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「永遠の拠り所」

2008年3月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 18章1節~14節

 本日の福音書朗読でお読みしましたのは、イエス様が逮捕される場面です。この場面については、四つの福音書がそれぞれ伝えていますが、私たちは今日、ヨハネによる福音書だけが語っているいくつかの点に注目したいと思います。第一に、裏切ったユダが手引きをして人々を引き連れて来るのですが、その中に「一隊の兵士」が含まれていたこと。第二に、イエス様が「誰を捜しているのか」と問い、彼らが「ナザレのイエスだ」と言った時に、イエス様が「わたしである」と応答すると、彼らが後ずさりして地に倒れた、ということ。第三に、イエス様は「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と言って、弟子たちを守ろうとしたということ。これらヨハネだけが伝えるこれらの描写を通してわたしたちに語られている御言葉に耳を傾け、今日から始まる受難週に備えたいと思います。

サタンとの戦い

 第一に、ユダが「一隊の兵士」をも引き連れて来たということ。これは日本語で読む私たちにはピンと来ませんが、とてつもないことが語られているのです。というのも、「一隊の兵士」という表現は、文字通りには600人のローマ兵から成る一部隊を意味するからです。そのようにヨハネはかくも多くの武器を持った兵士たちがたった一人の男を逮捕するためにやってきたのだということを、いささか極端に思えるほどに強調しているのです。なぜでしょうか。イエス様はそれほどまでに巨大な勢力と戦っていたのだということを表現しているのです。

 そこで重要なのはイエス様が戦っていた巨大な勢力とは何かということです。表面的に見るならば、イエス様と直接対立していたのは、祭司長たちや律法学者たちに代表されるユダヤの宗教界であると言えます。直接的には祭司長らがイエスを亡き者とする計画を立てて実行に移していくのです。「イエスの居どころが分かれば届け出よ」と命令を出し、イエスを指名手配したのも彼らですし、イエス逮捕のために弟子の一人を買収したのも彼らです。あるいは、そこにローマの国家権力が加わったと言うこともできます。この場面に見るように、既にローマの兵士たちが動き始めています。後には、ローマ皇帝によって立てられた総督ピラトが登場してきます。その審判のもとに十字架刑が執行されます。その意味からすれば、イエス様に敵対していたのは国家権力であるとも言えるでしょう。

 しかし、福音書は繰り返し繰り返し、宗教的権力でもない国家権力でもない、イエス様が戦っていた《本当の敵》について言及しているのです。その敵は「サタン」と呼ばれます。あるいは「悪魔」とも呼ばれます。その意味で、ユダが先頭に立って人々を引き連れて来たというのは、実は極めて象徴的な出来事だったのです。なぜなら、この福音書は既に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(13:2)と語り、最後の晩餐において、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」(13:27)と語っているからです。また、その本当の敵は「この世の支配者」と繰り返し呼ばれています。それはローマ皇帝のことではありません。サタンのことです。イエス様は最後の晩餐の席においてこう語られました。「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」(14:30)。そのように、ユダに率いられた一隊の兵士たちは、サタンとその軍勢、人間を滅ぼそうとしている悪魔の巨大な勢力を象徴していたのです。イエス様はその本当の敵と対峙し立ち向かっていたのです。

 宗教的権力であれ、国家権力であれ、人間が相手であるならば、人間が敵であるならば、武力をもって戦うことができます。イエス様は武装勢力を組織することぐらいいくらでも出来たはずでしょう。何千人という群衆がイエスの後について来ていたのです。そして、彼らはイエスを王にしようとしていたのですから。しかし、イエス様はそのような道を進みませんでした。本当の敵が誰であるかを知っていたからです。人間を神から引き離し、罪の中に縛り付け、また互いに噛み合い食い合うようにさせ、滅ぼそうとしている本当の敵はサタンであることを知っていた。今日お読みした場面において、イエス様はそのような闇の力と向き合っているのです。

エゴー・エイミ

 第二の点に目を向けましょう。イエス様が「わたしである」と言われた時、捕らえに来た人々は後ずさりして、地に倒れました。もし、イエス様にそれだけ威圧感があって、彼らが圧倒されたというだけならば、イエス様がもう一度「だれを捜しているのか」と尋ねた話は不要です。一回聞いても分かりますように、たいへんくどい話になっています。そこで耳に残りますのは、「わたしである」という言葉です。何度もこの言葉が繰り返されるのです。実は、これはこの場面にのみ繰り返されているのではありません。原文では「エゴー・エイミ」と言いまして、この福音書を通じで何度も出て来る、いわばこの福音書を理解するためのキーフレーズなのです。

 一つだけ印象的な場面を取り上げてみますと、例えば6章には弟子たちがガリラヤ湖の上で嵐に遭った時、イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいてきたという不思議な話があります(6:16以下)。その時、風の波に翻弄されていた弟子たちにイエス様が言われるのです。「わたしだ。恐れることはない」(6:20)と。その「わたしだ」というのが、同じ「エゴー・エイミ」なのです。

 そのように、「わたしである」とか「わたしだ」というイエス様の言葉なのですが、これはまた「わたしはある」とも訳せるのです。「わたしはある」というのは変な日本語です。しかし、その変な日本語のままで「わたしはある」と訳されている箇所もあります。(八章などに出てきますので、見つけてみてください。)それには理由があるのです。「わたしはある」という変な表現は、旧約聖書のとても大事な場面に出て来るからです。神様がモーセに現れた場面です。そこで神様が御自分の名を「わたしはある」と呼ばれたのです。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」(出エジプト3:14)。

 もう亡くなられましたが、わたしの恩師である左近淑という旧約学者はこの「わたしはある。わたしはあるという者だ」という部分を「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と訳していました。その先生はとても情熱的なところを持った方だったのですが、この「わたしはある。わたしがいるのだ、確かにいるのだ」について話しておられた時、「これは共にいます神ということなんですよ。聖書の神は、共にいます神なんですよ」と熱っぽく語っていたのを今でも思い起こします。

 その表現をイエス様は繰り返し用いておられたのです。つまりイエス様が「わたしはある(エゴー・エイミ)」と言われたとき、それはすなわち「わたしは主なる神である」という宣言に等しいのです。さらに言えば、この御方こそまさに「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と言われる、共にいます神である、ということを意味していたのです。ですから、荒れ狂う湖の上でも主は「エゴー・エイミ」と言われ、「恐れることはない」と言われたのです。イエス様こそ、真に「恐れることはない」と語り得る御方だということです。

 今日お読みしている場面においても、イエス様は弟子たちの前で「わたしはある」と宣言するのです。すると夥しい兵士たちとユダが地に打ち倒された。それは悪魔の軍勢に対するキリストの勝利を指し示す象徴的な出来事として記されているのです。それは、その後に起こることの本質を示しているのです。

 表面的に見るならば、キリストは敗北していくように見えるでしょう。結局、イエスは捕らえられ、不当な裁判によって死刑判決が下され、鞭で打たれてボロボロにされ、惨めにも十字架にかけられて殺されていくことになるのですから。宗教的な権力にも負け、国家権力にも負け、そして、さらに言えばサタンにも負けたと見えなくもない。しかし、そうではないのです。打ち倒されるのはサタンの方だったのです。キリストは武器によらずしてサタンに打ち勝ったのです。では何によって。愛の御業によってです。御自身を罪の贖いの犠牲として捧げ尽くすことによってです。

 十字架において罪の贖いは成し遂げられることとなりました。十字架から、人間の罪を赦し、人間を罪から解放する神の愛が溢れ流れることとなりました。十字架から、永遠の命を与える神の救いが溢れ流れることとなりました。サタンはその救いの御業を止めることはできなかった。サタンはイエスに勝つことはできなかった。なぜなら、あの御方は「わたしはある。エゴー・エイミ」と宣言する神なる御方だからです。

キリストによって守られて

 そして第三に、そのイエス様によって弟子たちが守られたことに目を留めましょう。主は言われました。「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」いわば、イエス様お一人が矢面に立ち、闇の力に立ちはだかって、共にある弟子たちを守ってくださったのです。そのような出来事がここに記されているのです。それはただ弟子たちが兵士たちに殺されずに済んだ、というだけの話ではありません。既に見てきましたように、ここに伝えられているのは極めて象徴的な出来事なのです。ですから、9節にもこう説明されているのです。「それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった」(9節)と。

 「失われない」とは「滅びない」ということです。ただその時災いから守られたという小さな話ではなくて、永遠の救いから洩れないということです。イエス様の御手から失われないということは、極端に言えば、ここで兵士たちの剣を免れた彼らが、後に仮に別な形で殺されるようなことがあったとしても、それでもなお「失われない」ということなのです。

 この場面において力ある御方として立っているのはイエス様だけです。他の弟子たちは皆、無力です。宗教的な権力や国家権力に対して無力であるだけでなく、サタンに対して無力なのです。もちろん、ちょっとばかりの勇気を振るうことはできます。ペトロは剣で斬りつけて抵抗しました。たいしたものです。しかし、ペトロは剣は握れてもサタンに勝てはしないのです。なんとこの場面の直後には、ペトロが三度もイエスを否認したという話が出てくるのです。彼は簡単に転がされてしまいます。他の弟子たちもそうです。いざとなったらどんなに自分を愛してくれた人だって見捨てるし、見殺しにだってする。そうなってしまう。人間は悪魔に対して全く無力です。

 しかしイエス様は、そのような弱い弟子たちを、いわば体を張って守られたのです。それは、単にあの逮捕の場面だけではないのです。あそこで起こった事は、後に起こることを指し示しているのです。イエス様は、御自身に従う者を永遠に守ってくださる。そのことを示しているのです。

 イエス様は私たちを愛して罪の贖いを成し遂げるという仕方で、悪魔に打ち勝ってくださった。そのイエス様が共におられるならば、私たちはもはや決して失われた者として滅びることはありません。もちろん、この地上に生きる限り、悪魔の力には晒されることでしょう。私たちを神から引き離し、罪の中に縛り付け、互い0に噛み合い食い合うようにさせ、滅ぼそうとしている本当の敵は、これからも猛威を振るい、様々な形において私たちに襲いかかってくるでしょう。しかし、その悪魔の力に対して、罪を贖ってくださったイエス様御自身が立ちはだかってくださって、「エゴー・エイミ」と宣言してくださる。私たちと共にいる神であることを宣言し、私たちを永遠の命の内に守ってくださるのです。だから恐れることはない。だから私たち自身も悪魔に立ち向かうことができるのです。サタンに打ち勝たれたキリストこそ、私たちの永遠の拠り所です。

 
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