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「光の子として歩みなさい」

2008年2月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 5章6節~14節

 「光の子として歩みなさい」。神様はかつてエフェソの教会の人たちに、そう語りかけました。そして今、頌栄教会の私たちにも、同じように語りかけておられます。「光の子として歩みなさい」。なぜですか?わたしたちは既に主に結ばれて光となっているからだ、と聖書は言うのです。キリストを信じ、キリストに結ばれるということは、光となることなのです。神様は私たちを教会に導き、キリストに出会わせてくださいました。それは私たちを光とするためでした。イエス様も言われたではありませんか。「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と。せっかく光にしていただいたのです。ならば限られたこの一生を光らしく、光の子として歩みたいものです。

以前は暗闇でした

 「光の子として歩みなさい」という勧めの意味を理解するためには、その前に「あなたがたは、以前には暗闇でした」と言われていることを心に留めなくてはなりません。「暗闇でした」です。「暗闇の中にいた」ではありません。「あなたは暗闇の中にいた可哀想な人でしたね。とっても不幸な人でしたね」と言っているのではないのです。「あなたは暗闇そのものだった」と言っているのです。今日、自分が暗闇の中を生きているように感じている人は少なくないと思います。暗い人生であると感じている人は少なくないでしょう。しかし、実は暗闇は自分の外にあるのではないのです。暗闇はあなた自身の内にあるのであって、あなた自身が暗闇をもたらしてきた張本人なのだと聖書は言っているのです。

 このことを認識することは大事なことです。いつも他の人を悪者にしている私たちですから。しかし、今は受難節です。私たちの罪を負って十字架にかかってくださったキリストの御受難を思いつつ、自らを省みる時です。キリストなくしては、わたしは暗闇にしかなれない。他ならぬわたしが暗闇をもたらしてきたのだ。そのことが心底分かってこそ、ここに書かれていることが、どれほど大きな恵みであるかも見えてくるのです。あなたは確かに暗闇だったけれど、今は主に結ばれて光となっているのですよ。あなたは既に光となっているのだから、光として生きられるはずなのですよ。そう聖書は言っているのです。

 自分自身が暗闇であったことを痛感している人なら、そして主を離れたら暗闇にしかなれない自分であることを痛感している人なら、きっとこう思わずにはいられないはずでしょう。主に結ばれて光としていただいているならば、そう神様が仰るなら、わたしは本当に光として生きたい。光の子として歩みたい、と。その願いが大事なのです。その願いがなければ、ここに書かれていることは分からない。単なる厳しい戒めでしかなくなってしまいます。「光の子として歩みなさい」。この言葉を私たちに与えられている恵みとして受け取りましょう。光とされているからこそ、こう語られているのですから。その上で、「光の子として歩む」ということが、どういうことかを御一緒に考えたいと思います。

キリストの光をもたらす人に

 光に何よりも期待されているのは、照らすことです。明るく照らし出すことです。私たちは周りを明るく照らすことが期待されているのです。それはいわゆる「明るい人になる」ということではありません。周りの雰囲気を明るくすることが大事なのではありません。実はそのようなことよりも、遥かに激しいことが書かれております。11節以下をご覧ください。そこには「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます」(11‐13節)と書かれているのです。「暗闇の業を明るみに出す」――これが周りを照らすということです。

 しかし、ここは注意が必要です。「暗闇の業を明るみに出す」というのは、単に他人の隠れた罪を暴いて責め立てることではないのです。そんなことは何も聖書が語らなくても、誰に言われなくても、私たちが常日頃していることなのです。そうでなくても、私たちは他人の罪ばかりを問題にし、暴き出し、責め立てる傾向にあるのですから。「暗闇の業を明るみに出す」ということの意味を正しく理解するためには、その続きを読まねばなりません。そこにはこう書かれているのです。「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです」(13‐14節)。

 この最後の「光となるのです」が重要なのです。光に照らされて、罪が罪であると明らかにされると、今度は照らされたものが光となっていく。照らされたものが光となるような、そのような仕方で光を照らすことを言っているのです。何の話か、もうお分かりでしょう。キリストの救いの光を照らすということです。ですから、次のように続くのです。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(14節)。神様が呼びかけておられるのです。「死者の中から立ち上がれ」と。罪の中に死んでいるような状態で良いのか。死んだままで良いのか。立ち上がれ。そう呼びかけて、罪からの救いをもたらすキリストの光を照らそうとしておられるのです。そのために神は教会を用いようとしておられるのです。先に主に結ばれて光とされた者を用いようとしておられるのです。そのようにキリストの光を照らすためにです。

 実際、そうでしょう。私たち自身も先に主に結ばれた人々を通して、キリストの光に照らされたのではありませんか。そのキリストの光によって私たち自身の姿が見えてきたのでしょう。私たち自身の罪深さも見えてくるようになったわけではありませんか。そのようにして悔い改めへと導かれ、神の赦しをいただいて、神と共に生きるようになったのでしょう。

 そのようにキリストの光、恵みの光に照らされて、初めて罪が罪として明らかにされるのです。私たちのしてきたことが「口にするのも恥ずかしいこと」であり、まさに闇の業であるということが分かってくるのです。しかし、私たちの罪が明らかにされる時、私たちは絶望しなくて良いのです。光から逃げなくても良いのです。なぜなら、キリストが照らすその光は、人を起き上がらせることのできる恵みの光だからです。キリストが救ってくださるのです。「明らかにされるものはみな、光となる」(14節)のです。

 そのようなキリストの光をこの世に輝かせる者となる、それが「光の子として歩む」ということに他なりません。誰かの罪を暴き、責め立てるだけならば、何も主によらなくてもできるのです。いくらでも上手にできるようになります。そのために光の子として歩む必要はありません。しかし、誰かの救いを願い、キリストの光を輝かせるということならば、光の子として歩まねばなりません。ならば「今は主に結ばれて、光となっています」という御言葉に寄り頼む他ありません。あくまでも「主に結ばれて」です。光はもともと私たちの内にあるのではありません。キリストから来るのです。

 ですから主に結ばれてキリストと共にある具体的な生活が重要になってくるのです。まさに光の子として「歩む」ということです。「歩む」というのは生きるということであり、生活するということなのです。具体的な生活の問題です。

聖霊に満たされて

 そこで私たちが光りの子として歩みたいと願うならば、心に留めるべき具体的な勧めが15節以下から6章にかけて記されています。今日はこれらすべてについてお話しすることはできません。特に18節以下に記されている言葉に耳を傾けましょう。次のように語られています。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5・18‐20)。

 「酒に酔いしれてはなりません」とありましても、これを単なる禁酒の勧めのように読んではなりません。「それは身を持ち崩すもと」であることは、誰もが良く知っているのであって、そのようなことは聖書がわざわざ語らなくても、他の人が言ってくれることです。ここで大切なことは、あくまでもこの言葉が、「霊」すなわち神の霊、聖霊に満たされることと対比されているということです。つまり酒に酔いしれることが身を持ち崩すもとになるということも確かに大きな問題なのですが、本当の問題の中心は聖霊が満たすべきところを酒が満たしているということなのです。神が支配すべきところを、酒が支配しているということなのです。ならば、これは酒以外でも起こることでしょう。聖霊に満たされることではなくて、他の何かによって満たされることを求めていませんか。神様が私たちの生活を支配しコントロールするのではなくて、他の何かによって動かされ、振り回され、翻弄されていませんか。「酒に酔いしれてはなりません」という言葉は、それらすべてをも含むのです。

 光の子として歩むことを願うなら、酒の類に満たされるのではなくて、聖霊に満たされることを求めましょう。神の霊が私たちの生活を支配し、主の御心を生きる生活へと整えてくださることを求めましょう。そのためには、「霊に満たされて」だけでなく、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と書かれていることに目を留めねばなりません。これが重要なのです。

 「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」という言葉は、ある意味では奇妙な分かりにくい言葉です。しかし、少なくとも、「語り合い」と言うのですから、その言葉は共に集まっていることを前提としています。しかも、「皆それぞれ神様には向いてますが、お互いは関係ありません」という集まり方ではありません。「語り合い」というのですから、一緒に神様を賛美しながら、神様の恵みを共有し、喜びを共有し、互いに心が通じ合っている。そういう集まり方です。そのように集まることが大事なのです。あのペンテコステの日に最初に聖霊が降って一同が聖霊に満たされたのは、皆が集まっていた時でした。初めて異邦人に聖霊が降ったのも、百人隊長コルネリウスの家で皆が集まっていた時でした。今、私たちがこうしているように、集まることは大事です。この教会がもっともっと「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合っている」と言える教会になっていくことを願います。

 しかし、集まっている時間は決して長くはありません。私たちは一週間ずっと一緒にいるわけではありません。ほとんどの時は、それぞれの場所に散らされているわけです。ですから、このように続くのです。「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(20節)。日本語ですと19節と20節は切れていますが、原文では繋がった一つの文です。19節と20節は切り離せないほどに、深い関係があるのです。19節は集まっている時について。20節は「いつも、あらゆることについて」というのですから、これは集まっていない毎日の生活について。この二つは切り離せないのです。

 要するに、集まっている一時間ほどの時間が、散らされている一週間を形作っていくのです。集まって捧げる礼拝が、一週間の毎日の生活をも神様への礼拝にしていくのです。「いつも、あらゆることについて」その瞬間、瞬間が、主イエス・キリストの名により、父である神に感謝をささげる時となっていくのです。聖霊に満たされる集まりが、聖霊に満たされた生活を形作っていくのです。そうあってこそ、毎日の生活において、光の子として歩むことができるのでしょう。

 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(8節)。

 
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