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「来て、見なさい」

2008年1月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章35節~51節

何を求めているのか

 洗礼者ヨハネが二人の弟子たちと一緒にいましたとき、そばをイエス様が通りかかりました。ヨハネはイエス様を見つめ、「見よ、神の小羊だ」と叫びます。その前日もヨハネはこう言っていました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)。ヨハネの言葉を聞いて、ヨハネの二人の弟子たちはイエス様について行きました。ヨハネの言葉が何を意味するのか理解していたわけではないでしょう。しかし、とにかく何かを求めてついて行ったのです。

 そのような彼らにイエス様はこう言われました。「何を求めているのか。」――実は、これがヨハネによる福音書におけるイエス様の最初の言葉なのです。この言葉がイエス様の第一声として記されているのは、とりもなおさず、これが読者への第一の問いでもあるからなのでしょう。「何を求めているのか。」そして、この問いは福音書を読む上で最後までつきまとってくるのです。「あなたは何を求めているのか」と。

 さて、私たちは何を求めているのでしょう。二千年も後にこの福音書を開き、その言葉を聞いている私たちは、いったい何を求めているのでしょう。さらに言うならば、私たちは何を求めてここにいるのでしょう。何を求めて教会に来ているのでしょう。何を求めて毎週イエスの御名によって集まるのでしょう。何を求めてイエス様について行こうとしているのでしょうか。「何を求めているのか。」

 この問いに答えるために重要になってくるのが、続く弟子たちとイエス様とのやりとりです。次のように書かれています。「彼らが、『ラビ――「先生」という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」(38-39節)。

 その日はこの二人にとって生涯忘れ得ぬ日となったのでしょう。わざわざ「午後四時ごろ」であったと時間まで書かれています。しかし、そこで行われた会話自体は、たいした内容ではありません。イエス様がどこに宿泊しているのかを聞いた。イエス様は、「来たら分かるよ」と言った。ただそれだけのことです。そこで起こったことも、たいしたことではありません。彼らはついて行って宿泊している場所を見た。そして自分たちも泊まることになった。それだけのことです。なんらドラマチックな出会いが語られているわけではありません。これに比べたら、例えば5章に出てくる38年間の病気が癒された人の方が、よほどドラマチックな出会いをしているのです。

 では、なぜこんなたわいもない会話と出来事が記されているのでしょう。――それはこのやりとりが象徴的な意味を持っているからです。後に彼らが経験することになる、本当に重要なことを指し示しているからなのです。

 ここで繰り返されている「泊まる」という言葉は、他のところでは「留まる」あるいは「つながる」と訳されている言葉です。この福音書に繰り返し出てくるキーワードの一つです。例えば15章のぶどうの木のたとえ。ご存じでしょう。「わたしにつながっていなさい」と主は言われた。そこに繰り返し出てくるのが、この言葉です。

 彼らは尋ねました。「どこに泊まっておられるのですか。あなたはどこに留まっておられるのですか」。さて、イエス様はどこに留まっておられるのでしょう。イエス様は言われたのです。「来なさい。そうすれば分かる」と。だから彼らはついて行ったのです。ついて行って、約三年半の間、イエス様と生活を共にすることになりました。そして、そのイエス様は捕らえられて十字架にかけられて殺されることになります。さらに三日後、復活されたイエス様が彼らの中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われた。これらすべてを通して、彼らはいったい何を見たのでしょう。

 彼らは、イエス様がどこに留まっているのかを見たのです。「来なさい。そうすれば分かる」とイエス様が言われたとおり、彼らはついて行って、分かったのです。確かに見ることになったのです。イエス様がどこに留まっているのかを。どこに?――父の愛の中に。父なる神との愛に満ちた交わりの中にです。彼らはいつでも父なる神の愛の中あり、決して失われることのない交わりの中にあるイエス様を見たのです。父の名を呼び、父を愛し、父に信頼し、父の御心ならば十字架にさえ向かうその姿。そこに親子の揺るぎない交わりを見たのです。さらに復活したキリストの姿の中に、もはや何ものも奪うことのできない、死さえも奪うことのできない父との交わりを見たのです。

 そして、イエス様についていった《彼ら》はどうなったのでしょうか。イエス様がおられるところに、父なる神との交わりに、父なる神の愛の中に、彼らもまた留まる者となったのです。あの日、あの最初の日に、イエス様と一緒に泊まったように。それが本当の意味で現実となっていったのです。イエス様がいるところに、彼らもまたいるようになったのです。永遠に!

 そして、そのことが実現するために、イエス様はヨハネが言ったとおり、「神の小羊」すなわち「世の罪を取り除く神の小羊」ともなられたのでした。

 罪のないイエス様が父なる神との愛の交わりの中に留まれることは、ある意味で当然のことです。しかし、罪人である私たちが、なおも神を父と呼び、父の愛の内に留まることができるとするならば、それは決して当たり前のことではありません。特別な恵みによるのです。私たちの罪が赦され、罪の負い目が取り除かれてこそ、私たちはイエス様のいるところにイエス様と共に留まることができるのです。だからこそ、イエス様は父なる神との交わりを見せてくださっただけでなく、自ら「世の罪を取り除く神の小羊」となり、私たちの罪を贖う犠牲となってくださったのです。私たちに見せてくださったものを私たちに与えるためです。

 「何を求めているのか」。これが最初の問いでした。これが私たちへの問いでもあります。「何を求めているのか」。そう問われるイエス様は何を与えようとしておられたのか。もうお分かりでしょう。御自分が持っているもの、父との愛に満ちた交わりです。「何を求めているのか」。私たちは、イエス様が留まっている父なる神の愛を見て、私たちもまたイエス様につながり、神の愛に留まることを求めていくのです。そのためにイエス様についていくのです。そのためにここに集まるのです。そのために「世の罪を取り除く神の小羊」となってくださったキリストの体と血とにあずかるのです。

来て、見なさい

 そして、なおもう一つのことを見ておきましょう。イエス様と共に泊まったうちの一人はアンデレでした。皆さんがイエス様の十二弟子の名前を挙げるなら、真っ先に出てくるのはペトロでしょう。五十音順でもアルファベット順でもアンデレが最初になるはずなのですが、通常アンデレはペトロの後に来ます。ところがヨハネによる福音書は、イエス様と出会ったのはアンデレが先だったのだと伝えているのです。そのアンデレが、イエス様のもとにシモンを導いたのだと。

 先ほどの話では、イエス様が「何を求めているのか」と問い、さらに「来なさい。そうすれば分かる」と言って彼らを招かれました。彼らはイエス様の声を聞いて、ついて行ったのです。そして、イエス様がとこに泊まっているのかを見、イエス様と一緒に泊まった。そんな話でした。しかしここでは、イエス様と一緒に泊まった者自身が、いわばイエス様の招きの声、「来なさい、そうすれば分かる」という招きの声になっているのです。アンデレがペトロにとっての招きの声となりました。その招きの声に導かれて、今度はペトロがイエス様のもとに留まるものとなったのです。後に初代教会において指導的な働きをするのはペトロなのですが、このアンデレがキリストの招きの声となることなくして、後のペトロはなかったのです。

 さて、ヨハネによる福音書だけが伝えるこの出来事もまた、ある意味で後の弟子たちのあり方を示す象徴的な出来事であると言えるでしょう。弟子たちは、イエス様について行き、その生活、十字架における死、復活を通して、イエス様がどこに留まっているかを見、そして自らもまたイエス様のいるところに留まる者となったと申しました。しかし、彼らはキリストが見せてくださった、父なる神との交わりの中に留まっただけではないのです。そこからさらに、父なる神との交わりへと招く、キリストの招きの声となっていったのです。「来なさい。そうすれば分かる」と。

 そのことをさらに良く示しているのは、続くもう一つのエピソードです。翌日、イエス様はフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われました。フィリポについては、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった、と記されております。わざわざこんなことが書いてあるのは、既にイエス様と出会ったアンデレたちと同郷人であることが、フィリポとキリストとの出会いのきっかけとなったことを言いたいのでしょう。41節には、「まず自分の兄弟シモンに会って」と書いてありますので、次がフィリポだったのかも知れません。

 そのようにしてイエス様に出会ったフィリポは、ちょうどアンデレがしたように、ナタナエルにキリストのことを伝えます。しかし、ナタナエルの反応は冷ややかでした。彼は言います。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」もちろん、彼はメシアを待望していなかった、というわけではありません。イスラエルの伝統に生きる者として、彼もまたひたすらメシアを待ち望んでいたのです。しかしナザレ出身ということがつまずきとなりました。彼はナザレ出身のメシアなど信じたくなかった。なぜなら、ナザレはガリラヤの小さな町に過ぎなかったからです。現代の聖書辞典も「古代においてさほど意味のなかった町」と説明しています。そのような片田舎からメシアが出るわけがない、ということでしょう。

 そのナタナエルに対してフィリポが思わず口にした言葉は「来て、見なさい」でした。なんとなく聞き覚えのある言葉でしょう。イエス様も言われました。「来なさい。そうすれば分かる」。「分かる」となっていますが、これはもともと「見る」という言葉なのです。「来て、見なさい」とイエス様も言っておられたのです。(用いられている単語は厳密には違いますが、ほとんど同じ意味の言葉です。)確かにフィリポもまたここでナタナエルにとってのキリストの招きの声となっていることが分かります。

 しかし、興味深いのはそれに続くイエス様とナタナエルとのやりとりです。フィリポはナタナエルに「来て、見なさい」と言ったのです。だからナタナエルは見るために来たのです。しかし、近づいて来るナタナエルについて、イエス様はこう言われました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」。ナタナエルは、イエス様が唐突に自分のことを語られたので、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と尋ねました。するとイエス様は、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われたのです。見に来たのに、実は見られていた。ナタナエルがイエス様を知る前に、ナタナエルはイエス様によって知られていたのです。これにはフィリポも驚いたことでしょう。自分がイエス様のことを伝えたつもりでいたのに、伝えた相手はとうの昔にイエス様に知られていたのですから。

 しかし、キリストの招きの声となるとは、そういうことなのだと思います。私たちが「来て、見なさい」と言って誰かをキリストのもとにお連れする時、そしてその人がキリストと出会った時、イエス様は既にその人を見ておられたという事実を目の当たりにすることになるのです。イエス様はその人の悲しみも、苦しみも、心の中の求めも、すべて知っていてくださった。私はそんなイエス様の声に過ぎなかった。本当に「来なさい、そうすれば分かるよ」と言っておられたのは、イエス様御自身だった。そのことを知ることになるのです。

 
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