちもまた、その神、死の扉を打ち開き、死の中に閉ざされていた私たちの人生を解放することのできる御方を、「わたしたちの父よ」と呼ぶことができるのです。それゆえ私たちはもはや死の中に閉ざされて生きる必要はないのです。実際、あの弟子たちは、暗く閉ざされていた墓の中から解放された人として生き始めたのです。彼らが再びキリストに従う者として、共に集まり、キリストを宣べ伝え始めたことが、その事実を物語っています。そのようにして教会が誕生し、教会が今日に至るまで存在していること自体が、死から解き放つ神の御業を証ししているのです。

 イエス様は、あの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼んだだけでなく、さらにこう言われました。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)と。自分の弱さと罪深さに打ちのめされ、信念も誇りも打ち砕かれ、文字通りボロボロになってしまった弟子たちに告げられた言葉は、「ガリラヤへ行け。そこでわたしに会うことになる」という言葉だったのです。ガリラヤでイエス様が待っていてくださる、と。

 ガリラヤ――それは弟子たちがイエス様に出会った場所です。あの日、この不思議な魅力に溢れた御方が突然現れ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。そうです、すべてはそこから始まったのです。「ガリラヤへ行け、そこでわたしに会える」。イエス様は彼らを振り出しに戻されます。それは、いわば「もう一度やってみよう」という呼びかけであるとも言えるでしょう。大きな挫折、大きな悲しみを経て、自分自身の内になんの拠り所も持たなくなった者たちが、「もう一度やってみよう。私について来なさい」というイエス様の招きを聞いたのです。

 イエス様が「もう一度やってみよう」と言われるのは、あの弟子たちがまだ若くて可能性に満ちていたからではありません。「まだ時間は十分にあるよ。やり直せるよ」という意味での「もう一度やってみよう」ではないのです。そうではなくて、今度は復活したキリストについていくのです。もはや死に支配されていないキリストについていくのです。自分自身も死から解き放たれた者として、キリストについていくのです。

 本日の第二朗読では、パウロが洗礼について語っている箇所を読みました。そこにはこう書かれていました。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。私たちは新しい命に生きるのです。それはもはや死に支配されていない命です。墓の中に閉ざされていない命です。永遠に向かって開かれた命です。その新しい命に生きるなら、もはや「わたしの残された人生で何ができるか」とか「やり直すのに十分な時間が残されているか」といった問いはもはや不要なのです。復活したキリストに従う新しい命に生きるなら、それこそこの地上の人生における最後の日であっても、死の床にあってさえ、「もう一度やってみよう」と言えるのです。

 復活のキリストによる「もう一度やってみよう」がなければ、後の使徒たちもペトロもいないでしょう。後の教会もなかったに違いありません。その意味では、教会は復活したキリストによる「もう一度やってみよう」によって誕生したと言えるのです。私たちはそのような教会に連なる者として、今年もイースターを祝っています。キリストの復活をお祝いし、復活したキリストにここから新たに従い始めるのです。私たち自身も死から解き放たれた者として。私たち自身、キリストの呼びかけに答えて、互いに言う必要があるのではありませんか。「もう一度やってみよう!」と。

 
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